『高校に古典は本当に必要なのか 高校生が高校生のために考えたシンポジウムのまとめ』刊行記念★当日のアンケート全公開
Tweetまもなく、『高校に古典は本当に必要なのか 高校生が高校生のために考えたシンポジウムのまとめ』を刊行いたします。
本書は、古典否定派・肯定派の本物の研究者があつまって論戦に挑んだ2019年1月のシンポジウム「古典は本当に必要なのか」をうけて開催された、現役高校生が当事者として高校生にアンケートを実施し、議論の場を作り考え開催された、シンポジウム「高校に古典は本当に必要なのか」の再現+終了後のアンケート+企画に至るまでの舞台裏+編者による総括です。
これからの議論のために、アンケート部分をすべて公開することにいたしました(本来であれば、主催者自身による公開が望ましいのですが、暫定的にこちらで公開することにいたします)。
本書とあわせて、ぜひ参考にしてみてください。
●2021.06月刊行
長谷川凜、丹野 健、内田 花、田川美桜、中村海人、
神山結衣、小林未來、牧野かれん、仲島ひとみ[編]
『高校に古典は本当に必要なのか』(文学通信)
ISBN978-4-909658-36-4 C0095
A5判・並製・304頁
定価:本体1,800円(税別)
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問1.シンポジウム終了後、現時点で、あなたは「古典を高校で学習する」ことについて肯定派ですか? 否定派ですか?
問2.シンポジウムに参加する前と、後で意見は変化しましたか?
問2-a.問2の回答理由を教えてください。上記のように答えた理由を教えてください。
【肯定派で「変化した」と答えた人の理由】
・自分の主観で苦手意識から否定だったが、古典の意味を考えた場合今日ディベートを聞き古典の必要性を感じた。
・ツベタナ先生がおっしゃっていたことにものすごく納得させられたから。
・肯定否定が変化したわけではないのですが、自分の中で「必要」とは何か考えた時に意見が変化しました。
・自分が古典についての知識があまりないことがよくわかった。それは、文法とかそういうこと以外にも、教科書に載っていない古典の世界や、古典を取り巻く日本の教育事情について全然知らなかったことに気づいた。議論を見ての自分の意見は二択の中では変わらなかったが、もっと深く学んでから自分で古典やほかの教科についても教育の在り方に意見を言えるようになりたいと思った。
・自分が浅いところで古典を嫌いに感じていたと思わさせられたから。
・最近授業で習う古典文法が難しくて、覚えることが多くて「古典なんてなくなってしまえ!」と思っていました。今でも「助動詞の活用や単語をそこまで勉強する必要はあるか?」という気持ちは変わらないとは思いますが(笑)古典を学ぶ意義というものは少しわかった気がします。この気持ちをこれからも大切にしていきたいです。
・私は国語の授業の一環として古典を学ぶことになんの疑問も持たずに学び、今回この問いを見て『よくよく考えたらいらないかも』と思っていたのですが、『日本人としてのアイデンティティーだ』という主張で意見が変わりました。
・シンポジウムの前はどちらでもなかったけれど、討論の結果、否定派に傾きました。けれど、最後のまとめの話から先生方やICU生、またチャットからはzoom参加者の、古典に対する愛をひしひしと感じて、やっぱり古典はなくしたくないなと思いました。
・受験に向いている、コスパが良い、一方で古典ならではの差別的な表現がある、など新しい考えに触れることができた。
・古典を高校生に教えたいという強い気持ちがあります。「では、これから、どんな古典を?」ということをこれから考えるために、このシンポジウムの熱気を思い出すことが、大いに力になっていくと思います。「変化した」というより「変化する」と思います。
・肯定派であることは変わっていないが、否定派の意見を聞くことで肯定する理由がよりはっきり、強くなった。
・古典学習の必要性については近藤氏の「ピラミッドを役に立たないから潰してホテルを建てるようなものだ」の言葉のように論をまたないと考えているが、「現状の高校古典教育に問題がある」という指摘、ほかの学習内容との優先順位のあり方、その具体的な改善の方向性については、さらに議論の余地があると考えているため。
・討論を通して、高校教育における古典を語る際に、問題が混在していると感じたのが理由である。最後にある程度の合意が形成されたように、「授業のあり方」の問題を確立させて考える必要があるだろう。古典文学の存在価値と、それを素材として授業を行う場合の方法・学びによって引き出される気づき・学びの過程で育まれる力を、もっと段階的に考えるべきだと考えさせられた。
・否定よりだったが、肯定派の実際古典を使う場面に提示によって、古典の有用性がわかってきたから。
・主張は変わらないが、多様な見解を聞いて、視野の拡張につながったから。
