茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』より、「前書きとしての、新宿・大久保いまむかし」を公開
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茅原 健『文士村散策 新宿・大久保いまむかし』(文学通信)
ISBN978-4-86766-016-4 C0095
四六判・並製・288頁
定価:本体2,200円(税別)
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前書きとしての、新宿・大久保いまむかし
新宿や馬糞の上の朝の霜 内藤鳴雪
高層ビルが林立する新宿西口新都心。ここがその昔、牛が寝そべる牧場であったとはちょっと想像がつかない。会津藩士で佐久間象山と親交があり、柴四朗によって『廣澤牧老人遺稿』(明治二四)が残されている、酪農による栄養改善を考えた廣澤安任が明治維新ののち、新宿西口に洋式牧場を開いた。角筈の牧場からは、相模連山を従えた富士山が遠望出来たであろう。
そして、芥川龍之介の実父新原敏三は日暮里中本、王子西ヶ原に牧場を持っていたが、南口の靖国通りに面した幕末の蘭学者高野長英が葬られていると伝えられる成覚寺の付近(新宿二丁目)にも、「耕牧舎」という牧場を開設していた。芥川自身がモデルとなっていると思われる『大道寺信輔の半生』に出てくる、中学時代に訪ねた「叔父が経営していた牧場」というのは、「耕牧舎」を指しているのかも知れない。
それはともかく、その新宿、なにも新宿に限ったことではないが、郊外と呼ばれた街は、時代の波に押されて近代化していく。
山崎直方、佐藤傳蔵編『大日本地誌』(博文館)の分担執筆をして地誌(地理)に関心を持っていた田山花袋は、大正期に至って新宿がだんだん賑やかになっていく様子を東京案内の文章で、「『馬糞の中に菖蒲の花が咲く』と言つた昔のさまはもう見ることは出来ないけれど、それでももと一里塚のあつたといふ追分あたりは、近頃、京王電車の接続点などが出来て賑やかだ。昔の料理店では、竹虎などといふのがあつたが、今は潰れた」(『東京の近郊』実業之日本社・大正五・四)と言って、宿場町、内藤新宿の妍を競う遊女(菖蒲)の姿が少なくなったと、その町並みの変化を伝えている。その花袋の新宿が、馬場孤蝶の『明治の東京』(中央公論社・昭和一七・五)では、いよいよ近代化の様相を帯びてくる。
新宿近時の発達は全く文字通りに駭目に値するといはざるを得ない。いはゆる馬糞の臭ひと嘲けられたのは余りにも古い昔ではあるが、両側にあの薄ぎたない暖簾をかけた陰鬱な大建物の間に、ぽつぽつと見る影もない小商店の介在してゐた時分から、今の繁華な街路までの発達は殆ど一足とびの観がある。殊に旧市内より最も遠い部分が中心になつたのは、停車場のお陰げ、即ち、郊外開進の恩沢といはざるを得なからう。震災の恩沢も十分ある事はあるが、新宿付近が殷賑を極むるに至るのは、単に年月の問題であつたので、震災はたゞその時期を早めたに過ぎないであらう。この勢ひで行けば、東京の繁華西遷の期が遠くはなからうと思はれるくらゐである。銀座よりもこゝは野卑であると人はいふであらう。ところが野風が今の人人を引きつける力があるのだ。大衆を引きつけるにはこの野風がなければ駄目だ。銀座がだんだんこの野味に降参しだすと共に、やがては、新宿の方がその繁華において凱歌を奏する日が来るのではないだらうか。
この孤蝶の観測は当たっているようで当たっていない。新宿の野風は、速度を速め、馬糞の中に「いずれ菖蒲か杜若」が咲いたような歌舞伎町という特殊な原色の街区となって、繁華な消費空間を謳歌している。しかし、その戦後新宿の、なにか垢抜けしない繁華は、ハイカラ仕込みの銀座とは趣を異にする。
その点からいえば、考現学の今和次郎の『新版東京案内』(中央公論社・昭和四・一二)の方が、孤蝶より一五年ほど時代が下るが、新宿の将来を予見している。
