黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「第一回移民団長会議」を公開
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黒澤 勉・小松靖彦編
『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録
堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』
ISBN978-4-909658-71-5 C0036
四六判・並製・252頁
定価:本体2,400円(税別)
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第一回移民団長会議(*1)
〈先遣隊期〉一九三七年(昭和一二)九月に新京で第一回移民団長会議が開かれる。会議前日の会合で、団長たちは、団長・指導員・団員死亡の場合、遺族の生活を保障する制度の創設を訴えるが、会議当日に関東軍参謀長・東條英機はこれを拒否。また、加藤完治を囲む会合で、加藤は青少年義勇軍の受け入れを団長たちに要請したが、堀忠雄は無言を貫く。堀を始め移民団長たちは、会議後、関東軍司令官・植田謙吉を訪ね、その別れのことばに、萬葉和歌の防人精神を自覚する。
昭和十二年〔一九三七年〕九月、新京に移民団長会議が開催されることから、続々と団長は集った。
山崎芳雄、宗光彦、林恭平、佐藤修、貝沼洋二、木村直雄、青木虎若、矢口道愛、加藤熊次郎、堀忠雄、出井菊太郎、石田伊十郎、平田秀彦、得能数三、広部永三郎、佐藤民四郎、〈もう三人〉
平沢千秋、熊谷伊三郎、藤本俊幹、〈北村 佐藤 もう四人〉(*2)
これらの現地で鍛えた団長のうち、唯一人、湯原宮城移民団高村団長は入植後間もなく匪賊との交戦で死亡し欠けた。
全員中央ホテル(*3)に宿泊し、又内地からは、加藤完治、野々山彦鎰(*4)が出席するため、会議の前日、中央ホテルにやって来た。
中央ホテルの一室に集って加藤完治を囲み談論が始った。移民団長達との談合は直ちにまじめな事柄に集中した。宗光彦は最も無遠慮で、深い体験者でもあったから、移民団長は常に生命の危険にさらされていることを経験した宗光彦は、後進団長の為めに提案された。
「加藤先生! 私達は既に決心しているので、動揺ではないからよく聞いて下さい。若い移民団長、大学卒の新進気鋭の青年である移民団長が、後顧の憂を少くする方法を考えてもらうことが先ず必要だ。湯原の高村団長は入植して僅か二ヶ月で戦死した」
加藤完治はするどい眼をじいっと据えて宗団長を見つめていた。心のなかでジックリ考えていたのであろう。
軍籍にあった在郷軍人の者は戦死者扱いに出来るだろうが、団長の身分は拓務省嘱託という文官扱いであり、未だ十分検討が整っていないし、官庁的返事は、加藤先生の云うべきことでない。どんな返事をするだろうかと...一同注目していた。
「野々山君、〔満洲〕移住協会(*5)で家族の生活を保証出来るだろうねェ‥‥」
「はい、やりましょう」
私達はそれでよいと皆んな諒解した。偉勢のよいことを相談してみても、我が肉体が匪弾で倒れた時は、一さい空である。云はば、どうでもよいのだ。
貝沼洋二が「加藤先生、我々の生命は既に捧げた積りでいる。家族は皆若い。将来がある。だから移民団の中に団長や指導員の家族が、そこで永久に働ける様な公共施設を創っておく様にすれば、大部分解決すると思うから‥‥‥‥」と具体的な提案をした。
夜は駆走の様に更けて行った。新京の日本人町あたりは、深夜になっても騒がしかった。時々大声で放歌しながら、馬車の鈴の音が消え去る様に、若い大陸の日本人達が道を通り過ぎた。私は出井菊太郎、石田伊十郎団長と一室にごたごた寝についた。
深夜から出かけた者も居た。
中央ホテルから出て日本人街を右に折れると、直ぐ支那人街に突きあたる。その左側に朝鮮人妃さんの家並がずらりとあった。遊びには最も手近かな場所であった。