・肯定派ではあったが、肯定する理由や肯定するための前提条件が明確になったから。
・否定派と肯定派、学生と教員というさまざまな立場の人の意見それぞれに説得力があり、自分ひとりだけで作られていた考えを改めることができたからです。
・肯定派という立場は変わらないが前回にはなかった新たな視点を提示されたことで古典の扱い方、授業について考えていく必要があると再確認できたから。
・肯定派・否定派の意見を俯瞰したことで、議題に対する各々の考えを多角的に把握することができた。
・高校生の方々がご自身で企画された点、本当に素晴らしく頼もしく感じました。まず今の高校生がここまで考え企画した情熱に、古典についての向き合い方が変わりました。
また否定派の先生方やディベートの否定側に回った生徒の意見を聞き、「古典好き」の私にとって意外な意見も多くありました。
今日のシンポジウムの内容だと「古典」よりも古典教育のあり方になるかと思います。両者は一緒くたにされがちですが、また別問題だと思いますし、その点について問い直した方がいいのではとは思いました。
【否定派で「変化した」と答えた人の理由】
・否定派の鋭い意見によって見方が変わったから。
・やはり主に差別の助長です。
・否定側の主張の方が説得性があると思ったから。
・シンポジウムの最後に、肯定派のパネリストの先生から「実用性のみを考えると古典は負けてしまう」という言葉があった。これは、否定派から挙げられていた「効率的でない」「ほかに学ぶべきものがある」という主張を覆すだけの反論が不可能であったことを意味していると思われる。私自身も日本文学科の学生として、原文での古典学習は必要だと言いたい気持ちが非常に強いのであるが、やはり3年間という限りある時間を考えた時、「学ぶべきもの」と「学んだ方がいいもの」は明確に区別すべきであると感じた。
・古典はときには時代錯誤な価値観をもたらすという意見に納得したから。
【どちらともいえないで「変化した」と答えた人の理由】
・高校の授業で、古典があるのは当たり前だと思っていたが、現代語訳があれば十分、将来役に立つことは少ないというような、必要ではないという考え方もあることに驚き、一部納得できるところがあったから。
・古典に苦手意識はあるけれど好きだったため今回のシンポジウムに参加した。最初は肯定派だったけれど、否定派の意見も聞いてこういう考えもできるのだなと学んだため、どちらでもないという立場になった。どちらの意見にも共感できた。
・参加する前は古典を学ぶ必要性がわからなかったけど、シンポジウムを通じて肯定派の意見に納得する部分があったから。
・個人的な意見としては、やはり原文を読まずとも現代語訳だけで事足りるような気がします。しかし、さまざまな方の肯定派の意見、そして生徒の古典学習についての切実な想いに、『時間の無駄だから』と一概に切り捨ててはいけないのだと強く思いました。
・どちらかと問われると意見は変わっていませんが、「古典」という教科に対する考え方は変わったから。
・多様な気づきがありました。
【肯定派で「変化していない」と答えた人の理由】
・肯定派か否定派かという二択で考えた場合には意見は変化していない。しかしそれぞれの意見を聞いて古典への考え方は変わったと思う。自分の知らない考え方に多く触れ、どちらが正しい、正しくないではなく、幅が広がったような気がする。抽象的ではあるが、そんな感じ。
・ディベートの中にも出てきていた、古典の中にある差別的な発言は授業で扱うべきではないと言う意見に対しての、肯定派の反論がとても納得できたから。
・否定派の意見も確かに、と思うものはすごくたくさんあったのですが、やはり必要か必要でないかと聞かれたら必要だな、と感じる。
・ディベートとしての説得力は否定側のほうがありましたが、結局シンポジウム全体や自分の考えを含めると肯定派です。
・もちろん双方の意見に揺れましたが、やはり古典は日本人として誇るべき文化であるし、古文読解では論理的思考力などが養われるため、古典は高校で学ぶ意義があると私は結論付けました。
・否定派の意見に気づかされたこともあったが、肯定派の意見に共感したから。
・たくさんの文章に触れることで広がるものは絶対にあると思うから。「直接役に立たない」という観点だけで見てしまえば、ほとんどの学問はそうなってしまうと思う。過去のことを学ぶことはこれからを変えるためのことだと思うから、差別的なものについても同じことを繰り返さないために排除しないべきだと思う。知らなければ変えることも創ることもできないのでは、と思うと過去を知ることは絶対に必要だと感じる。
・否定派に傾きそうになったけれど、肯定派の主張に共感することの方が多かったため。
・否定派の生徒パネリストの主張には矛盾点や蛇足が少なく、肯定派の意見よりしっかりしているように見えました。そこで少し意見は揺らぎましたが、最終的には文化的アイデンティティーを保つことが重要で、そのために古典は必要だという結論に至りました。最初はただ楽しいから、好きだから、という理由だったので肯定する理由は変化しました。
