法政大学国際日本学研究所 :法政大学国際日本学研究所主催 「トランスナショナルな日本」研究会 (4) 「クィア」から見る日本文化 "Queering" Japanese Culture(2024年6月13日(木)17:30~20:00、法政大学市ヶ谷キャンパス 新見附校舎3階 A305教室)※要申し込み

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
https://hijas.hosei.ac.jp/news/20240613info.html
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※詳細は上記サイトをご確認ください。

■ 日時:2024年6月13日(木) 17:30~20:00

■ 会場:法政大学市ヶ谷キャンパス 新見附校舎3階 A305教室 【対面式で開催】
交通 飯田橋駅,市ヶ谷駅より徒歩10分

■ 報告者:
チエリー・オケ(パリ・ナンテール大学)
ピエール・ニーデルガング(パリ・ナンテール大学)

■ 司●●会:1髙田 圭 (法政大学)

■ 使用言語:日本語・英語

■ 参加費無料

【報告要旨】
日本をクィアリングする−身体とアイデンティティのVerfremdung [異化]
チエリー・オケ(パリ・ナンテール大学教授)
「クィア」というと、性的少数者(LGBTQIA+)の視点を連想されることは珍しくない。 ただし、この頭字語の「Q」は「Queer」ではなく「Questioning」をも意味する。 この観点からすれば、「クィア」は LGBTQIA+ のアイデンティティの 一つではなく、それらすべてを包含する視座と言えよう。「クィアする」という動詞は、能動態「クィアリング」としてよく使われることに注意を向ける必要がある。これは、行為、または見方の変化を示すものである。したがって、「クィアリング」とは、標準的な文化によって崇拝されている一連の作品や対象を、新しい破壊的な角度から再検討することを意味する。「日本」という対象にクィアな手法(視点)を適用するとどうなるのか?本報告では、そこに「異化作用」(Verfremdungseffekt/estrangement)が生じると主張する。SF作品がそうであるように(Darko Suvin 1979、Frederic Jameson 2005)、クィアという新たな視点を通じて世界を見てみると、通常の経験の枠組みを超えた「未来の片鱗」が現れる。こうした「異化効果」の概念を援用して、本報告では、以下のさまざまな日本の芸術作品を分析する。東京アンダーグラウンド的な二つの作品、三島由紀夫の小説『禁色』(1952 年)と松本利夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)。 また細江英公の写真集『薔薇刑』(1971 年)と森村泰昌の写真「エルダー・シスター」(1991)を扱った上で、 田亀源五郎の漫画『弟の夫』(2014-2017) についてコメントする。

「クィア」な視点から見る『間』
ピエール・ニーデルガング(パリ・ナンテール大学)
日本語の「間」という概念は、複雑でとらえどころのない概念であり、理論的な面だけでなく日常的な場面においてもさまざまに使われている(例えば、合気道や精神医学の哲学的アプローチにおいて、参照:木村敏、1988年)。とりわけクィアの観点から興味深いのは、「間」と規範との関係である。「間が悪い」または「間合い」といった表現は、「間」を時間的または空間的に捉えるものであり、「適切な間」と「不適切な間」を区別する規範があることを示す日本語表現の一つと言える。こうした「間」をめぐる規範にクィア理論を照らしてみるといくつかの興味深い問いを投げかける事ができる。例えば「間」をクィアな次元で理解できるとして、その「間」を構成する規範は、果たして「自然」なものなのだろうか?また、そこにはどのような力関係がはたらいているのだろうか?そして、「間」の適切性また不適切性を構成するこれらの規範は、異性愛規範とどのように結びついているのだろうか?はたまた、これらの規範は、われわれが「人間」と呼ぶものの境界をどのように作り出しているのだろうか?要するに、クィアの視点から「間」を捉える(または「間」をクィア化する)とは何を意味するのであろうか?