その下町には支那人の娼婦街があり、ショートタイムで、三等は一円五十銭からせいぜい三円位であった。
満拓の測量班は、現地の危険から脱出して本社に報告旁々、帰京するとこの娼婦街にひたりッ切りで、生命を汚濁させ、気分転換の数日を過ごす猛者もいた。
明けて、団長会議のため、〔日満〕軍人会館(*6)に出かけた。猛者団長達の手にする鞄は、大てい疲れた、ヨレヨレのものが多かった。書類などで仕事をする男達でない。
信念と計略によつて「村づくり」する男達ばかりだから、格好などふりむきもしない。関東軍司令部には金光した菊花紋章(*7)が輝やき、胸を鎮めてこれを眺めながら、コンクリートの道を歩いた。
開会された移民団長会議
植田謙吉(*8)大将が出席されないため、東條英機(*9)少将が参謀長として訓辞をした。満洲皇帝、溥儀陛下の眼鏡と型が似ていても、東條閣下の素顔はいかめしかった。音声は低くても「満洲国は五族協和を理想とするのであるから、諸君はいずれ満洲国官吏に吸収する。そして五族の指導者の任務を遂行して戴きたい。洩れ承たまわると後顧の為め、移民団連盟を結成したき主旨(*10)、これは建国の理想に合一しないから、拙者を信じて、建国の大義に就いてほしい」という意味の訓辞をして、そそくさと会場を去ってしまった。
移民団長会議前の訓辞は偉勢のよい言葉で飾られた。何でも国策国策で消化不良〔に〕なるぞ‥‥と誰かが叫んだ。
城子河佐藤修団長と哈達河貝沼洋二団長から移植日本馬の実績が語られ、日本軍が、日本内地から軍馬を召集し、輸送、陸揚げされ、第一線に於て軍馬が活躍する残存率は僅か五十%であるという実績に比較して、移民団が、之を飼育しておけば、その成績はすばらしく良いのだ‥‥と主張した。加藤先生は全面的賛意を表さなかった。それは斯ういう理由からである。
日本人満洲開拓を百万戸五百万人の基本計画が樹立されている。これも急速に実現される見通しだ。この移民者に二頭の日本馬を持たせるにしても、日本の軍馬資源は不足している。第一、祖国日本の農民達の毎日使っている馬さえ無くなる。諸君は、日本祖国はどうでもよいという利己的な思想なのか? ‥‥‥と痛い所を突いた。佐藤修団長は融通自在な男で、「加藤先生! そういう心配ありませんよ。わし等は、日本馬で大いに繁殖に使いますよ。日本内地より必ず繁殖率が高くなりますよ。又、支那馬にも日本馬を交配すれば、体格は大きくなるし、却って軍馬の資源は充実するんですよ...」と説明を加えた。
佐藤修団長は又、ハルピンの弘子洋行(*11)からドイツ製総鉄製プラウ〔plow トラクターで牽引する耕耘用農機具〕を買いこんだ。彼の意見は、北海道のプラウは満洲の土地に合わないから独乙製を採用したのだと説明した。加藤先生は再び警告を発した。日本は今、鉄に不足している。支那事変は、何時まで続くか解りやしない時代に、そういう鉄の余裕が日本は今持ち合せがないから......というのであったが、これは、松野傳(*12)が、満鉄の古鉄再製によつて実行出来る道があるという意見が提出されていたから、私達は、先生の御心配をかけない様に実現出来るのだと自信を持ち得たのであった。
夜、又、中央ホテルに集会をやった。
今晩は加藤完治の眼は異様に輝いた。
「東宮君の饒河少年隊は成功したよ。南郷村の松川五郎の信念が結実ったねェ。来年から毎年、青少年義勇軍を大量送り出す肚が決ったよ。団長の諸君は之に協力してくれ給え」
「山崎君、君は、さしあたり五千人を引き受けてくれ! いいねェ」「ハイ!」「宗君はいくら引き受けるかねェ」「加藤先生、一寸待って下さいよ‥‥どういう風にするのか説明されないで、直ぐ引き受けろ...! と言うても、それぞれの移民団では準備も必要でしょうから」
「そうか... 小学校卒業した少年を私が訓練する。それにはちゃんと中隊長もつける。農事、教学、衛生など必要な指導員をつけて送り出すよ。だから君等は、移民団の中に訓練所を作って、寝起きさせ、広い畑で、実習、訓練の仕事をやって呉れればよいのだよ」
