【連載】第3回 勧善懲悪を越えた残虐性――豊臣秀次『関白秀次公』 | ゆらめく勧善懲悪 2代目松林伯円の講談世界(目時美穂)

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第3回
勧善懲悪を越えた残虐性
豊臣秀次『関白秀次公』


■『聚楽物語』

 『関白秀次公』のもととなった『聚楽物語(じゅらくものがたり)』は、伯円が友人の戯作者仮名垣魯文からゆずられた本だ。当時、ちまたには出回らない珍しい本で、伯円は友からの記念の品として大切にし、また講談のネタにもした。伯円の時代、稀覯本だったという『聚楽物語』は、現在国会図書館デジタルコレクションでも見ることができる。

 『聚楽物語』は別名『関白物語』といい、豊臣秀吉の養子(姉の息子)で関白職を継いだ豊臣秀次の悪行と破滅の物語である。寛永年間(1624年から1645年)に書かれたものといわれている。伯円が仮名垣魯文からゆずられた本は、明暦大火の前年、明暦2年(1656年)刊行のものだということで、少なくとも10数年の遅れがある。寛永刊行本の写本であろう。

 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡したが、豊臣家の栄華の記憶を完全に払拭できるほどの歳月ではない。この物語は、豊臣家のイメージ低下の目論見に加え、読み手、あるいは匿名の書き手の残虐嗜好が感じられる。

 伯円の『関白秀次公』(金桜堂、明治30年)はほぼ、この『聚楽物語』の内容を踏襲しており、伯円のオリジナルではないが、伯円の個人的な思い出がそこかしこにちりばめられていておもしろい。伯円が読んだ歴史物のひとつとして紹介しておきたい。

■殺生関白

 『関白秀次公』における豊臣秀次は、もともとは、和歌をよくし、文化に通じた男であったが、秀吉から関白職を継いで次代の天下人と目されるようになると次第に増長し、残虐性を発揮するようになった。少しの瑕疵で人を殺し、たとえば、飯に小石が入っていたとして、当番だった男の両腕を斬り、庭の砂利を食わせて殺したりした。

 富や宝物だけでなく美女もあつめ、一の台という美貌の正室のほかに30名以上の若く美しい女を集めて側室としていた。それでも欲望はおさまらず、美女の噂をきけば手に入れずにはいられなかった。

 千利休の娘で佐治という女がいた。亡父の才能を受け継いで風流ごとに通じ、才気があり、しかも絶世の美女だった。若くして夫を亡くし、まだ二十歳をいくつか越えた若さだというのに、亡夫に操をたてて再婚を望まなかった。そこで世の面倒をさけて秀吉の北政所のもとに身を寄せていた。この佐治におぼしめしがあったのは、秀次だけでなく、それ以前に秀吉も、妻の北政所の屋敷で、茶の饗応にでた佐治の美貌にひかれて、側妾のひとりに望んだが断られ、理由をきいて「貞女料(ていじょりょう)」として、200石の禄を与えている。その佐治の噂を聞いた秀次は興味をもち、絵を書かせるといって聚楽第に招き、無理矢理自分のものとしようとして拒まれ、腹立ち紛れに首を刎ねてしまった。

 他にも、人を殺すことが好きで、殺されることを恐れた側近が、罪人を殺すことを提案すると、洛中の罪人をことごとく殺しつくし、罪人が足らなくなると、とうてい死罪にはあたらないちょっとした罪の者まで殺したとか、双子を身ごもっていると思われる妊婦をみかけ、腹を割いて確かめようとした。などなど残虐行為が陳列される。

 正親町天皇崩御に際する服喪中に、秀次が狩をして楽しんだことも伝えられる。これがことさらに秀吉の心証を損ねた。伯円いわく、秀吉は大変な勤王家であった。秀吉が吉野山に遊んだ際、後醍醐天皇が行宮にさだめた吉野院をおとずれた。秀吉を宿泊させるに足る部屋がなかったのだろう。寺の僧侶は、後醍醐天皇の玉座の間に寝所を設けようとした。それを知った秀吉は怒って、一晩中、次の間に端座して過ごしたという。伯円が吉野へ花見に行ったおりに吉野院の案内の者から聞いた話だ。この話を複数の新聞に投書したというが、紙名と日時が特定できず、見つけ得なかった。秀吉が天皇をどう思っていたかは知らないが、尊皇家の印象はない。伯円も意外の感に打たれてことさらに宣伝したのかもしれない。

