山中美潮「1-15.カロライナ・デジタル・ヒューマニティーズ・ イニシアティブ・大学院生フェローの 経験を通じて」●『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』より公開

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2021年7月に刊行しました『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』より、山中美潮「1-15.カロライナ・デジタル・ヒューマニティーズ・ イニシアティブ・大学院生フェローの 経験を通じて」を公開します。ぜひお読みください!

●詳細はこちら
9784909658586.jpg

【監修】一般財団法人人文情報学研究所
【編集】小風尚樹/小川潤/纓田宗紀/長野壮一/山中美潮/宮川創/大向一輝/永崎研宣
『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』
ISBN978-4-909658-58-6 C0020
A5判・並製・496頁
定価:本体2,800円(税別)

-------


1-15 
カロライナ・デジタル・ヒューマニティーズ・
イニシアティブ・大学院生フェローの
経験を通じて

文●山中美潮


1.はじめに
 筆者はノースカロライナ大学チャペルヒル校(以下UNC)博士課程在籍時にデジタル・ヒューマニティーズと出会った。当時UNCではデジタル・ヒューマニティーズ研究発展のため学内でさまざまな計画が遂行されており、カロライナ・デジタル・ヒューマニティーズ・イニシアティブ (以下CDHI)・大学院生フェローはそのプログラムの一つであった。2013年度、幸運なことに筆者は当プログラムの第一期生に選ばれた。19世紀アメリカ南部史を専攻するために留学した筆者にとって、デジタル・ヒューマニティーズとの出会いは方法論や研究の対象を考える上で大きな転換点となった。ここではUNCでのデジタル・ヒューマニティーズ研究と、フェローとしての経験を記す。

2.Digital Innovation Lab (DIL)
2-1.概要

 UNCにおけるデジタル・ヒューマニティーズ研究の始まりは、2011年のデジタル・イノベーション・ラボ(以下DIL)設立にさかのぼる。このラボは学部の壁を超え、「プロジェクトベースのデジタル方法論と人文学研究を統合させ、デジタル革新によって公共人文学を促進する」ことを目的として設立された[注1]
 DILはアメリカン・スタディーズ学部・研究科内にある。これは初代ディレクターであったロバート・アレンがアメリカ映画研究者であったことが大きい。DIL設立前にアレンは「ゴーイング・トゥ・ザ・ショウ」というプロジェクトを発表しており、2010年にアメリカ歴史学協会から優れたデジタル・ヒストリー・プロジェクトに送られるロイ・ローゼンツヴァイク賞を受賞している[注2]。このプロジェクトはサンボーン社火災保険地図をデジタル・スキャンし、経度・緯度情報を付与、20世紀初頭のノースカロライナ州におけるサイレント・フィルム劇場の位置情報と共にグーグルマップ上に表示させたものである。さらにUNC所蔵の絵はがき・新聞・パンフレットなどの史料を使いウェブ上で公開することで、州民によるサイレント・フィルムの鑑賞経験をオンライン上で追体験できるようにした。UNCは20世紀初頭からアメリカ南部諸州の史料を継続的に収集しており、21世紀初頭には史料のデジタル化や関連プロジェクトを進めてきた[注3]。こうした経緯もあり、UNCではデジタル・ヒューマニティーズ研究基盤がアメリカン・スタディーズ学部・研究科にあるという特色を持つことになった。2012年度後期にはDILが中心となり、初めてアメリカン・スタディーズ研究科で「デジタル・ヒューマニティーズ/デジタル・アメリカン・スタディーズ」という大学院生向けの講義が開講された。

