第8回 ふくしまから遠く離れて――駒田晶子『光のひび』・市野ヒロ子『天気図』|【連載】震災短歌を読み直す(加島正浩)

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第8回
ふくしまから遠く離れて
――駒田晶子『光のひび』・市野ヒロ子『天気図』

ひびわれてゆくふるさと

 第7回で扱った三原由起子は、生まれ育った福島県(浪江町)を離れて、東京で活動する歌人であった。今回も故郷は福島県で、震災時には福島県外で生活を営んでいた歌人をふたり扱う。駒田晶子『光のひび』(書肆侃侃房、2015年11月)と、市野ヒロ子『天気図』(いりの舎、2019年2月)である。

 駒田は福島市生まれの歌人で、現在は仙台市在住である。彼女は、2011年3月11日には、出産のため入院していた。

〈未曾有とう言葉の遠さ 揺れつづくベッドの上でラジオを聞けり〉

 ラジオでは「未曾有」の災害と報じられるも、地震・津波を被った「被災地」と、自分が入院している病院との距離は、遠い。また、遠いのは「被災地」だけではなく、出身地である福島との距離もである。

〈フクシマと言えば眉根をひそめられ黄の水仙の風に揺るるを〉

 書き言葉のように口にする言葉には、フクシマや、ふくしま、福島と書き分けることはできないが、福島といえば「フクシマ」と広く捉えられる時期はあった。福島県に居住している人でも、太平洋側の浜通りには放射線量が高い地域が存在し、中心部の中通り地区における低線量の被曝をなかったことにしている行政に反発して、現在でも「フクシマ」の表記を使っている人もいる。(もちろん、「事故」以後から「フクシマ」の表記に一貫して反対する人もいる)

 しかし、ふくしま、という音を聞いて、眉根をひそめるのは、福島に地縁を持たない人であるように思う。駒田が「フクシマ」と言ったわけではなく、眉根をひそめる人の反応が、ここでは、ふくしまを「フクシマ」にしたのであろう。

 付け加えれば、黄色の水仙(黄水仙)の花言葉は「私のもとへ帰って」である。〈ふくのしま花も実もある平凡なふるさとともう誰も笑えず〉とも詠う駒田が「帰って」きてほしいと思う「彼女にとっての」福島とはどのようなものなのだろうか。

〈逃げてった帰ってきた地震ののちに罅われてゆくわれのふるさと〉

 確かに、「震災後」・「原発『事故』後」という言い方(私が原発「事故」と表記するのは、それが「予期されないもの」であったという見方をとらないためである)は一般的に定着したが「地震後」という表現は定着していないように思う。それは、地震が直接何かを引き裂き、分断をもたらしたというよりも、地震よりもあとに生じたことが(それは行政の対応も含む)人々のあいだに様々な「ひび」を入れたからであろう。余震を「逃げてった帰ってきた地震」とする駒田の表現も面白いが、地震以上に、地震よりもあとに起こったことが、いまに影響を与えているということであろう。しかもそれは「罅われてゆく」と現在進行形で語られる。駒田のふるさとは、ひびわれ続けているのである。

 また「罅」という表現も言い得て妙である。「罅」は隠すことや、目立たなくさせることができるスマホの画面の全面にひびが入っていても、無視して使い続ける人もよく見かける。なるほど、震災と原発「事故」が生じさせたものは「罅」であったのか。それを必死に隠し、目立たなくさせようとし、どうにもならなくなれば無視するというのが、これまでの日本/日本人が行ってきたことであるなと、やや飛躍があることは承知しながらも、「罅」という表現から思わざるをえない。〈加湿器の給水ランプ点滅すわたしのふくしまはいつ冷える〉とも駒田は詠んでいるが、一向に福島第一原子力発電所の「事故」が収束する兆しはない。福島に生じた「罅」を無視して、岸田政権は原発再稼働、新型原子炉の開発へと舵をきろうとしているともいえる。彼女のふくしまは(それは「事故」で「フクシマ」となる以前の福島である)冷えきることなく(あるいは「フクシマ」であることが隠蔽されたまま)いまを迎えて、罅われ続けている。

■過去のうえに、福島のいまがある
 
 しかし、福島に罅が入ったとしても、福島が積み重ねてきた過去は消えることはない。誰かとの関係に罅が入ったとしても、その人と重ねた過去が消えないことと同じである。それを示しているのが、市野ヒロ子『天気図』であると考える。

〈原発事故避難者用の住居建つ廃坑めぐらす地層の上に〉

 原発「事故」避難者用の住居が建つ前にも、建物は存在したのであり、それが廃坑であったということを市野は知っている。市野もまた福島県いわき市の出身者で、現在は東京在住である。いわき市で幼少期を過ごした記憶があるからこそ、「避難者用の住居」が建った場所が、かつて廃坑であったと彼女にはわかるのである。

 そのため、「事故」以後の市野の表現には、「事故」以後に福島と縁を持つようになった人間には知りえない視線がある。たとえば、以下のような詞書ことばがきがついたうえで詠まれる二首がそれである。

いわき復興祭in東京。炭鉱業界が衰退するなか。常磐炭鉱(現常磐興産)は観光業へも進出し、一九六六年、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を開業。フラダンサーとなったのは、炭鉱関係者の子女であった。いま、震災と原発事故の災厄に苦しみながら、舞台で踊る若者たちの顔には、当時に似た危機感があつた。