・ツベタナ先生が、古典を効率だけで考えてはいけないとおっしゃっていて、この言葉がとても心に残ったから。
・(ゲストより)否定派の根拠となるデータが曖昧であったから。(討論より)質疑応答?の際、肯定派の回答に対して否定派の解釈が極端であったから。自分で情報にアクセスする力が必要だと思ったから。
・ツベタナ先生のそもそも古典を学ぶことに疑いの目を向ける理由がわからない、といった言葉が心に響いた。やはり自国の文化は知っていて当然であると思うし、歴史のあるものはそれだけで学ぶべき価値があると思う。また、海外でも枕草子が英訳されていたりと日本の古典文学の国際的地位は高いと思う。そうしたものを自分のアイデンティティーとすることによる心の支え的な効果をねらえることであったり、生徒が一律に原点に触れ、原典と現代語訳の比較による価値観の違いであったり、古今で変わることのない普遍的な感情をはだで感じることができる、といった強みが古典の授業にはあると思う。一律に学ぶことに関しては、選択制にすればいいといった声もあったが、実際に勉強してみないとわからないこともあるので、猿倉さんのおっしゃった方法では少しもったいない判断を下してしまうことにもつながるのではないかと思った。
・賛成派の先生方のお話、そしてディベートを聞いて、より自分の意見に自信が持てたし、共感する部分が多かったから。
・教養は身につけて損するものではないから。
・否定派の意見に揺らぐほどのものではなかったからです。
・古典からも学べる人を育てる必要性を感じているから。
・古典がどのように享受・継承されてきたかに注目することで学びうるものがあり、それは古典だからこそ可能なことであると、個人的には考えております。今回のシンポジウムにおける否定派の方々のご意見をお聞きした限りでは、ひとまずその考えが変わることはありませんでした。
・高校生は否定派を含め、みな古典を学びたい(けれども授業には不満)ように見えた。
・私自身が古典を学んだことで人生が変わり、現在、中世文学を講じているから。
・否定派の立論の致命的な欠陥が解消されていないと感じているからです。
・古典の要不要を訴えているわけではないように聴こえたから。
・ツベタナ先生のお話、最後の生徒さんの訴えに感動したので。
・人の暮らしには歴史があり、古典を通じてしか知り得ない情報が歴史を支えているから。
・否定派の主張の根拠の中にも肯定派の主張の根拠の中にも、特に新しい考えが見当たらなかったため。
・否定派の意見も聞いて、こういう意見もあるのかと知りました。ですが、古典を学ぶことによってその当時の人々の心情や歴史背景などさまざまな事が学べ、現代人としてみたら独特な言い回しがあり、表現力や発想力が広がると思います。
・肯定派先生方の意見、「古典からしか学べないことがある(当時の記録を原文で読み、その時代に生きる人々に近づくことができる)」、「自国の文化を学ぶことはアイデンティティーの形成につながる」、「日本語・日本文化とは特に参加型の科目(分野)である」という意見に賛同いたします。また、生徒のディベートでの最終弁論「古典を学び、現代を相対化することで、視野の広がりが見込め、考え方を育てることができる」という点にも納得いたしました。否定派の先生方のおっしゃる「人文は社会的ニーズが少ない」というのは個人の価値観であり、そうは言い切れないと少し不満に思ったこともあります。
・ディベートのテーマにはそぐわないと思います。
・この物事に対する新たな視点は多く得たものの、結論(高校で古典を学ぶことについての肯定)は変わっていないため。
・否定派の議論の欠陥が非常に多く、むしろより一層肯定したくなった。
・意見の変化が起こるほど深い議論が行われていたとは思えない。
・原文で読めるべきか否か、がやはり大きな焦点だと思う。特に生徒さんたちのディベートを通じて、我が国の言語資料に自力でアクセスする手段は、能力の許す可能な限り多くの国民が持つべきだと思う。後期中等教育の段階で門戸を狭めてしまうのは危険である。否定派はノーベル文学賞の例を挙げたが、「訳で価値が保存されるか」という問題において問うべきは、そもそもノーベル文学賞は諸作品を正しく評価できているのか、ということである。ノーベル文学賞に英語以外の作品が選ばれていることを根拠にするのは、「訳でも価値が保存される」ことを前提に「訳でも価値が保存される」ことを述べていることにならないだろうか。
・私は、古典を学ぶ意義の一つとして、日本人としてのアイデンティティーを学ぶだけではなく、古典学習を通して自分自身のアイデンティティーや考え方を知る、捉えるということだと考えています。否定派のパネリストの皆さんの意見の中には、社会的ニーズがないこと役に立たない事や効率が良くないことなどが挙げられていました。しかし、キャリアの中で使う場面がないとしても自分自身の考え方を知っている、日本という国の文化や考え方、また現在の考え方に行き着いた過程を知っているのは大事なことだと考えます。今回の否定派の皆さんの意見で考えさせられる部分はたくさんありましたが、否定派に意見が変わるところまではいきませんでした。
