黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「拓務省第六次五福堂、新潟村移民団の結成」を公開

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黒澤 勉・小松靖彦編『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』より「拓務省第六次五福堂、新潟村移民団の結成」を公開いたします。ぜひご一読ください。

●本書の詳細は以下より
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黒澤 勉・小松靖彦編
『未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録
 堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む』
ISBN978-4-909658-71-5 C0036
四六判・並製・252頁
定価:本体2,400円(税別)

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拓務省第六次五福堂、新潟村移民団の結成

〈先遣隊期〉第一次から第六次までの移民団の歴史を見渡す。また中国語の堪能な堀忠雄は、通北県長・于文英と心を通い合わせる。


 茨城県友部日本国民高等学校々長加藤完治が、関東軍の参謀石原莞爾(*1)少佐とはかり、武装移民を着手したのは、昭和六年〔一九三一年〕である。北満依蘭軍(*2)の顧問東宮鉄男(*3)の斡せんで、佳木斯、永宝鎮に入植した。昭和七年〔一九三二年〕には第二次武装移民団(*4)が、第一次と同様、重厚な県民性を持つ地方から在郷軍人だけを集めて、佳木斯七虎力に入植したが、謝文東(*5)の反撃に遭って湖南営に転入植したのである。

 第一次移民団長 山崎芳雄(北大・朝鮮拓殖会社(*6)、青年訓練所長)
 第二次移民団長 宗光彦(東大・満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕(*7)、公主山領青年訓練所長)
という経歴の者が移民団長となり、日本民族がかつて無かった偉大なる植民事業の完遂のため、有為の人材が加藤完治によって掘り出され登用された。

 百万戸五百万人の移民大事業に最も欠如していたものは、優秀な団長、及び指導員であると見てとって、京大の橋本伝左衛門(*8)博士、東大の那須皓博士が加藤完治校長に協力し、教え子達から人選された。経済不況時代とは云え、移民団に参加しようとする大学出身者は、極めて聊々たるものであった。

 創設時代に指導員となった者は次の如し。
  第一次移民団、  佐藤修、平田静人、
  第二次移民団  石橋哲夫、吉崎千秋
  第三次移民団  林恭平、遠藤六郎、松井勇
  第四次移民団  貝沼洋二、吉田傳治、得能数三
  第五次移民団  木村直雄
  第六次移民団  堀忠雄

 斯うして、人材不足を補うため、指導員達は後続移民団の団長に転出して、建設にその経験を生かし、又、昭和十二年〔一九三七年〕より着手した青年義勇隊訓練所長(*9)をも兼任した。

 第三次移民団は一般農民子弟という条件だけで移民団を結成する試験移民として、林恭平が団長となって入地して行った。治安が不良であり、犠牲の出る心配から、林恭平は兵役無経験を理由に関東軍から反対されたが、奉天北大営日本国民高等学校長飯島連次郎(*10)の説得が成功して移民団長となり、そして飯島連次郎が手がけた優秀な先遣隊員を、林恭平に従がわせた。林恭平は親友である私を指導員にして呉れと飯島連次郎に願い出たが、許可ならなかった。

 第四次、第五次はソ満国境、関東軍の重要戦線となるべき東安方面に入植し、ソ連の丘を睨み続ける任務も加わった。これらの移民団先遣隊は、みな本山とも云うべき奉天北大営日本国民高等学校に於て、筋金入りの者だけである。特記すべきは、東宮鉄男中佐の直営にも似た饒河少年隊は、宮城県南郷村より、松川五郎(*11)が送り出して来たが、其の少年達は私の寮、一心寮に入り、私と生活を共にした。饒河少年隊は、ソ満国境の空に暗雲がたなびいた時は、ウラジオ〔ウラジオストク〕に通ずる鉄道爆破の先べんをつける秘密司令を受けていたのである。

 斯うした時、移民事業成功の兆の波に乗り、第六次移民団から国策移民と銘をうち、移民の送出を県単位にするようになった。五福堂新潟村もその一つである。老街基埼玉、海倫群馬、北五道崗山形(*12)、湯原静岡、北五道崗長野、〔以下、空白〕