〈フラダンス群れ舞ふ若きダンサーのひたむきさ眼をつらぬくごとし〉

〈くるしみに華やぐダンス閉山の炭鉱ヤマの娘の意気を伝へて〉

 いわき市にあるリゾート施設ハワイアンズでフラダンスが目にできることは、いわき市に行ったことがある人であれば、知っていることかもしれない。施設を訪れたことがある人は、フラダンスのショーがほぼ毎日行われていることも周知のことだろう。また、市野が触れるいわき復興祭でのフラダンスを実際に見た人は、一首目のように「ダンサーのひたむきさ」を感じ取ったかもしれない。

 しかし、その「ひたむきさ」が、炭鉱産業が斜陽となった際に立ち上げられたハワイアンズの創業当初の「炭鉱の娘の意気」に連なるものであるという見方は、その当時を知るものでなければ、ありえるものではない。故郷を離れていても、福島で育った人にのみ見えるものがあるかつてそこで育った人々、「事故」以後で避難し続けることを選んだ人にとっても「その人にとっての」福島がある。その人にのみ見える福島がある。

■福島は、いま福島に住んでいる人たちだけのものではない
 
 〈東京に来て長いかと問はれつつふるさと人とわれのへだたり〉とも市野は詠んでおり、震災以前から故郷を離れていた人と、震災時に故郷を離れるしかなくなった人のあいだにも「へだたり」はあるのだろう。
しかし、福島は、いま福島に住んでいる人たちだけのものではない市野は〈たふれ伏す祖先の墓に手をあはすこみあげてくるものに耐へつつ〉、〈墓参り果たしてこころ安らげり故郷失ふごとく過ぐして〉という歌も詠んでいる。「故郷は遠くにありて思うもの」と、わざわざ述べる必要はないようにも思うが、福島にいま住んでいる人よりも、福島から離れた人の方が故郷を思う気持ちは強いのかもしれない「あの故郷に帰ろかな、帰ろかな」(千昌夫「北国の春」)ではないが、いつか帰れる場所があるというのは、故郷から離れて生活する人にとっての支えとなりえる。そうでなければ、駒田や市野のように、ふるさとを悲痛に詠んだ歌が生まれるはずはない。(そもそもいま福島に住んでいる人が、地域名をではなく福島全体を指して「ふるさと」と呼ぶことは、少ないように思う)市野が〈たふれ伏す祖先の墓に〉手を合わせて〈こみあげてくるもの〉があったのは、自分のふるさとが、「自分のふるさと」のままではなくなってしまったことへの思いであろうし、〈墓参り果たしてこころ安らげり〉というのは、それでもかつてと同じようにお墓があることに救われる思いがしたからであろう。

 また市野は、「私」にしか見えない/感じないものを敏感に捉え、歌にしている歌人であるように思える。たとえば、以下の歌をみてほしい。

〈父母と蕨摘みにし仏具山痛みにも似て浮かびきたれり〉

〈店頭に春のひざしのうすく射しかの大地おほつちの揺れよみがへる〉

〈ふり仰ぐ空は早春の光満ち累累として死屍のまぼろし〉

 仏具山ぶつぐさんは、いわき市にある弘法大師が山中に仏具を納めたという伝承が残る「信仰の山」である。お盆に供えるミソハギ(禊萩)が多くみられることでも有名であるそうだ。その山で「父母と蕨」を摘んだ記憶は、そこで幼少期に育った人にしかないものであり、市野にしか感じられない「痛み」であろう。

 他にも春のひざしがうすく射している様子から地震を思い出したり、見上げた空に光が充ちている様子から累々と連なる屍の姿を幻視したりするというのも、市野だけが捉えた光景であるだろう。ちょっとした日常の風景から、震災の記憶を思い出すというのが「震災後」を生きる人の「日常」であるのかもしれない。しかし、何を見て、どのような記憶を思い出すのかは、ひとりひとり異なっているだろう。その瞬間を捉まえることで歌は生まれるということを市野は示している。

 また駒田にも以下のような歌がある。

〈仏壇のある家に来てみどり子は見えざるものに両手をあげる〉

〈さろはんてぷ、と書かるるメモ用紙セロハンテープと書きたかりしか〉

 幼子にしか見えない何かがあることが詠まれ、セロハンテープを「さろはんてぷ」と認識する幼子独自のまなざしが詠まれている。私たちも、自らが積み上げた過去に基づき、私にしか見えない景色をおそらくは眼にしている。ある光景をみたときに、他の人とは異なる認識をしている瞬間がある。

 福島に住み続けている人/震災以前から福島に地縁がある人/震災後に福島と地縁ができた人/これから福島と関わろうとする人、とでは、同じものを見ているようで、全く違うものを見ているということがきっとある。おそらく土地の記憶を全く持たない新たに生まれてくる人が、福島を眺める景色も、きっと私たちとは異なっている。

 そのときに私たちが、どのような福島/日本を手渡していくのか、どのようなものとして彼ら/彼女らの眼に、福島や日本は映るのだろうかと、ときに自分の仕事を振り返りながら考えることが、大切なのかもしれない。

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