神話「学」入門〈第3回・「世俗的な物語」の時代に神話は何を語るのか〉(植朗子)|『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』刊行記念リレーエッセイ

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

shinwagakunyumon.jpg

さまざまな地域・時代・分野から神話を徹底的に論じた書、『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』。本書の出版を記念して、編者3人によるリレーエッセイを、週1回のペースで配信いたします。テーマは【神話「学」入門】。神話を学ぶことの面白さを感じとっていただければと思います。


神話「学」入門
〈第3回・「世俗的な物語」の時代に神話は何を語るのか〉

著・植朗子

■「神話」はなぜ語られるのか?

 神話は「わたしたち」の「身近な」物語といえるのか?―世界のはじまり、生物の誕生、自然の脅威、不条理な運命、幻想的な動植物、奇跡、英雄、世界のおわり...神話ではさまざまな事柄が語られる。

 しかし、目前にある悩みや苦しみを、神話の中の「神」は具体的には解決してくれない。なぜ神は私を、人々を苦難から救わないのか。もともと私が「神の物語」を読む目的は、そんな疑問に対する答えを探すための作業からはじまった。神の存在が近くに感じられないこの時代に、神話はいったい何を語るのか。

■「神話」と世俗的な「伝説」

 「神話」が何を語るのかという問いの前に、「神話」の語りの目的を確認しておく。とりも直さず、その目的とは、人々が「神話」に何を求めているのかという問いであろう。

 「神話」とは、伝承文学の三区分の一つであり(他には伝説、メルヒェンがある)、私の専門はその中の「伝説」(ドイツ語ではSage)である。伝説の特徴は、その内容を「事実」として伝えようとすることにある。

 実際のところ、私の関心は、想像された体系=一貫した物語をもつ「神話」というより、「神話の痕跡をわずかに含む、世俗的な伝説」に向かっているのかもしれない。病を癒す泉や薬草の話、災害から人が救われた伝承、死者が甦ったという言い伝えなどがそれにあたる。これらは、ささやかな日常を舞台とした奇譚ではあるが、神の姿が、あるいは神話の影が見え隠れする。このような「世俗的な物語」に、人々が「神話」を希求する理由の一端が見つかるのではないかと思った。

■「神話」からポップカルチャー研究へ

 「神話」と「世俗的な伝説」とのつながりを考えることは、やがて「わたしたち」、それぞれの「個」が欲する「神話」とは何か、というテーマにつながっていく。そんなおりに、webサイト「AERA dot.」(アエラドット)https://dot.asahi.comで、伝承文学研究の手法を使って、マンガ『鬼滅の刃』について論じるという機会に恵まれた。

 説明すら不要であろうが、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載されていた、吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)氏の『鬼滅の刃』は空前のブームを巻き起こし、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は邦画史上に残る大ヒットとなっていた。そしてこのブームの影で、コロナ禍による行動規制が、"偶然"に『鬼滅の刃』のヒットにつながったという揶揄、少年少女のキャラクターがわが身を捨てて戦う姿が、軍国主義を思い起こさせると筋違いな批判が話題にのぼることがあった。しかし、この物語に人々が求めたのは、そんなことだったのか。

 たくさんの作品解釈がなされる中、自分の視点を忘れないために私が気をつけたことは、「作品そのものから離れない」ことと、「伝承文学研究の視点から離れない」ことだった。『鬼滅の刃』には、神話的な要素が作品の至るところに周到に用意されていた。それを掘り起こし、過剰にならず、不足のないように解釈することを目指した。

■『鬼滅の刃』の神話的な要素

 『鬼滅の刃』はある善良な炭焼きの少年が、留守の時に家族を鬼に惨殺され、生き残った妹が鬼に変えられることで物語がはじまる。夜と朝、闇と光、太陽、自然界の力、鬼、鬼を滅殺するための刀、夢、走馬灯、死者の言葉、このように神話的なモティーフがふんだんにみられる。

 おそらく作者の吾峠呼世晴氏は古典への造詣が深く、意識的にそれらが使用されている。しかし、この作品の決定的な特徴は、「神仏が人間を救うために姿をあらわさない」ことであった。現実世界の苦しみの中で、生き残った人間が、誰にも救済されなかった人間(=鬼)と、それぞれの「生」をかけて戦う。

 19世紀ドイツにおいて、伝承文学研究の礎をつくったグリム兄弟の弟・ヴィルヘルムは、「メルヒェンの本質について」(Wilhelm Grimm : Über das Wesen der Märchen. )という論考の中で、「自然全体に命を見出すこと」、そしてそれらが「苦難を負わされた人々に語りかけ、贈り物を与え、彼らを救済する時、彼らに崇拝される神的な存在として顕現する」と述べたことがあった。

 主人公の竈門炭治郎ら、鬼殺隊の隊士たちが使う「呼吸」という技は、日・炎・水・風・岩など、まさに自然界の力の顕現をあらわしている。『鬼滅の刃』は「神不在」であるにもかかわらず、ふつうの人間が「日輪刀」(※鬼を滅殺するための武具)とその身に「神的な自然界の力」を宿して戦う、「新しい神話的物語」であった。

■「わたしたち」の新しい「神話」

 『鬼滅の刃』では、登場人物たちが神仏について語る箇所がいくつかある。ある2人の兄が、弟妹を失いかけた時、神仏に向かって叫ぶシーンは名場面としてよく知られている。

「元に戻せ 俺の妹を!! でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」(妓夫太郎/『鬼滅の刃』11巻・第96話「何度生まれ変わっても(前編)」)

「あ゛あ゛あ゛あ゛頼む神様 どうかどうか弟を連れて行かないでくれ お願いだ!!!」(不死川実弥/『鬼滅の刃』21巻・第179話「兄を想い 弟を想い」)

わたしたちは絶望の最中に、答えてくれもしない神に願う。その心からしぼり出されるような叫びは、神がいないこの世の中で、言葉から物語となって語り継がれていく。こうして「わたしたち」ひとりひとりに寄り添う物語として、「新しい神話」が生み出されていく。

 人の世がはじまる以前の物語、神々の営為を伝える物語、国家や共同体の理想を語る物語、という枠組みを超えた、新しい「神話」の誕生は、神話学にも新たな知見を加えていくことだろう。神話を学ぶ視点の多様な広がりを、『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』からも感じ取っていただければ、これほどうれしいことはない。

●本書の詳細は以下より

9784909658852.jpg

清川祥恵・南郷晃子・植朗子編
『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』
(文学通信)
ISBN978-4-909658-85-2 C0014
A5判・並製・368頁
定価:本体2,800円(税別)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-85-2.html