2-2.マッピング
 DILの活動は多岐にわたるが、初期にはマッピング・プロジェクトに注力していた。特に、「DHプレス」と名付けられたワードプレスのプラグイン開発は注目に値する[注4]。これは地理空間分析ツールではなく、あくまでデジタル化された史料とそれらの位置情報などとの関連を表示・表現することを目的とするもので、「ゴーイング・トゥ・ザ・ショウ」などの経験が基礎になったことは明らかである。プラグインを使用するために必要なものは、基本的に緯度・経度などのデータを入力したスプレッドシートのみである。データをワードプレスにアップロードするだけで、表示方法などはすべてワードプレス上で操作可能であった。プラグインを開発することによって、デジタル・プロジェクトが新しく発足するごとに一からすべてを構築する必要もなく、一般の人でも利用できる操作性に主眼が置かれた。これはDILが当初から博物館展示や現地コミュニティーとの共同企画などデジタル・ヒューマニティーズの公共性を意識した運営をしていたことが背景にある。
 また講義もマッピングが大きなウェイトを占めていた。「デジタル・ヒューマニティーズ/デジタル・アメリカン・スタディーズ」の講義では、基礎文献やオメカなどのツールを学ぶ一方、学内外で行われるプロジェクトへの参加が義務付けられたが、マッピング関係のものが多かったと記憶している。筆者はノースカロライナ州立大学レバノン人ディアスポラ研究所によって行われた、20世紀初頭のレバノン系移民居住地マッピング・プロジェクトに加わり、ノースカロライナ州内主要都市の移民の特定や統計作業を担当した[注5]。こうした講義内容の特徴はDILがDHプレスの実用化を目標としていたことと関連しているが、当時のDHプレスは実際にマッピングに使用するには不安定さが目立ち、プロジェクトが計画通りに進まないことの方が多かった。初めての院生向けデジタル・ヒューマニティーズ講義ともあり、DIL、院生双方が試行錯誤を重ねながら講義を作り上げていったと言える。

3.CDHIとは
3-1.概要

 CDHIは2012年、5年間という期限付きでアンドリュー・メロン財団の支援のもと、DILによって立ち上げられた、デジタル・ヒューマニティーズ研究基盤構築のためのプログラムである。主な事業は、2013年度から本格的に始まった教員への研究支援、ポスドク研究員の雇用、および人文学系大学院生へのフェロー・プログラムである。筆者がフェローに選ばれたのはこの大学院生向けのプログラムであった。ここからは大学院生フェロー・プログラムへの参加経験を述べたい。

3-2.大学院生フェロー・プログラム
 大学院生フェローは、1年という期間にデジタル・ヒューマニティーズ科目の受講および個人プロジェクトの研究・遂行が義務付けられたプログラムである。採用数は毎年二人で、基礎的な知識・議論を押さえ、かつプロジェクトを実行するための経験を積むことに重点が置かれたため、博士論文をすでに書き進めているいわゆる「All But Dissertation」の学生よりは、これから博士論文執筆資格を獲得する学生を採用することを主眼としていた。筆者が採用されたのは、論文執筆前の留学3年目であったから、幸いなことに彼らの望む学生像に合致したと言える。各大学院生にはDIL/CDHIから選ばれたメンターが付き、プロジェクトの計画およびサポート体制が整えられた。筆者の場合、アメリカ史が専門分野であることやマッピングを志望していたためロバート・アレンに師事する形となった。またプログラム遂行のために年間4,000ドルの研究費が支給された。必要なソフトウエアやデータベースへのアクセス権はほぼ図書館や情報センター経由で無償・もしくは安価で手に入れることができた。こうした手厚い支援は研究大学ならではであった。

3-3.講義
 プログラム期間中はCDHIによって認定されたデジタル・ヒューマニティーズないし関連科目のうち、最低3科目を受講することが定められた。特に個人の専門以外の分野を受講することが奨励されており、分野横断性重視の姿勢を体感した。さまざまな選択肢があったが、2013年度前期にはアメリカン・スタディーズ研究科で開講された「デジタル・ヒューマニティーズ・プラクティカム」、また後述の個人プロジェクトのために地理学の講義を取りArcGISの使い方を集中して学んだ。2013年度後期には史学研究科で「デジタル・ヒストリー」および個人プロジェクト遂行のためアドバイザーとマンツーマンで行う「インディペンデント・リサーチ」を受講した。最低3科目というとあまり負担がないように感じるかもしれないが、所属研究科では各学期3コマ受講が基本であったので、規定を守りながらデジタル科目を受講するのはなかなか骨の折れる交渉や調整が必要であった。

・デジタル・ヒューマニティーズ・プラクティカム
本講義は、2012年度開講の「デジタル・ヒューマニティーズ/デジタル・アメリカン・スタディーズ」の発展版であった。講義はディスカッション、他大学とのコラボレーションセミナー、クラス全体によるプロジェクトの三つで構成された。ディスカッションはデジタル・ヒューマニティーズの基礎文献や最新のブログ記事などを教材としたが、コラボレーションセミナーはこれに加えて近隣にあるデューク大学、ノースカロライナ州立大学の学生・教員を交えて行われた。UNCがマッピングに偏重しがちであった中で、このコラボレーションではデジタルゲームと教育、古代都市の3Dモデリングなどさまざまなプロジェクトに触れることができ、また専門分野の異なる学生と交流を持つことができた。クラス・プロジェクトは学期の後半に最終課題として行われ、「ゴーイング・トゥ・ザ・ショウ」の発展版である「ゴーイング・トゥ・ザ・グローバル・ショウ」プロジェクトを受講生全員参加で計画し作り上げた。これはDH プレスを使ったマッピング・プロジェクトであるが、ウェブデザイン・データ収集・データベース作成などを院生同士分担して行ったもので、技術的な革新性は乏しいが、共同作業になじみのなかった筆者のような人文系大学院生には自身の計画を立てるのに有用な経験であった。