加藤完治は東宮鉄男少佐の現地訓練の結果、青少年は純真無垢で、在郷軍人と違って社会ズレがない。慾がない。日本の国難に殉ずる気魂を培養することが出来る新鮮さを持っている。白紙の様なものに、「大和魂」と画くことが出来ると思っていた。
ヒットラーの、ヒットラー・ユーゲント〔ナチスの青年組織〕より遥かに立派な日本人青少年義勇軍を創設するには、移民団長達の持つ学識と人間をひきつける力と胆力が、今必要なのだと加藤完治は付け加えた。
宗団長も、出井団長、佐藤修団長も積極的に引き受けた。無言を続けていたのは、林恭平、堀忠雄、得能数三等で技術派の団長達であった。
内地に帰って、加藤先生は、青少年義勇軍募集の段どりが揃ったから、直ちに着手すると決心を披露したのであった。
団長会議は一週間続行された。
会議期間中、康徳会館(*13)内の〔満洲〕拓植委員会(*14)事務局を私は訪ねた。永宝鎮に出張中、匪襲を受けて傷ついた、第二次千振郷移民団畜産指導員吉崎千秋は、微笑を浮べて私を迎えてくれた。事務局長稲垣征夫(*15)の部屋に入って雑談に耽った。
「堀君! 僕は関東軍や満洲国の役人に号令をかけることが出来ても、現地の移民団員を一糸乱れず、ひきずってゆく自信がないよ。君は若いし、荒れ狂う団員の中を悠々と游ぎ廻われるんだから......」と励ましたりした。そうしたら片倉衷(*16)中佐が這入って来た。稲垣征夫の紹介で初対面の挨拶を交わしたら、いきなり片倉中佐は「堀団長、君の団建設方針をきかせろ‥‥」と申し入れして来た。私は屈託なく談合していたのであったが、綱領(*17)の「天皇陛下に帰一し奉まつり‥‥」の語に、執拗にこだわり、論が展開して来た。
私は加藤先生の直弟子であるから、そういう論判を以って云々するより、実践だ...と信じていたから、迷惑だという感に捉らわれていた。そのうち「対匪対策はどうするのか‥‥?」と片倉中佐は専門家らしい問題を提起した。私は即座に答えた。「開拓団は戦闘を本務とは考えていない。万一のことがあれば、日本軍の援軍が来るまで、限定されている弾薬を打ち尽さない守備の隊形で、私が指揮することに決めてある...」。
片倉中佐も私の方針に賛成してくれた。そうしている所に、満拓理事の中村孝二郎が入って来た。彼は、私達団長の親父みたいな立場で、誰れからも慕われていた。そして北満の水田問題を細部にわたって注意してくれたのは、有難いことであった。又、資金が必要な時は、花井脩治(*18)理事に手紙を出して頼みなさいと注意されたりした。
私は、移民団建設は「自作勤労をモットウとし、地主根性にならない様にしたいし、又先ず満人の使っている犁丈〔馬などの二頭引きの犁〕を自由に使える様に団員を訓練し、自分の土地は自分でやれる力を培養する。そして一戸当五千円の借金でやる。云わば、百万円の借金でストップし、自ら汗して、自らの力、パイオニヤ精神で建設するのだ」と説明したら、中村孝二郎は、「あまり張りきらないで、ゆっくりやることだ‥‥」と協調してくれた。
移民団長会議も終った。山崎芳雄団長を先頭にして、関東軍司令官植田謙吉大将に、別離の挨拶に出かけた。
植田司令官は有名な童貞将軍である。将校当番が一人同室に直立していて、私達に対し将軍は諄々と諭してくれた。私達移民団長は昭和維新の防人(*19)だ。萬葉和歌(*20)に謡われている防人の精神に、私達は心を躍らせていたから、植田大将の言葉に対して全ぷく的に信頼した。
そして、開拓団の裏には、関東軍という世界無比の力があるのだから、安心して現地の建設に身命を捧げてくれという言葉を百%信頼した。
「信は力なり」という加藤完治の思想と、私達は同質の確信を持ちながら、二階から下りた。
一週間の団長会議の中から私は多くの事象を学びとって、新京からハルピン行の列車に乗った。アジヤ号特別列車(*21)の二等客におさまった。支那人の高級者三、四人居ただけで、ほとんど日本人ばかりが乗っていた。
