神話「学」入門〈第1回・時代を超える好奇心〉(清川祥恵)|『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』刊行記念リレーエッセイ

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さまざまな地域・時代・分野から神話を徹底的に論じた書、『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』。本書の出版を記念して、編者3人によるリレーエッセイを、週1回のペースで配信いたします。テーマは【神話「学」入門】。神話を学ぶことの面白さを感じとっていただければと思います。

神話「学」入門
〈第1回・時代を超える好奇心〉

著・清川祥恵


■「遠い」物語をいかに学ぶのか

 阿刀田高氏に、『ギリシア神話を知っていますか』(新潮社、1981年)という著作がある。ほかにも聖書やコーラン、源氏物語、谷崎潤一郎らを扱った「知っていますか」シリーズが発表されつづけており、現在、文庫版や電子書籍でも読むことができる長寿の人気シリーズとなっている。この「知っていますか」という問いかけは、知らないということを認識したことがなかった、あるいは、知っているつもりだけどより深く知りたい、という読者にとって、いっそう好奇心をかきたてるものだ。「知っていますか」と問われたとき、わたしたちはあらためて自問し、(ソクラテスの言を借りれば)まさに無知な自己を認識することで、学びの第一歩を踏み出すからである。

 「ギリシア神話を知っていますか?」実際そう尋ねられたとき、あなたならどう答えるだろうか。また、同じように「知っている」と答えた人でも、「ゼウスの名前は知っている」という程度の人もいれば、「ある有名なスポーツ用品ブランドのロゴは、サモトラケ島出土の首を欠いた彫像で有名な有翼の女神に由来する」(ちなみにNIKEのことである)というような、いささか雑学的な情報を持っている人もいるだろう。あなたはそれを、どのようにして知ったのだろうか。

 ギリシア神話は、わたしたちにとって、少なくとも時間的には「遠い」物語である。英語では "It's Greek to me"が「まったくわからない」という困惑を意味することからも、古代ギリシアとの距離感の遠さはつかみやすいかもしれない。19世紀にアメリカでギリシア神話の紹介本を出版したトマス・ブルフィンチも、こうした「遠い」物語をいかに学ぶのか、という問題について、著書の「はしがき」のなかで次のように述べている。

しかし神話を勉強するにしても、ギリシア語やラテン語の助けをかりずにそれを学ぼうとする人たちにとってはいったいどのような方法をとればよいのでしょうか? とても信じられないような不思議な出来事、それにもうとっくに廃れてしまった信仰、こういったものに主として関係しているこの一種の学問に対して、勉学の力を捧げるなぞということは、現代のような実利的な時代に生きる一般の読者の皆さんには期待できることではありません。(『完訳 ギリシア・ローマ神話』上巻、大久保博訳、2004年、角川文庫、11-12ページ)

 今日でも、神話を「学び」たい、という動機を持つ人々のなかで、古代ギリシア語やラテン語を習得し、最古のテクストをさがして丹念に読み、解釈したいという人は、決して多くはないだろう。ブルフィンチも一般読者にたいして、「神話の中の物語を、それが楽しみの源となるような方法でお話ししてゆきたい」(同13ページ)と述べており、おそらく当時の読者たちも、ゼウスの多情さに目を瞠り、身近なものに神々にちなんだ名をつけながら、神話を単純に楽しみ、「学ぼう」としたことだろう。そしてほかならぬ、こうした「遠い」存在への好奇心が、世代を超えて受け継がれることで、神話はますます多くの人々をつなぐ、意義深いものになっていくのである。

■テクストに収まらなかった「余地」の可能性

 なぜ、生きる時代も〈地〉も違う人々が、難解な言葉で綴られた物語に惹かれつづけるのか。ひとつは、いまや難解になってしまった言葉の向こうに、実は自分にとって親しみぶかい何かが、現代の創作物よりも、はるかに自由な想像の対象として存在しているからかもしれない。たとえば、わたしたちが「ゼウス」を語るときに頭の中に描く姿は、人によって千差万別だ。ある人には威風堂々たるオリュンポス十二神の長であっても、ある人にとっては「ゲス不倫」男にすぎないかもしれない。2022年のマーベル映画『ソー:ラブ&サンダー』では、ズース(ゼウス)は同じ雷神であるソー(北欧神話のトールに着想を得ている)と瞭然たる形で対比されており、従来の描写とはまったく異なる印象を受けた人もいるだろう。ゼウスを含む神話のキャラクターたちは、近代小説の登場人物のように最初から文字によって絶対化された存在ではなく、人々の記憶や語りを介して、複数の声の響き合いによって描かれてきた。ゆえに、テクストとして書き残されたのちも、テクストに収まらなかった「余地」が前提される存在なのである。

 もちろん、立派な神々を「脱構築」して矮小化したり、バラバラに解体してしまうことには、「ポスト・ポストモダン」的観点から批判もあるのだが、各々が一様ではない神話世界を語りつづけることにより、ますます拡大してゆく世界のなかでも、さまざまな人々の過去と現在、未来をつなぎあわせることができる。あり得べき世界を想像することこそが、神話の意義を理解するための「学び」の確かな一歩である。「神話学」という学問領域自体についての入門は、すでに存在するすぐれた専門家の手になる著作をご覧いただくとして、神話を「学ぶ」ために必要な好奇心について、わずかなりとも刺激することができれば幸いである。

■神話学への入門文献リスト

▶︎松村一男『神話学入門』講談社学術文庫、2019年。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000319691

▶︎山田仁史『新・神話学入門』朝倉書店、2017年。
https://www.asakura.co.jp/detail.php?book_code=50025

▶︎後藤明『世界神話学入門』講談社現代新書、2017年。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210943

▶︎平藤喜久子『神話でたどる日本の神々』ちくまプリマー新書、2021年。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480684158/

▶︎植朗子・南郷晃子・清川祥恵(編)『「神話」を近現代に問う』勉誠出版、2018年。
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100871

▶︎Segal, Robert A. Myth: A Very Short Introduction (2nd edition). Oxford University Press, 2015.
https://www.oupjapan.co.jp/en/products/detail/3495


●本書の詳細は以下より

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清川祥恵・南郷晃子・植朗子編
『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』
(文学通信)
ISBN978-4-909658-85-2 C0014
A5判・並製・368頁
定価:本体2,800円(税別)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-85-2.html