黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「トラクター開墾」を公開
Tweet黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「トラクター開墾」を公開いたします。ぜひご一読ください。
黒澤 勉・小松靖彦編
『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録
堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』
ISBN978-4-909658-71-5 C0036
四六判・並製・252頁
定価:本体2,400円(税別)
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トラクター開墾
〈先遣隊期〉満洲拓植公社のトラクター班の力を借り、一九三七年(昭和一二)秋までに四五〇町歩を開墾したが、開墾したての土地は農機具を受けつけない。雪融け後はぬかるみ、トラクターも馬も深みにはまり込む。農耕は戦闘のようである。
満拓公社のトラクター班総元締は、東大出身の玉村であり、私と駒場グラ〔ウ〕ンドでよく陸上競技で顔を合せた男である。彼の部下には、農村青年の意気軒昂たる侍達が多く、月給僅か十五円という薄遇は、却ってトラクター班の活動を一層大陸的にしていた。
トラクターのオペレーター達はたいてい二十才前後の若者であり、その班長綿引は三十才未満の年長者だった。
第六次集団移民団のうち、ほとんど未墾地ばかりの所は通北県だけで、トラクターもここに集中動員されていた。荒くれ男達が、大地の開墾をする... まるで地球の皮剝きをしている様である。厚い黒土と雑草の根がぽっかり逆転する。轟音を立ててキャタピラーが丘を越え、湿地めいた所も構わず前進してゆくと、小さな黄色い甲蟲の様に遠い丘に立っていた。畦は二千五百米も一本に繋がっている景観が新しく出来て行った。
鶉の夫婦鳥が草叢から飛び立つ。野鶏(雉子)はノコノコ走り、横の雑草の中にもぐる。一尺位の蟻塚もトラクターのキャタピラーに他愛もなく崩されて、大地は開墾されて行った。春日留雄は、毎日の様にトラクターのプラウに鎌とスコップを持って、後整地監督のためつきまとった。荒くれ男達は、少々開墾の出来具合が悪るくても意に介せず、地球の皮剝きを続けた。孤独との闘いである。
ただエンジンの音だけである。それでも時々、東の湿地帯、呼裕児河の残した沼のあたりから、鶴の呼び声が聞こえて来て、男達の心を慰めてくれた。
大きい円盤ハロー〔harrow 土ならし機具〕が、躍りながら走る。ビッシリ根が組み合つた表土(旧層)はガッチリ固まっているから、ハローなど、土嚢を一~二俵、重しをつけても、延々と続いた歴土(プラウで耕起した表土層)は切れもしないで、ゴロンゴロンしていた。小野元吉指導員は老獪な言いまわしで、若者達にていねいな作業をしてくれと頼んでも、荒らくれオペレーター達は、何処吹く風か、秋の日和は日が短かいのだ‥‥と先を急いだ。
玉村機械主任技師が五福堂本部にやって来た。トラクター班は様々な事故を起こすから、作業現場を巡視して歩るいていたのだ。五徳堂から通北駅に、道もない所、直線に西進していたドイツ製ランシ型トラクターが小国部落の北側、一本の柳樹の側で湿地に嵌まりこんでしまったからである。
熱していたエンジンが急に湿地に入りこみ、ずるずると沈んで行って、水が煮え立った様になり、鉄製巨人が傷ついた様に音が止まったのであるから、玉村機械主任技師も、後始末をしなければならなくなった。
「やあ、堀団長‥‥若い者達だから時々斯うなるんだ、...」「急に通北駅まで用件が出て、近道をとってしまったらしいので、まあ許してやれよ」
開墾は入植した昭和十二年〔一九三七年〕の秋までに四五〇町歩をやり、凍結しかけて来たので中止した。小野元吉指導員は加藤完治が注意したことと逆に、開墾は二倍の速さで進めたのである。
「玉村主任、四五〇町歩の開墾も出来たし、又、この大草原の草刈もあるから、どんな機械を導入したらよいかねェ」
「今のうちなら、アメリカのインター機械〔作物条間作業機〕を導入した方がよい。北海道製もあるが、材質が悪るくて駄目だ、堀団長! 私に委せるかねェ」
「勿論、凡てを委せるよ」
満拓公社は、斯うして機械の導入をやってくれた。玉村機械主任の設計だから、手放なしで信用した。
数ヶ月して、モーア〔mower 草刈り機〕、テッダー〔tedder 干し草反転機〕、レーキ〔rake 集草機〕、ヘープレス〔hay press 干し草圧搾機〕、リーパー〔reaper刈り取り機〕など、大量送られて来た。この機械は村山秀義が管理した。説明書は皆英文であったから、私が村山秀義に釈して教えることにした。特に種播機械は精密であるのに驚いた。カルチパッカー〔culti-packer 土壌鎮圧機〕も導入されたが、北満の大荒原には未だ受けつけない。それほど開墾地は荒すさみ、ゴロゴロ磈石の様に自然のままである。
「開墾という奴は、先ず開魂だよ」。移民者は、この開墾という難事業と闘たかわなければならなかった。
冬を迎え、春となった。
北満は凍土が融け初めると、大地から花だけ顔を出す。
福寿草が、黄色く、乙女の様に、ささやく。
サフランが青紫色の花弁を拡げて、春を賦う。
春だ春だ、移民団は急に活気づいた。
そして昭和十三年〔一九三八年〕度の作付は約九百町歩に達した。
(関東軍片倉衷中佐は、入植第一年目の営農は一戸当約六反〔約十アール。十反で一町歩〕であったから、五福堂が一戸当約四町歩をやる計画は無理だと私と議論したこともあって、私は小野農事指導員にこの完成を要請していた。)
開墾したばかりのゴロンゴロンした所は、砕土する前に燕麦の種を撒きちらして、その上をトラクターが走り、ハローをかけた。数日して雨が降ると一斉に発芽して、何百米も延々と燕麦の若芽が緑になった。
心配そうな春日留雄も、安堵の胸をなでおろした。
開墾と農耕は中々思うようにばかり捗らなかった。
昭和十二年〔一九三七年〕秋に開墾した場所は、雪融けとともに早く凍土が軟らいだ。トラクターが這いってゆくと、ブクブクと深みに入りこむことが多かった。動けなくなると別のトラクターで曳きあげたり、丸太棒を多く使って、挺子にしたりした。自然への挑戦は多くの知恵が用意されなければならない。小野元吉農事指導員は、毎日走り回り、西の丘から東の丘へとステッキを杖ついて歩るき廻つた。
トラクター開墾した畑は、畜力農法で挑んだ。馬を何頭も一人で使いこなす仕事は、大和魂が必要だ。それは、日本人が剣を手にして正眼に構え、丹田〔へその下、数センチメートルの下腹部〕に力を入れるのと同じ気合が必要だからだ。小林清作、薄田栄次は競馬の騎手であったせいか、特別の腕を持っていた。そして、プラウを三頭、或いは四頭曳にして、大地に挑んだ。湿地めいた所では、馬の腹までヅルヅルと濘かる。蒙古馬は、慣れたもので、泥濘に入りこむと、あせらず、時には馬の長い顔を泥に肘をついた様にくッつけて、ジローと上目を使った。日本馬は正直者で、あわてふためいて大きい腰をグラグラと動かして脱出しようと試みる。「やぁや、日本人と同じく、日本馬まで気短じかだよ‥‥支那馬は慣れたもんだよ...」。
農耕は、まるで戦闘であった。