黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「開拓忌三十三年」を公開
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黒澤 勉・小松靖彦編
『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録
堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』
ISBN978-4-909658-71-5 C0036
四六判・並製・252頁
定価:本体2,400円(税別)
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開拓忌三十三年
昭和九年〔一九三四年〕三月の初、大同年間に私は奉天北大営国民高等学校に職員として渡満した。初めて経験する満洲農業だったので生育調査と植物生理学的追求をして満洲農業を考えてみた。奉天からハルピンに学校全部が移転、これは小野少佐の努力で実現した。
奉天にいた当時、第三次瑞穂村が入植する時、団長の林恭平は京大出身で正規の軍籍は経験していなかった為、関東軍が反対し、しばらく私共と奉天で待機していた。瑞穂村の先遣隊も北大営に待機し、私はその寮の寮長をしていた。
特に私の寮にいた宮城県南郷村出身の少年達が、東宮大佐の要請で饒河に入って行き満軍の軍籍に編入されながら大和村の建設を目標とするため奉天北大営から出て行った。
この人達が義勇隊創設のきっかけになった人々でした。豪快な男、西山勘二にひき連れられ「いざカマクラ」となればアムールを渡ってシベリヤ鉄道を爆破するんだ......とさえ語り続けていた少年達でした。
昭和二十年〔一九四五年〕八月九日、ソ連軍は、どうもこの饒河を殲滅したらしく、私はそこの引揚者を三十年間探し歩いたが、一人も発見できない。
私が訓練にあたっていた第三次瑞穂村の人達を残して林団長が海倫農学校を兼務していて、そして応召した。
その校長職を私にやれと要請されたが、私は断って五福堂から離れなかった。
その第三次瑞穂村が終戦後現住民と治安維持隊にせめられ、遂に自決に追いこまれてしまった。それは団長が不在だったからだ。その北大営部落に花嫁となり嫁いでいた私の郷里の人も母子全員死亡している。
郷里の人の中には「親が吾子を殺したんだから自分で死んだのは当然のむくいだ...」と戦禍をしらない日本の人々は批判していた。
私は残念で残念でたまらない心境が続き、それが年が経つにつれ、益々募ってくるばかりであった。
「生きて帰った...」ことは私の母を驚かせたらしい。私は当然殺される運命の人だと私の母は考えていたらしいが、生きて帰ったことに心から喜こんでもらった。
私の母が私を待っていたと同じ運命の人は「吾子は帰ってこない...」と泣いた母親となった人、一体何万人あったでしょうか。
それを考える私は安楽に日本で暮らし、安楽に年金をもらって生活する人生計画など、むしろ「団員達を裏切る団長」になるような気がしてならなかった。
「岩壁の母」の歌をきく時は、いつもそんなことをふっと考えてしまう。
私は満洲開拓をやって農家と農村を良くする以外は何も考えなかった。加藤完治先生が新京会議のとき、義勇隊を引きうけろ...と各団長にせまられた夜、私はきっぱり断った。先生は「堀君、何んで反対かねエ」といったので即座に答えた。「同年令だけの人達だけで開拓村を創設することはできないだろう。農村は老幼男女が混成していて、当り前の人達が農業をやってゆく場所なので、理々特別の社会を創設する考え方には同意できない。そのうち、青少年達は身体が強健だから、ぞっくり兵隊に連れて行かれてしまうだろう...」加藤先生は黙ってジローと見て考え込み第二次の宗団長も一歩置いた考えを表現をしたので、先生と初めから満洲開拓を創設した第一次の山崎芳雄団長に向き直って、例の渋い声で言い出した。
「山崎君、君が引き受けてくれ。いいねエ」
「ハイ」
これで山崎団長が伊拉哈に訓練所開設を決心したのは、昭和十二年〔一九三七年〕九月の第一回団長会議の前夜であった。
当時、五福堂は黒龍江省から龍江省に編成替したばかりであったから、龍江省に連絡旁々チチハルに出た。龍江省次長の神尾という人は伊拉哈訓練所のアンペラ造の天地根源宿舎は不衛生で、青少年の逃亡者が増え、その保護で大へんだ......団長達は偉いことをやってくれたものだ。後始末は満洲国側がやらなけりゃいかんことになった、と気炎をあげて批判していた。私はそれでも、やり出した以上、青少年義勇隊運動には協力しないと、私は恩師加藤先生にすまないと決心し、神尾次長の言辞には何も答えず、用件をすませて五福堂に帰団した。