 第六次移民団は十八個集団であり、全くの未墾地に入植したのは、五福堂新潟村、老街基埼玉村、北五道崗山形の三集団だけで、他はみな、満人(*13)の既墾地を買収した場所であった。そのために、五福堂の開墾は極めて困難を伴ったもので、多くの問題点を発見した。

 哈爾浜王兆屯中央訓練所(*14)長飯島連次郎が、五福堂移民団の看板を書いたのであったが、この時に、もう移民団という語を廃止して、開拓団とし、開拓団法(日満両国の援助を決めた法律)、開拓農業協同組合法、農場法(*15)を設定する動きになっていた。しかし、私達は、未墾地の開拓こそ真の開拓事業だと誇りを持ち続けていたから、色々の法律や名称などに捉らわれず、前進を続けたのである。

 通北県長于文英は桑原参事官の達者な支那語に気を良くしていた所に、私の流暢な支那語での会話が加ったから本心を語ることが出来た。
 于文英は、朝早く起きて、よく達筆揮毫していた。五福堂の為めに一詩(*16)を書いて呉れた。

 于文英県長は、六月十九日、五福堂開拓団の入植記念日は必ず雨が降ると大声で笑った。于文英は雨が降るということを慈雨であるのだと、私との交遊を歓こんだのであった。

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【注】
*1 石原莞爾 一八八九(明治二二)~一九四九(昭和二四)。大日本帝国陸軍軍人。一九二八年に関東軍主任参謀就任、満洲事変、「満洲国」建設を指揮した。一九四一年、予備役編入。最終階級は陸軍中将。
*2 北満依蘭軍 「満洲国軍」吉林省警備軍の屯墾部隊のこと。この部隊は依蘭を駐屯地としていた(「満洲国軍事顧問並軍事教官一覧表外の件」(一九三四年「陸満密綴 第一五号」自昭和九年八月一七日至昭和九年九月三日。防衛省防衛研究所蔵)。
*3 東宮鉄男 一八九二(明治二五)~一九三七(昭和一二)。大日本帝国陸軍軍人。一九二八年、張作霖爆殺に関与。満洲事変勃発の後、関東軍司令部付、「満洲国軍」吉林省警備軍教官(業務は屯墾部隊指導)。満洲移民を推進。戦死により最終階級は陸軍大佐。
*4 第二次武装移民団 一九三三年(昭和八)に三江省樺川県に入植した試験移民団、「千振開拓団」のこと。団長は宗光彦。『五福堂開拓団十年記』が入植時期を「昭和七年」としているのは記憶違いか。
*5 謝文東 依蘭県の豪農で自衛団長。一九三四年(昭和九)、謝文東は、大規模な日本人移住地用土地買収に反発して蜂起。「東北民衆自衛軍」を組織し、第一次試験移民団、第二次試験移民団を襲撃し、また土龍山警察を襲い軽機関銃や小銃を奪った。当時の日本では、「土龍山事件」、「依蘭事変」と称された。
*6 朝鮮拓殖会社 満鮮拓殖会社のことか。一九〇八年(明治四一)に、日本統治下朝鮮の拓殖事業推進のため、半官半民の国策会社・東洋拓殖株式会社が設立された。一九三六年(昭和一一)に、東洋拓殖会社と南満洲鉄道株式会社の子会社として、満鮮拓殖株式会社(新京)と鮮満拓殖株式会社(京城)が設立され、日本統治下朝鮮人の満洲移民を推進(『鮮満拓殖株式会社・満鮮拓殖株式会社 五十年史』〈満鮮拓殖株式会社、一九四一・六〉による)。
*7 満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕 一九〇五年(明治三八)設立の半官半民の国策会社。日露戦争によって得た東清鉄道の一部とその支線、撫順炭鉱の経営から出発し、事業を拡大し中国東北部の植民地行政機関の性格を強めた。「満洲国」建国後は、その工業、商業、農業、文化事業を一手に引き受ける巨大企業となった。一九四五年、敗戦後に閉鎖。