ハルピンに到着するや、支那人の馬車〔小型の馬車〕に乗って、地段街の行きつけのホテルに泊った。ここには新潟出身の女中が居て、私は何処よりも安心して宿泊出来た。
ハルピン満拓事務所にもトキワ・デパートに〔も〕近く、夜はモストワヤ街、名古屋ホテル(*22)の喫茶部にも近くて便利であった。
新京の団長会議出席の出張旅費は約八十円位だったから、金銭はふんだんに使うことが出来た。モストワヤの街角に小さな本屋があった。新刊書をどっさり買い集めた。
移民団長という職業であるが、他人から与えられたものとは思っていない。自分で求め、自分から永久に離れない立場、云わば宿命観さえあった。それでいて、何時匪弾に倒れるか、そんなことも解らないのであるが、絶望感なども爪の垢ほども抱いていなかった。とにかく、足の向くまま放浪していた。
翌日、ねむ気の残る眼をこすりながら、ハルピン駅に馬車で走った。ハルピン駅は支那人でごった返していた。北黒線に乗る日本人は私以外ほとんど見当らない。
ハルピン駅の一、二等待合室の隅にマリア像があって、白系露人達も奥地の旅人となる者の旅路の安全を祈り、胸を十字に切っている。
北へ...北満のさいはてに旅する私の汽車は、三棵樹駅でしばらく時間をとり、そして松花江の鉄橋をゴウゴウと渡った。松花江に接して天理教移民村があって、大きい建物が見える。
呼蘭駅は松花江を渡り北上すると間もなく到着するので、恰も東京を出て北上して、利根川を渡った様な感じもするが、家は灰色で、北満の嚝大な平原が、延々と続くと、私は急に元気が出て来る。綏化に着くと、客はドッと下車する。ここから南叉、湯原の奥地に向う者たちが、弁当である燒餅〔発酵させた小麦粉に油を塗って焼いたもの〕をブラ下げているのが目立った。
間もなく克音河である。この辺まで旅すると、朝八時に出た汽車であったが、もう午後になっている。
海倫・海北と北に進むと、駅間の距離は三十分もかかる。未墾の沃野が延々と続いているのだ。
海倫は活気づいている。海倫県の副県長は松村三次(*23)で、大物と云われていた。群馬移民団石田伊十郎は、何時も海倫ホテル(*24)に泊まる。(終戦後、石田伊十郎は海倫ホテルのマダムと再婚し、群馬県浅間山麓に開拓入植した。)
海北まで行くと、北満の特性がハッキリして来て、大平原、未墾地、朝鮮人の入植、フランス人の建てた教会など、開拓の歴史がありありと残っている。
通北までここから二時間位かかる。通北県に入るとフロンテーアの眺めだけである。楢の林、草原と野鹿〔ノロジカ。小形のシカ〕の群れ、東には、うすく小興安嶺の峰々が遠望された。
北安省に改編されて、この地方の古参移民団は第三次と第六次の四集団が、北満のフロンテーア開発の先頭に立っていた。
第三次瑞穂の林恭平団長は京大・橋本伝左衛門博士の弟子で、私と同時に加藤完治の移民運動に参加した。
第六次は、五福堂、老街基、海倫群馬、黒馬劉四国とあり、老街基出井団長は小学校長であって、報徳思想(*25)の研究家であった。彼は教化立村をスローガンにして社会理想を追求実践派の右翼である。海倫群馬石田団長は陸軍少尉、群馬県から一番乗りに名のり出た団長であり、人間的には温厚、農村社会理想を遠大に求めた。黒馬劉四国の平田秀彦団長だけは、香川県の農会技手(*26)であり唯一の技術者であった。神経が細かく、私より遥かに繊細な神経の持主で、言葉すくない遠望型であった。
北満の大荒原は九月中旬の霜がどかッと降るまで、半年は満開の花園である。
ここに、それぞれ移民地が建設されたのである。
移民地は、中々、団長の考えの様に、思う通りには進まなかったが、その構成している団員と指導員と、現地の満人との目に見えない関係などから、そこに新しい生命が培かわれていったのである。
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【注】