 淀君とのあいだに大望の男子が誕生し、後継者を早急に決めすぎたことを悔いているところに、天皇への非礼も含めた秀次の問題行動の報告が次々あがってくる。秀吉は、表面的には鷹揚に聞き流し、心のうちでその罪を積みあげていた。

 そして、秀次の罪が秀吉の心の許容量を超える事件がおこる。秀次が後見役の木村常陸介(ひたちのすけ)にそそのかされて秀吉暗殺を企てたのである。

 秀次に数々の悪行の報いをうける日がきた。高野山に幽閉されて出家させられた秀次は、文禄4(1595)年、切腹を命じられたのである。

■畜生塚

 秀次の死まで懐の大きい人間のように語られている秀吉だが、秀次の残虐さがこどものわがままのようなものであるのに対し、秀吉の残虐さは法のもとにくだされる。

 暗殺の実行犯として大坂城に潜入し、捕らえられた石川五右衛門は、その母と息子とともに釜ゆでに処された。伯円は、この処刑具の実物(レプリカだろうか)を奈良の博覧会でみたことがあった。釜には、罪人が首をだす穴のあいた鉄のフタがついていたという。身を油で煮られて苦悶しながら死んでいく罪人の顔を見物していたということだ。釜をみたときの伯円でなくとも身震いしたくなる。

 さらに聞き手を悲痛な思いにさせるのは、秀次亡きあとの彼の家族の処遇である。

 秀次が自害させられたのち、秀吉の命で、彼の4人の幼い息子、娘、妻妾あわせて37人(人数については異説あり)を三条河原にひきたて、わざわざすえた秀次の首の目の前で、全員の首を刎ねた。

 伯円の講談では、最終席に殺害の順に名前と年齢、出自、辞世の句が並べられている。十代から三十代の美女たちである。亡骸は、秀次の首級とともに無造作に埋められ、「畜生塚」という塚がつくられた。

 死後の魂までもおとしめる、罪なき刑死者に対し、一抹の同情もない恐ろしいまでの冷酷さだ。この残虐性をみて、これが秀次の暴虐に報いる勧善懲悪の物語であったことを忘れてしまう。

 伯円によると、塚の名は、「畜生塚」ではあまりにも傷ましいと多くの人が秀吉に進言して「秀次悪逆塚」と改められたというが、徳川の代になって、忌まわしいと取り壊されたという。

 その後、慶長16(1611)年、棄却された塚のあとをみつけた豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)によって、秀次とその家族の供養のため瑞泉寺(京都市中京区木屋町)が建立された。

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水野年方画「聚楽殿」(『文芸倶楽部』 7巻6号、明治34年4月15日所載)
口絵:塚原渋柿園の小説「聚楽殿」に付された。秀次の妻、一の台が処刑される場面

■家を滅ぼすということ

 豊臣秀次の死とその妻妾、こどもたちの惨死も、その後の豊臣家の滅亡も、歴史上いくども繰り替えされてきた栄枯盛衰のひとつだ。伯円は、この物語を読みはじめるにあたり、草双紙に耽溺した昔を懐古している。彼の心には、いくつもの悲劇的な栄枯盛衰の物語があった。

 だからこそ、伯円みずからが経験した栄枯盛衰のひとつ、明治革命で、秀次の家族におこった悲劇が徳川家にくりかえされなかったことに感動を覚えた。

徳川贔屓の人たちは慶喜公の所為を非難する者が多かつたが、伯円は大の慶喜信者で極力慶喜公の為に弁じ、人の家と云ふものは起すもむずかしいが潰すもなか/\骨の折れるものだ、足利にしろ北条にしろ終りはまことに悲惨で、一族が総べて滅びたが、独り徳川ばかりは終りがきれいであつたのは慶喜公が偉い為であつた、と何処までも慶喜公の弁護をして居た。(『円玉情話集』中村書店、大正15年)

 伯円は、むかしから頑固なほどの徳川贔屓だった。好きなものといえば、芝居に、東照大権現様。そしてなにより徳川慶喜を尊敬していた。

 徳川慶喜については、伯円は「上野の戦争」(『有喜世の花』第十六号から第三十四号、明治三十一年一月から十月)でもたっぷり語っている。悪評、不名誉、侮蔑をその身で引き受け、日本国と、徳川家の家族の命を守ろうとした(と伯円は判断した)慶喜の態度を、伯円はえらいと思っていた。

 世間に理解されるための努力はむなしい。うつりやすい世評などより大切なものがある。

 ちなみに、伯円の辞世として伝わる句は「我心さぐる人なし霧の海」(「朝日新聞」明治三十八年三月一日付)である。

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