・プラクティカルGISおよびデジタル・ヒストリー
 「プラクティカム」がいわゆる入門クラスで幅広いテーマをカバーするのが目的であったのに対し、「プラクティカルGIS」および「デジタル・ヒストリー」は個人プロジェクト用の技術習得を目指して受講した。後に詳しく述べるが筆者は当時博士論文研究にマッピング技術を導入したいと考えており、DHプレスのように史料をただ視覚化するだけでなく、地理空間分析に挑戦したかった。そこで当時歴史GIS専門家が担当していた「プラクティカルGIS」講義を受講しArcGISを学ぶことにした。「デジタル・ヒストリー」はフェロー期間中、社会ネットワーク分析研究者がDILに迎え入れられたことから受講を決めた。どちらも基本的には各分野の重要文献を中心としたディスカッションとツールの使い方指導が主たる内容であったが、個人プロジェクトの基礎となる課題を設定し提出するよう教員と事前打ち合わせをしたので、「プラクティカム」に欠けていたツールの実践的学びの機会を補うことができた。

4.個人プロジェクト:"The Fillmore Boys School in 1877"[注6]
4-1.プロジェクトの背景

 CDHI大学院生フェロー・プログラムではデジタル・ヒューマニティーズの講義受講が義務となるだけでなく、自らデジタル・プロジェクトを計画・遂行することが求められた。そこで講義を受けながら、年間を通じて個人プロジェクトを進めることとなった。
 筆者の博士論文研究はアメリカ南北戦争(1861-1865年)と再建期(1863-1877年)の自由黒人による市民権論争と公共施設の脱人種隔離運動を論ずるもので、特にルイジアナ州ニューオーリンズ市の有色クレオールと呼ばれたフランス語話者でアフリカ系の血を引くが自由身分であった人々による草の根市民運動を扱った[注7]。フェロー当時は特に公立学校の人種隔離問題に注目していた。ニューオーリンズは1871年から77年という短期間ではあるが、一部公立学校の人種統合が試みられていたからである。ただ教育・有色クレオールに関連する史料は乏しく、一般市民の反隔離運動をどう明らかにするか、課題を抱えていた。また全米でもまれに見る再建期の人種統合例が、現代のニューオーリンズで忘れ去られていることにも問題を感じていた。
 前置きが長くなってしまったが、そこで筆者はデジタルツール、特に地理空間分析を通して史料を読み解くことで、いかに上記の問題を克服できるか挑戦することにした。人種隔離問題は生活空間と切っても切り離せないからである。当初の計画では、1871年から77年の公立学校分布図と、学校ごとの人種政策や変化のデータを作成、人種統合が試みられた時期や位置情報の特性を調べようと計画していた。しかし、当時の市教育委員会関連史料の制約からこの計画は最終的に断念することとなった。
 そこで学校隔離問題を俯瞰的に見ようとするよりも、一つの学校に焦点を絞ることにした。具体的には、1877年に作成されたフィルモア・ボーイズ・スクールの学籍簿を使用することにした。この学籍簿には658人分の生徒の氏名、住所や入学日などの情報のほか、保護者名や職業などが記録されていた。フィルモア・スクールは有色クレオールが当時多く住んだ地域に位置し、1871年から人種統合が進んだ学校であるが、1877年に白人専用と定められた。そのため当初1877年の学籍簿データはすべて白人のものと推定され、名簿には人種欄すら存在しなかったが、よく見ると「黒人学校へ転校」との付記のある生徒が存在した。そこで、掲載されている生徒の個人情報とセンサスの人種情報を合わせて地図上に表記することで、この学校における人種パターンや生徒の居住地の特徴を明らかにしようと試みたのである。
 こうして始まったプロジェクトであるが、ここまで計画を立てるのにかなりの時間を使ってしまい、いざ実行となった時、残された期間は8カ月ほどになっていた。プロジェクト実行期間は、1)データ作成、2)ArcGISによる地図作成、3)ウェブサイト作成、に大きく分類できる。データ起こしには3カ月、ArcGISによる地図作成に4カ月、ウェブサイト作成に1カ月ほど使い、期日に間に合うよう時に同時並行で作業を進めた。