*1 第一回移民団長会議 この会議には、各移民団長の他、現地からは関東軍、満洲国、協和会、満洲拓植公社、南満洲鉄道株式会社、満洲拓植委員会、日本からは拓務省、大蔵省、満洲移住協会などの関係官・職員が出席。この会議の議事録、満洲拓植委員会事務局編『第一回移民団長会議議事録』(『満州移民関係資料集成』第二巻〈不二出版、一九九〇〉所収)がある。
*2 〈もう三人〉〈北村 佐藤 もう四人〉 『満洲開拓団史』二〇〇頁によれば、内藤誠(東二崗開拓団長)、田中幸雄(西二崗開拓団長)、和田章蔵(竜爪開拓団長)、北川政雄(黒咀子開拓団長)、佐藤昇(東北村開拓団長)、中村秀市(熊本村開拓団長)、石川勝蔵(茨城村開拓団長)。
*3 中央ホテル 新京中央通りにあったエコノミーホテル。日本旅行協会編『昭和十三年版 旅程と費用概算』(日本旅行協会発行・博文館発売、一九三八・六)によれば、一泊四円半以上。
*4 野々山彦鎰 加藤完治の側近。山形県立自治講習所助手、日本国民高等学校農場主任、奉天北大営日本国民高等学校初代校長、満洲移住協会訓練部長。
*5 〔満洲〕移住協会 一九三五年(昭和一〇)に、満洲移住事業の促進のために設立された協会。一九三七年に財団法人満洲移住協会に改組し、大量移民の募集を組織的に推進。
*6 〔日満〕軍人会館 新京の新発路にあった会館。一九三五年(昭和一〇)年六月五日、起工。同年一二月一五日、竣工。関東軍経理部設計。壁体煉瓦造、床及び屋根鉄筋混凝土造。地下一階、地上三階(さらに屋階あり)、延べ三一七六平方メートル。室数一〇四。一階に広間、グリル、大・小食堂、貴賓室、大集会室、二階に事務室、社交室、集会室、結婚式場、三階に宿泊室(和室一二、洋室一)(「昭和十一年三月 日満軍事会館開館記念」絵葉書に添えられた「日満軍人会館新築工事概要」による)。
*7 菊花紋章 菊の花をかたどった皇室の紋章。関東軍司令部の建物中央の入口上方に付けられていた。
*8 植田謙吉 一八七五(明治八)~一九六二(昭和三七)。大日本帝国陸軍軍人。一九三六年に関東軍司令官兼満洲国駐箚特命全権大使就任。一九三九年に、ノモンハン事件(「満洲国」と外モンゴルの国境で起こった日本軍とソ連軍の武力衝突)の敗戦の責任をとり、予備役編入。最終階級は陸軍大将。
*9 東條英機 一八八四(明治一七)~一九四八(昭和二三)。大日本帝国陸軍軍人。一九三五年(昭和一〇)、関東軍憲兵司令官就任。一九三七年、関東軍参謀長就任、日中戦争を推進。一九四一年、首相就任(内大臣、陸軍大臣兼任)。対米英戦争を主導。一九四四年、退陣。敗戦後、国際極東軍事裁判で、中国侵略、そのための戦争遂行、また捕虜虐待などの責により、A級戦犯として訴追され死刑。最終階級は陸軍大将。
*10 移民団連盟を結成したき主旨 『榾火』一三~一四頁によれば、宗光彦は、「移民団連盟」を創設して、日本政府直属とし、移民団長・指導員・団員本人や家族が戦死した場合に保証する制度を作ろうとした。東條は、団長はいずれ満洲国官吏にするという考え方に立って、移民団連盟の創設を拒否したのである。
*11 弘子洋行 「洋行」は、中国語で外国人経営の商社を意味する。現段階では、弘子洋行についての詳細情報は得られてない。
*12 松野傳 一八九五(明治二八)~一九五七(昭和三二)。農業技術者。北海道帝国大学農学部卒。北海道庁勤務(拓殖実習場十勝実習場長兼釧路実習場長など)を経て、一九三七年(昭和一二)に「満洲国」に転出。奉天農業大学校教授、興農部技正、開拓総局技正を兼務(『満洲紳士録』〈『満洲人名辞典』所収〉による)。
*13 康徳会館 新京のメインストリート・大同大街にあった会館。一九三五年(昭和一〇)、竣工。煉瓦RC造地下一階、地上四階、延べ二六一六坪(三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』〈三菱地所、一九九三〉による)。
*14 〔満洲〕拓植委員会 一九三七年に満洲拓植公社とともに、その監督機関として発足。必要に応じ、移民に関する一切の事項について日満両国政府に建議する権限をもっていた(「満洲拓植公社設立ニ関スル条約及ビ附属文書」〈『満洲開拓団史』八七三~八七五頁〉)。