新宿ホテルは恋の安息所だといはれている。細民街の旭町にある安ホテルは、これまた安価な恋の休憩所であること、一寸遠く離れて、十二軒の料理店、待合いがあるがこれも遊郭同様、時代においてけぼりを食つて、今は、恋を休める人もあまりないとのこと。無数のカフェー、二つのダンスホール、駅待合室、往来の人間洪水を巧みに利用して、こゝには思い切つた不良少年不良少女が跳梁跋扈する。一時、その中心を銀座に置くといはれた近代的不良性は、漸次移動して、今はこの新宿を中心として硬軟あらゆる都会悪を働く不良の徒、その数数百と称せられる。新宿の夜に遊ぶ紳士淑女諸氏よ、ジャズで踊つて何で更けてもかまはないからこの点だけは十二分に注意を払はれるがいい。新宿こそは、都市と近郊と地方との交流作用から生まれた異常なる高速度発展市街の代表的サンプルである。
今和次郎の昭和初年の調査、分析によると、新宿は銀座に較べてエロ・カフェが多く、三越百貨店の裏店にある軒並みのカフェ街は、大阪伝来のものではない、インチキ式のオアシスであったという(川添登『今和次郎』ちくま学芸文庫)。現在の歌舞伎町の風俗繁華を見ると、人間に持って生まれた性格というかサガがあるように、街にも生まれ落ちてからの抜きがたい性格があるのだろうか。都市計画家の越沢明は、「新宿東口方面は甲州街道の宿場町(内藤新宿)以来の商業地として盛り場が形成されていた。これに対して新宿西口には商業集積は何もなく、東京地方専売局工場と淀橋浄水場が主な施設であり、これ以外には人家と学校があるにすぎなかった」(『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫)と言うように、新宿駅を挟んだ東口と南口との歴史的相貌を俯瞰している。
関東大震災で焼け、太平洋戦争の空襲で灰燼に帰した東口周辺には、根付きの盛り場が蘇生する。昭和五六年で創立三〇周年を迎えたという、商業地として繁昌した新宿東口は、新宿商店街連合が発刊した記念誌『商業の街・新宿』(昭和五六・一〇)に語られているように、新宿を「商店街」という視点から回顧、編集されている。そして、商業集積がなく、官許の施設と学校のあった西口は、淀橋浄水場が埋め立てられ、都市開発によってオフィス街となり、東京都庁が都市景観としてはそぐわない装いで登場して、東京都の行財政の中心地区となった。
新宿の歴史を語った本は沢山ある。なかでも、相馬黒光の自伝『黙移』(平凡社ライブラリー)は、明治、大正、昭和の新宿・中村屋を中心とした奮闘の文壇史である。また、紀伊國屋書店の創設者、田辺茂一の『わが町・新宿』(サンケイ)は、文字通り新宿の回想で、京王電車のつり革によって英語の原書を読んでいる私の祖父茅原華山が登場したりする。そして、関根弘の『わが新宿―叛逆する町』(財界展望新社)は、鋭利な切れ味で地鳴りのする新宿論である。その他に、本文中に引用したものとは別にざっと手許にある新宿をテーマに書かれた本の背表紙を見ても、新宿の歴史を独特な切り口で描いた著書がある。阿坂卯一郎著『新宿駅が二つあった頃』(第三文明社)、森泉笙子著『新宿の夜はキャラ色』(三一書房)、木村勝美著『新宿歌舞伎町物語』(潮出版)、窪田篤人著『新宿ムーラン・ルージュ』(六興出版)、芳賀善次郎著『新宿の今昔』(紀伊國屋書店)、野村敏雄著の『葬送屋菊五郎―新宿史記別伝―』(青蛙書房)、『新宿裏町三代記』(青蛙書房)、『新宿うら町おもてまち―しみじみ歴史散歩―』(朝日新聞社)、『新宿っ子夜話』(青蛙書房)などである。
そして、新宿と文学をテーマにまとめたものに、『新宿と文学―そのふるさとを訪ねて―』(東京都新宿区教育委員会・昭和四三・三)がある。その構成は、第一部が「区内を描写した作品」とあって、神楽坂、横寺町などをはじめ区内を題材とした文学作品を抜粋した編集がしてある。例えば「大久保」では、田山花袋、森田草平、金子薫園、大町桂月、戸川秋骨、高濱虚子などが大久保を語った詩歌、小説として紹介してある。そして、第二部は「区内に居住した作家」として、小泉八雲、坪内逍遥などの作品抜粋が並んでいる。これらは本編でもその一部を活用した。