未墾地に入植した私は、この開墾は満拓のトラクター班がやってくれたので良かったが、次年度からの農耕には、全く農具が無かった。
考え込んでいる所に満拓にいた農機具係の玉村がきた。彼は東大出身で、私とよく競技場で顔をあわせていた間柄だったから、思い切って、アメリカ製のインター会社から畜力用大農具を大量導入を彼にたのんだ。それを聞きこんだ加藤完治先生が、私に手紙をくれて「農具と家畜の導入を急ぐな」と注意してきた。私は加藤先生の訓辞にそむいて、金で解決できる農具と家畜導入を急速に実行した。満人に依存しない村造りは、先ず日本人の能力を発揮する前提条件を創り出すことだと信じていたので、先生には申し訳ないが、「やれやれ」と前進を決心したのであった。後に綏稜の長英屯義勇隊溝口団長が訪ねてきて、アメリカ製のリーパーを譲ってくれとたのみにきた。その時代はもう日本の農機具界は戦時産業の影響をうけて、大農具の製作は駄目になっていた。
こんなことを思い出すと、開拓団の建設は、関東軍も日本政府も満洲に本当の農民と農村造りに頭が向いていなかったように思えてならない。
ひいては、我々団長クラスも、知らないうちに団員達の農村建設の理想にブレーキをかけていた様に思えてならない。
最も私が「これは大変だ」と考えさせたことは、昭和二十年〔一九四五年〕四月、北安省の団長会議に於て開拓総局長五十子巻三が、「満洲開拓民の生命財産を関東軍に奉還する」運動案の説明演説をきいた時である。どう考えてみても血迷った政策としか考えられない...何で私達開拓民は挙げて通化省に集結して、百年戦争などしなければならないのか......私は三十四才の若手、古参団長であったから代表して五十子局長と、列席の関東軍参謀にその案の不当を難詰した。そして、せめて団長だけは召集するなと総動員法にたてついた。それからは、いろいろの情報がブッツリ切れて流れてこなくなってしまった。
今思えば、昭和二十年の当初から関東軍や政府は、開拓団のことなど全く考慮に入れていなかったし、又私は肌でそれを感じていた。「もう誰にもたよれない」と私は心の底で決心したのはこの日からである。終戦直前の大量召集令状がきた。洪水で汽車不通となり、入営見込が立たなくなった時、私は団員の召集令状を集めて燃やした。
しかし、いくら団長が何を決心しようが、僅か二百戸八百人の人口で孤立国など造れる筈はなかった。それだけに終戦後の団員家族は「被保護」という国民の権利など爪のアカほども無くなり「敗戦民族として草原の中で孤立」する結果となったように思えてならない。
それから三十年、昭和四十七年〔一九七二年〕から岩手における総ての公務を捨てて、私の団員家庭の訪問に着手した。
今まで忘れていた私の呼名「団長」という呼称が再び使われ始めたのであった。
枕を並べて共に寝ても深夜まで話が尽きない毎日が続いた。
死んだ子供のこと、死んだ妻のこと、死んだ夫のこと、など私は常に質問側に立ち、又苦痛や歓びの聴き役に廻った。
「何んとも答えられない」ことばかり多かった。ある親友は斯う考え続けていることを知った。
「俺の次女は可愛い子供だった。頭も良かった。その子供が第二松花江で死んだのは納得してるが、埋めたんでなく、そこに放り投げてきたに違いない......?」
(注)この人は応召して妻と子供四人が五福堂に残り、彼がシベリヤから復員してきた時は、長女の娘一人しか生きていなかった。その娘も死んだ妹の始末には全く記憶に無かった。
彼は私を車で案内しながら、何百粁も走り廻ったが、納得のゆく次女の葬ってきた実態が判明しなかった。
...「どうしても明らかにしなければ死に切れない...」という事柄を私達は身に内蔵していることを知った。丁度悪くもならない、治りもしない癌を体内にもっている様な人間であるように思えてならない。
全体主義、統制主義時代の統領たる地位に置かれた「開拓団長」として、心ならずも起きてしまった事項を放任しておくことは、同志に対してすまない事柄だと教えられた。
今さら満洲開拓の是非論など何の値もしないが、その開拓者の生死とそれに関する事実を明らかにすることは、日本人として日本の歴史を動かしてしまった者として、当然明らかにしなければならないと言うことが私の責任であるのだと、私はこの旅行でしみじみ教えられた。
「生きがい」とは、疑問を晴らして、僅か十年足らずの満洲開拓事業で結ばれた友情を復活させることで二度と得られない貴重なものだと教えてくれたのは、多くの婦人達、今はお婆さんになってしまった、五福堂の「むかしは大陸の花嫁」達からであった。
「満洲開拓の追憶」を私は斯う考えるようになった。
日本の昭和史の中で満洲開拓は斯うして終りを告げたと言い残しておくのも我々の責任である。
【出典】堀忠雄編『満洲開拓追憶記 第四集』(三十三年忌特集)岩手県満洲開拓民自興会、一九七七・八