4-2.データ作成
 データ作成には学籍簿のデジタル化、また生徒のセンサス情報を特定する必要があった。この細かな作業にはDILを通じて研究費で学部生を雇用することができた。学部生が学籍簿をデータ化し、修正・確認作業やセンサス情報収集は主に筆者が行った。またArcGISはデータをcsvファイルで取り込めるため、収集データはグーグル・スプレッドシートにまとめて共有することにした。そのほか細かな業務のフローチャートや文字起こしのルール作成などはメンターであったロバート・アレンやDILマネージャーの監督・指導のもと行った。日常業務はグーグル・ドライブとトレロで管理し、定期的にDILで今後のタスクに関するミーティングを持った。

4-3.ArcGISによる地図作成
 データ作成に終わりが見えてくると、ArcGISを使い、ニューオーリンズの古地図に緯度・経度情報を付与していく作業に取り掛かった。当市には 「ロビンソン・アトラス」という1883年に作られた火災保険地図が存在しており、jpegでスキャン、保存されたものがオーリンズ郡民事地方裁判所書記室のウェブサイトで公開されている[注8]。この地図をArcGISに取り込み位置情報を付与、そして各生徒の居住地を示すシェープファイルを作成、最終的に年齢・人種などの個人情報を結合させ、地図を完成させた。結果、658人分の学籍簿データのうち、正確性にはばらつきがあるものの、合計567人分の居住地情報および288人分の人種情報を地図に反映できた。

4-4.ウェブサイト作成
 こうして分析に使えるデータが完成した後、筆者は地図および生徒の居住地データの公開準備をした。データ公開には大学から無償で提供されるツールやサーバーなどを利用した。例えば、地図データはArcGIS オンラインにアップロードしたが、それは大学図書館を通じて行っている。地図公開準備が整うと、プロジェクト紹介のためのウェブサイトを立ち上げた[注9]。これには大学が提供する学生用無料ワードプレスサービスを利用した。機能やデザイン制限はあったがプロジェクト概要やニューオーリンズの歴史を紹介するには十分であった。ウェブサイトを立ち上げたのは、DH プレスに影響を受けていたこともあり、研究成果を視覚化することで現地の教育史に貢献したい、また、フィルモア・スクールに通った生徒の子孫や歴史家と情報共有したいという思いがあってのことである【図1】

wcdh1-15-1.png
図1 ArcGISオンラインにアップロードしたロビンソン・アトラスとフィルモア・スクールの学校・生徒情報のスクリーンショット[注10]

4-5.成果と反省
 こうして2013年度の終わりになんとか完成に間に合った個人プロジェクトであったが、さまざまな成果があった。まず、学籍簿・センサスをかけ合わせてデータを構築したことで、1877年には白人専用学校であったはずのフィルモア・スクールに有色クレオールが多数入学を求めていたことが判明した。これだけでも、隔離への抵抗運動が従来考えられてきたものよりも大規模であったことがわかった。そして居住地を分析することで、当校の学区には、アメリカ都市に特徴的な人種別居住区分が見られないことが判明した。これはニューオーリンズが再建期に一時的・部分的にでも脱隔離を果たしたことに貢献しているだろう。こうした結果は博士論文の主要な議論の一つとなった。さらにデータを公開することで、実際に系図学者などと交流を持つことができ、生徒のその後や縁戚関係などを明らかにすることができた。
 またプログラムを通じて学内外でのコミュニティーを広げることができた。CDHIに選ばれた教員、ポスドク、大学院生の専門は文学・美術・地理学・考古学など多様であり、立場を超えて自由にミーティングをもち議論をすることができた。こうした交流は研究の方向性を考える上で大いに役に立った。このプログラム終了後には「Carolina Digital Humanities Graduate Certificate」を取得、2017年度には歴史学部・研究科のデジタル・ヒューマニティーズ院生メンターとして、ワークショップなどを開催した。フェローとしての活動が終わった後も、CDHIでの経験を役立てることができたのは幸いであった。
 しかし、反省点もある。まずはプロジェクトの将来性である。例えばArcGISはUNCに所属している限り実質ライセンス料を支払う必要がなかったのだが、卒業した現在はソフトウエアの継続利用が難しく試行錯誤している。またArcGIS オンラインはUNCがデータ保管をしているものの、更新作業はできないのでプロジェクトは現在一時凍結状態にある。計画時に卒業後のプロジェクトの在り方も見据えておくべきであった。
 また筆者の所属研究科とCDHIの履修義務が制度上必ずしもシームレスにつながらない場合があり、ただでさえ言語の壁があるというのに、やるべき課題の多さに途方に暮れる毎日であった。さらに博士論文審査ではデジタル研究よりも記述が重視されたので、やはりバランスを取るのが難しかったと言える。近年DILは、こうした事態に対してデジタル博士論文奨学金などの制度を設け対処している。