これらとは趣を異にするのが、戦後刊行の特殊な意味合いを付加した「風俗」と漢字で書くより、「フーゾク」という言葉で表象される「雑踏と猥雑」の歌舞伎町を中心として描いた、劇画調の小説やルポルタージュ風のものが圧倒している。暴力団関係者二万人、不法滞在外国人三万人、風俗関係者二万人がたむろするといわれる歌舞伎町である。「ルソンの谷間」で、第三七回の直木賞を受賞した作家の江崎誠致は、戦後の新宿をコスモポリタンのように見定めている(『新宿散歩道』文化服装学院出版部・昭和四四・四)。
新宿は誰の街でもない。新宿はただひたすら群集の街である。来るべきものはすべて拒まない。誰でもいつでもこの街の人間となることができる。銀座や浅草のように、それらしい気質を必要としない。「新宿かたぎ」という言葉は、昔も今も存在しない。
かつて、「龍角散」のテレビコマーシャルで、浴衣姿の漫画家の滝田ゆうがタクシーを拾って、「角筈まで」というと、運転手が「西新宿ですね」というのがあった。これは滝田ゆうが懐古のオジサンで、運転手が職業意識のしっかりしたドライバーという問題だけではなそうだ。益体もない行政の便宜のために、町の歴史を抹消する町名変更が問題になったことがあった。今では、この新宿西口の高層ビル群のなかで、「淀橋」とか「角筈」というひと昔前の地名を思い出す人は少ないだろう。大袈裟にいえばコスモポリタニズムの浸透である。
こういう一種の感傷の延長線上として、とくに明治、大正期の文士たちの多くが住み、また、往来した西大久保一丁目界隈を見ると、そこには、歌舞伎町二丁目という戦後の地図が覆い被さっていて、私が生まれ育った西大久保一丁目四九七番地ともども緑陰のある西大久保は、地中に埋もれてしまったのである。
新宿歴史博物館発行の『常設展示図録』の中に、近代文学研究者の竹盛天雄が「独歩・花袋・ 藤村・葉舟らと「大久保」―新宿と近代文学の一面」という論考を書いている。これは、田山花袋が東京近郊を「都会と野との接触点」という言葉によって位置付けたのをキーワードとし、変貌していく市街地を「生きられる空間」として守るという問題提起をしているのである。
しかし、激変していく現代都市は、守るとすべき生きられる空間を喪失している。区画整理が出来なかった大久保地域は、防災、緊急医療などの機能が十分に果たせない地区となっている。しかも、牛が寝そべっていたという淀橋は、あたかもバベルの塔のごとき高層ビルが林立し、無機化した人口の集積地、新都心新宿西口となり、ツツジの名所であった西大久保は、混沌とした風俗の坩堝と化して、言語疎通が不可能ともいえる雑踏の歌舞伎町となった。この現実は如何ともし難い。だからこそ、「生きられる空間」の確保が必須ということだろうか。
昔は良かったといってもはじまらない。都市の相貌は、時代の変化を如実に表現していて、それが歴史というものだろう。だから、私の大久保文士村発掘は、大内力の言葉を借りれば、「亡郷の民」の生地に対する挽歌であり、鎮魂の譜でもある。生まれた土地は、蒙古斑の如く人の人生に付きまとう。それは、もしかすると「ゲニウス・ロキ」(地霊)の仕業かも知れない。田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)の「東京の発展」に次のような一節がある。
概して、東京の郊外は、新しく開けたものだ。新開地だ。勤人や学生の住むところだ。そこには昔の古い空気は少しも残つてゐない。江戸の空気は、文明に圧されて、市の真中に、寧ろ底の方に、微かに残つてゐるのをみるばかりである。かうして時は移つて行く。あらゆる人物も、あらゆる事業も、あらゆる悲劇も、すべてその中へと一つ一つ永久に消えて行つて了ふのである。そして新しい時代と新しい人間とが、同じ地上を自分一人の生活のやうな顔をして歩いて行くのである。五十年後は? 百年後は?