アルバイト日誌「卒論執筆記④「共に生きる」」(2021.10.14、れい)

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 卒論提出がひたひたと近づいている。「ひたひた」という言葉を使うのは、例えば今までの演習やレポートのようにあと2週間、などというスパンではないからだ。もっと口語的に言うならば、締め切りが!発表が!と騒ぐのではなく、静かに、でも確実に提出日が迫ってきているという感覚だ。ここまで来ると、「卒論」という漠然とした怖さも吹っ切れた。もう自分の信じる道を前へ、前へと毎日突き進んでいくしかないと思っている。

 先日、授業後に友人と自分の研究に関する話で盛り上がった。雑談ではあったけれども周辺領域まで話が及び、思いや感覚を共有することができた。振り返ってみると、入学したての頃は、論文?レポート?というレベルで、最初に書いたレポートは、レポートではなくただの感想文だった。約3年後、何万字という卒論を書いていることを、その時の私は全く想像することができなかったし、(凡庸的な言い方だけれども)こんなにも文学の世界が奥深いことも知らなかった。一学部生の未熟な私ではあるけれども、今、大学という「研究機関」の中で一つのテーマ、作品に悩み、向き合い卒論を執筆していること、学問的な場にいられることが本当に嬉しい。「嬉しい」というのはざっくりとした表現すぎるかもしれないけれども、この言葉がぴったりだと思う。

 実は、6月から8月くらいまで、ある一つのテーマで大きな壁にぶち当たっていた。同期が着実に本文を読み、考察をしていることに焦りもあったのかもしれない。研究対象について、ほんの欠片も拾えない、理解できない状態が続いた。それを少しだけ乗り越えられた今思うのは、私がそのテーマへと分け入っているだけではなくて、その対象がその時々によって訴えかけてくるものがいかに大きいかということである。私の手元にある本ではあるが、渡部泰明先生が、勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信、2019年)55ページにて、「古典かどうか判断する一番の基準に置くのは、「共生」という言葉です」とおっしゃっている。この「共生」、「共に生きる」という先生のお言葉は、私にとって忘れられない言葉であって、そして卒論を書いている今、実感として感じていることだ。「共生」の解釈が誤ってしまっているかもしれないが、研究対象を知れば知るほど、私が成長をするほど新しい部分が見えてきて、それを考察して卒論という形にしていく作業であったり、ご指導をくださる先生、先輩、共に向き合っている友人との共有の「場」は、私にとって本当に大切なものである。

 私の卒論執筆記なるものに、渡部先生のお名前を出して良いのか、大変迷ったところではあるのですが、「共に生きる」という言葉をどうしてもお伝えしたく、引用させていただきました。指導教員の先生や先輩方がこのアルバイト日誌を読まれると思うと恥ずかしい気持ちもあるのですが...。残り二か月、自分を大切にしながら執筆できれば良いな、と考えています。