5.UNCにおけるデジタル・ヒューマニティーズの現在
 こうして2013年度、一期生としてCDHIおよびDILに関わったが、UNCでのデジタル・ヒューマニティーズ研究はめまぐるしい勢いで変化・進化を遂げている。余談ではあるが、個人プロジェクトがひと段落ついた2013年度末には、筆者のプロジェクトを手助けしてくれた研究者たちはロバート・アレンを除きすべて他大学や研究所に異動になることが決まっていた。テニュア取得前の若手研究者が多かったということもあるが、北米でのデジタル・ヒューマニティーズの勢いを実感した出来事であった。
 CDHIは2017年まで教員・ポスドク・大学院生へのフェローシップ事業を行った。その間デジタル・ヒューマニティーズへの参入者も増え、フェローの専攻もさらに多岐にわたるようになった。アンドリュー・メロン財団によるファンディング期間の終了後、CDHIはカロライナ・デジタル・ヒューマニティーズという形に進化を遂げ、さらに多様なフェローシップ事業を展開している。そのうちの一つが(先ほど言及した)2016年から募集が始まったデジタル博士論文奨学金制度である。大学院生フェローは個人のデジタル・プロジェクトに従事する傍ら、DILからの指導やサポートが受けられる。また、将来的には博士論文の代替物としてデジタル・プロジェクトに取り組むことも可能である。もちろんこの制度を活用するには指導教員のほか、博士論文審査委員会の了承を得るなど所属研究科との調整が必要不可欠となる。しかしすでに2019年度には、UNCの人文学研究で初めて、デジタル博士論文で学位を取得する学生が現れている[注11]
 また、DILでは技術の向上も見られた。前号で紹介したDH プレスはプロスペクトというワードプレスのプラグインに発展した。プロスペクトは「ユーザー・フレンドリー、オープンソースで柔軟な」ビジュアリゼーション・ツールとして、マッピングのほか、タイムラインやギャラリーなど多様な機能を備えている[注12]。プロスペクトを使った具体的なプロジェクトとしては、『ネイムズ・イン・ブリック・アンド・ストーン』があげられる[注13]。これは2015年、UNCのパブリック・ヒストリーを受講した学部生・大学院生によって作成された大学史プロジェクトである。UNCはアメリカの公立大学でも最古の部類に入り、キャンパスに関連する豊富な史料を保持している。くしくも2010年代は、アメリカ各地、特に南部で大学における奴隷制や人種隔離の歴史をどう扱うべきか議論が再燃しており、デジタル・プロジェクトが大学の公共性や歴史認識論争に貢献した例の一つである。
 DILは現在でもマッピング技術に一番の特色があるものの、3Dモデリングやオーラルヒストリーなど多様なプロジェクトの支援も行っている。また、毎週水曜日にはさまざまなツールのワークショップをインフォーマルな形で開催している。ノースカロライナ州内のさまざまなコミュニティー、大学とのコラボレーションも進んでおり、UNCでのデジタル・ヒューマニティーズ研究はこれからも多角的に発展すると思われる。

6.おわりに
 2013年度のCDHI大学院生フェロー・プログラムは研究のスコープや可能性を考える上で転換点であった。筆者の博士論文は結局のところ、デジタル博士論文とはいかず、叙述形式が中心となったが、それでも地図作成や地理空間分析などは議論や論証に欠かせないものになった。
 当時はDILもCDHIも始動したばかりで、続々と機材の運び込まれるラボ内で運営側も学生側も双方が試行錯誤していた。余裕のないことも多かったが、いま振り返ればデジタル・ヒューマニティーズ教育・研究基盤作りに何が必要なのかを知る上で貴重な経験であった。