*15 稲垣征夫 一八九七(明治三〇)~一九七一(昭和四六)。大日本帝国・「満洲国」官僚。東京帝国大学法学部卒。商工省を経て、一九三〇年に拓務省書記官、一九三七年に拓務事務官・満洲拓植委員会事務局長就任。以後、満洲国開拓総局長、興農部次長兼開拓総局長を歴任(『満洲紳士録』〈『満洲人名辞典』所収〉、国立公文書館アジア歴史資料センター・ホームページ「テーマ別歴史資料検索ナビ アジ歴グロッサリー」http://ec2.jacar.go.jp/glossary/gaichitonaichi/career/career.html?date=433〈二〇二一・一〇・二四閲覧〉、「うえだ(社団法人上田高等学校同窓会関東支部会報)」第5号〈一九七一・六・一五〉による)。
*16 片倉衷 一八九八(明治三一)~一九九一(平成三)。大日本帝国陸軍軍人。一九三〇年に関東軍参謀付、翌年に関東軍参謀就任。「満洲国」建国・運営に関わる。内地に転属後、一九三七年に関東軍参謀に再任。最終階級は陸軍少将。敗戦後は、大平商事会長。「片倉衷関係文書」が国立国会図書館に所蔵される。
*17 綱領 「満洲開拓政策基本要綱附属書」の「六 満洲開拓青年義勇隊(満蒙開拓青少年義勇軍)に関する件」の「綱領」の第一項に、「一、我等は天祖の宏謨を奉じ心を一にして追進し身を満洲建国の聖業に捧げ神明に誓つて、天皇陛下の大御心に副い奉らんことを期す。」(『満州開拓史』八五〇頁)とある。
*18 花井脩治 一八八八(明治二一)~没年未詳。経営者。一九〇九年に南満洲鉄道株式会社入社。一九三七年に満洲拓植公社理事就任。満洲糧穀株式会社社長、満洲畜産株式会社取締役、長春市場株式会社社長(『満洲紳士録』〈『満洲人名辞典』所収〉などによる)。
*19 防人 七~八世紀の朝廷の兵士で、辺境(実際には九州北部)の防備にあたった者。律令制度下では、勤務期間は三年で、農耕をしながら辺境を防備した。東国農民からの徴集を原則とし、各国から、二、三〇人から三〇〇人以下、総勢二〇〇〇人が兵士とされた。
*20 萬葉和歌 七~八世紀の歌を集めた『萬葉集』巻一四と巻二〇に、防人とその家族の歌が収められている。一九三〇年代に「防人の精神」と言うときには、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は」(四三七三・今奉部与曾布)に表れた天皇への忠義心を意味する(本書「解説」参照)。
*21 アジヤ号特別列車 南満洲鉄道株式会社の高速列車・特急あじあ。一九三四年(昭和九)、営業開始。最高時速一一〇キロ、平均時速八二・五キロで、大連・新京間(七〇一・四キロメートル)を八時間三〇分で走った。後にハルビンまで延長され(九四三・九キロメートル)、一二時間三〇分で走行した。
*22 名古屋ホテル モストワヤ街にあったエコノミーホテル。『昭和十三年版 旅程と費用概算』によれば、一泊三円~一一円)。
*23 松村三次 明治大学商学部卒。「満洲国」官僚。「満洲国」民政部、青崗県参事官・海倫・木蘭県副県長、産業部開拓総局総務処土地科長、東安省開拓庁長・満洲農産公社理事などを歴任(小都晶子「日本人移民政策と「満洲国」政府の制度的対応―拓政司、開拓総局の設置を中心に―」〈「アジア経済」第47巻第4号、二〇〇六・四〉による)。
*24 海倫ホテル エコノミーホテル。『昭和十三年版 旅程と費用概算』によれば、海倫唯一の宿泊施設。一泊三円〜四円。
*25 報徳思想 江戸時代の農政家・二宮尊徳が説いた、道徳によって経済を支え、富国安民を実現するという思想。
*26 農会技手 農会は、一八九九年(明治三二)公布の「農会法」に基づき、農事の改良・発達を図ることなどの目的で設立された地主・農民の団体。市町村農会、道府県農会、帝国農会がある。農会には技術員として技師と技手が置かれた。
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