*8 橋本伝左衛門 一八八七(明治二〇)~一九七七(昭和五二)。農学者(農業経営学)。東京帝国大学農科大学卒業。京都帝国大学教授。満洲農業移民を推進。戦後に、滋賀県立農業短期大学学長。
*9 青年義勇隊訓練所 「青年義勇軍」は、満蒙開拓青少年義勇軍(「満洲開拓青少年義勇軍」とも)。一九三七年(昭和一二)に、関東軍が青年農民訓練所の創設を提案、第一次近衛文麿内閣が閣議決定。一九三八年に、拓務省が義勇軍の募集を正規に開始。全国からおおむね一四歳から一九歳の青少年を募集。「満洲国」への大量移民国策の遂行を担った。義勇軍の青少年は、茨城県内原の訓練所で約二か月、「満洲国」内の訓練所で三年の訓練を受けた。
*10 飯島連次郎 一九〇五(明治三八)~一九九二(平成四)。農業技術者。京都大学農学部卒。奉天北大営日本国民高等学校長、満蒙開拓哈爾浜訓練所長、満洲国立開拓研究所研究官などを歴任。敗戦後、群馬県多々良村長、参議院議員を務めた。『榾火』七七頁によれば、一九三七年(昭和一二)六月末頃に、堀は飯島から五福堂開拓団長就任を依頼された。飯島は『榾火』に序文を寄せている。
*11 松川五郎 一八九七(明治三〇)~一九七七(昭和五二)。農業教育者。父は陸軍大将・松川敏胤。北海道帝国大学農学部卒。宮城県加美農学校教員、同県南郷村(現在の遠田郡美里町の一部)国民学校長、満洲移住協会参事。敗戦後は、天北庄内開拓農協参事としてサロベツ原野の開拓を指導(中村晴彦編『ヘルヴェチアヒュッテ八十五周年―建設した人々の記録―』〈北大山岳館運営委員会、二〇一二〉、大矢京右「児玉コレクション」〈「市立函館博物館研究紀要」第31号、二〇二一・三〉による)。松川は加藤完治の指導下、宮城県南郷村に国民高等学校を開設しており、松川の推薦でその生徒が饒河少年隊に参加した(『満州開拓史』一三九頁、二三一頁による)。
*12 北五道崗山形 入植時、浜江省(または牡丹江省)に所属。龍江省では総務庁長・神尾弌春の方針で未墾地への入植が行われたが(→八七頁「高木県副長は、この可否で大へん苦労した」)、浜江省の事情については不明。
*13 満人 「満洲国人」の漢族、満洲族、蒙古族のこと(たとえば、『満洲概観』〈帝国在郷軍人会本部、一九三七・四〉参照)。
*14 哈爾浜王兆屯中央訓練所 開拓団の幹部(団長、農事指導員、畜産指導員、警備指導員、経理指導員、保健指導員)は、茨城県の「満蒙開拓幹部訓練所」で一か月から五か月の訓練を受けた後、ハルビンの「開拓指導員訓練所別科」で一年以内の訓練を受けた(『満洲開拓団史』四〇六〜四〇八頁による)。
*15 開拓団法、開拓農業協同組合法、農場法 「開拓団法」は満蒙開拓団を法的に規定した法律(一九四〇年五月施行)。開拓農業協同組合法の正式名称は「開拓協同組合法」で、開拓団が入植後おおむね五年に街村制(行政機構)、開拓協同組合(経済機構)に移行したときの開拓協同組合を規定した法律(一九四〇年六月施行)。農場法の正式名称は「開拓農場法」で、開拓農家のあり方や相続、開拓農場の概念、開拓の内の造成を規定した法律(一九四二年九月施行)。これらの法律の条文は、『満洲開拓史』(八五八~八五八~八七三頁)に掲載。
*16 一詩 『榾火』一九六頁にその写真を掲載するが不鮮明。同一九七頁に「流れは両岸に映え、さらさらと音がする。曲水列坐せる如く、竹管弦音の盛んなるものなきも、ふれて一詩を吟ずるにたる飛鳥の幽情を。」という「概意」を記す(日付は「昭和十四年初春」)。

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