▶注
[1] "Our History," Carolina Digital Humanities | Digital Innovation Lab, accessed July 14, 2020, https://cdh.unc.edu/history/.
[2] "Going to the Show: Mapping Moviegoing in North Carolina," Documenting the American South, accessed July, 2020, http://gtts.oasis.unc.edu/.
[3] UNCではウィルソン図書館が南部史料コレクションなどさまざまな貴重資料を保管している。21世紀転換期にはこれら史料のデジタル化が「ドキュメンティング・ジ・アメリカン・サウス」(通称:DocSouth)などのプロジェクトにより進められた。「ゴーイング・トゥ・ザ・ショウ」もDocSouthの支援を受けて行われたものである。 Documenting the American South, accessed July 14, 2020, https://docsouth.unc.edu/.
[4] "DH Press," Digital Innovation Lab, accessed July 14, 2020, http://digitalinnovation.web.unc.edu/projects/dhpress/.
[5] このプロジェクトは最終的に、2014年2月ノースカロライナ州歴史博物館で"Cedars in the Pines: The Lebanese in North Carolina, 130 Years of History"展の一部として公開された。
[6] The Fillmore Boys School in 1877: Racial Integration, Creoles of color and the End of Reconstruction in New Orleans, accessed January 31, 2019, https://fillmoreschool.web.unc.edu.プロジェクト・ウェブサイトは卒業後、下記のアドレスへ移管している。"The Fillmore Boys School in 1877," Mishio Yamanaka, accessed July 14, 2020, https://mishioyamanaka.com/fillmore-boys-school-project/. 本プロジェクトに関しては、山中美潮「アメリカ史研究とデジタル・ヒストリー」『立教アメリカン・スタディーズ』40 (March 2018): 21-25、も参照のこと。
[7] 自由黒人は奴隷制廃止以前より自由の身分にあったアフリカ系アメリカ人の総称である。彼らは白人層と黒人奴隷層の中間的存在であった。自由黒人に関する議論に関してはIra Berlin, Slaves without Masters: The Free Negro in the Antebellum South (New York: Pantheon Books, 1974); Warren E. Milteer, Jr., North Carolina's Free People of Color, 1715-1885 (Baton Rouge: Louisiana State University Press, 2020)を参照。
[8] "The Robinson Atlas," Clerk of Civil District Court for the Parish of Orleans, accessed July 14, 2020, http://www.orleanscivilclerk.com/robinson/.
[9] "The Fillmore Boys School in 1877," Mishio Yamanaka, accessed July 14, 2020, https://mishioyamanaka.com/fillmore-boys-school-project/.
[10] Mishio Yamanaka, "The Robinson Atlas, New Orleans (plates 6-9, 18, 19, 21-23)," ArcGIS Online, accessed July 14, 2020, https://www.arcgis.com/home/webmap/viewer.html?webmap=c73d9706934148a287f52693f4fec4b2&extent=-90.0804,29.9612,-90.0378,29.9818.
[11] 詳しくは"Programs," Carolina Digital Humanities | Digital Innovation Lab, accessed July 14, 2020, https://cdh.unc.edu/programs/を参照。UNCにおける最初の人文系デジタル博士論文は、Charlotte Fryar, Reclaiming the University of the People, accessed July 14, 2020, https://uncofthepeople.com/.
[12] "Prospect: Data Visualization," Carolina Digital Humanities | Digital Innovation Lab, accessed July 14, 2020, https://cdh.unc.edu/spotlights/prospect/.
[13] Names in Brick and Stone: Histories from UNC's Built Landscape, accessed July 14, 2020, http://unchistory.web.unc.edu/.

-------

山中美潮(やまなか・みしお)
1986年生まれ。同志社大学アメリカ研究所助教(有期)・専任研究員。ノースカロライナ大学チャペルヒル校博士課程修了。Ph.D.(history)。南山大学非常勤講師等を経て現職。主要論文に「アメリカ史研究とデジタル・ヒストリー」(『立教アメリカン・スタディーズ』第40号、2018年)、"African American Women and Desegregated Streetcars: Gender and Race Relations in Postbellum New Orleans"(Nanzan Review of American Studies 第40号、2018年)、「2019年の歴史学会─回顧と展望 アメリカ(北アメリカ)」(分担執筆、『史学雑誌』第129編、第5号、2020年)など。


『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』特設サイトへ