・さまざまな方の意見を聞くことで、改めて古典を学ぶ大切さを知ることができたから。
・古典の意義について、改めて考えさせられました。確信が持てました。
・否定派の議論に納得できなかったから。
・否定派の主張は特に目新しいものはなく、すでに検討されているものであるから。
・結果的に変化していませんが、シンポジウムをうかがい、古典を学習することのメリットとデメリットを踏まえた上で、やはり古典は学習するべきだとの結論に至りました。
・否定派の意見は頷けるものもあったが極端なものが多く、肯定派の意見がより客観的で同意できるものであったため。
・古典を学ぶことには意義があると考えていたのが強化されたので。
・(参加前参加後変わらず賛成派)もともとぼんやりと思っていた意見が賛成派の意見を聞き新しい視点でのメリットも知ることによって強化されました。高校生の方の否定派の意見を聞いていると、合意形成で至ったように、なくさなくても授業内容を変えればいいのかな、という印象を受けました。しかし、思ってもみない否定派の視点もあり考えさせられました。高校生の方は賛成派反対派同じ人数でしたが、否定派の先生の数や意見が多ければまた違った結論になっていたかもしれません。
・否定派の論理に説得されなかったので。
・これがディベートという討論形式であることで、両者の違いを際立たせる効果があり、両方共に生徒さんたちはよく頑張っていて、感嘆しました。私は古典を学ぶことは、現在が、なぜこうなっているのかを知ることでもあると考えてきました。古典の表現や内容に、なぜと問いかけることで、懐疑の視点を学ぶことでもあると考えてきました。それは変わりませんでしたので。
・社会にでる前の3年間(4年間)に国語の古典について学ぶ時間・機会が大切だから。
・興味を持つ分野が増えることにもつながると思うため。
・否定派の論拠が弱い部分があった。特に、差別に関する否定派の意見は疑問。歴史的に差別があった事実は知識として知っておくべき問題だと思う。特に人種以外の問題(人種差別については現在も残っているものがあり、歴史的に地続きであるので想像しやすい)、職業差別に関しては、今はない(見えなくなっている)ものもあり、古典などで歴史的に学ぶことは必要だろうと思う。
・肯定しているので国語教育に携わっております。
・古典は差別を受け入れるものというような考えを高校生が出していたが、教える側が昔の価値観であり今は間違っていると教えることが大切であると私は考えております。また、古典を学ばない社会になれば余裕のない社会となると考えます。アイルランドの話にはなりますが、アイルランドでは英語推奨したために自国のアイデンティティーを失いかけたことがあり、それは古典にも言えることだと思います。
・ツベタナ先生がおっしゃるように自国の文化を学ぶ、学ばないというそもそもこの議論があがることがおかしいと思った。世界から見た日本古典のお話を聞き、価値のあるこの教科の大切さを再確認した。最後の発起者の生徒さんの言葉に胸を打たれた。
・国語科教育の中に古典教育は外せないという根っこの部分は変わらない。
・古典学習の意義や有用性についての理解を深めた。
・高校で学ばない理由としての否定派の主張は、傾くような内容とは思わなかったためです。
・否定派の結論の出し方は推論が短絡的であり、肯定派である自分の考えを覆すものではなかったため。
細かいことから言うと、義務教育と高校教育の違いは何か、普通高校も実業高校と同じなのか、「必要性」とは何か、「将来役立つ」とはなにか、「役立つもののみ学ぶ」なんてことができるのか、ネガティブなものを見せない教育がよいのか、など、奥にあるさまざまな問題への考察をすべてすっ飛ばして論じている。つまり、浅薄な結論の導き方なのに、自分たちでは「論理的だ」と思ってしまっているように思われる。浅いレベルでの「論理的」で満足なのかな、と見えてしまうが、否定派の方が割り切っているだけにはっきりとした意見が言いやすいのだろう。(猿倉先生が、「自分の周りはそうだ」というのをかなり重要なよりどころにしているのは、論理性を主張していながら結局「経験則」なんだ、とちょっと驚いたが。)
その奥にある必要な考察は、それぞれ大きなことなので、肯定派はそのあたりを感覚的に述べており、否定派にあまり通じていないように思われた。そもそも、論点整理と奥にある価値観を次元ごとに切り分け、それぞれに対する考察を否定派に求める必要があるが、肯定派が短いディベートの中ですることはとても大変な作業となる。
この問題については、ある意味さまざまな問題を短絡的に割り切って結論を出している否定派の方が、さまざまな価値観の違いを整理して伝えながら指摘していく必要のある肯定派よりもディベートとして相手に攻め入ることはやりやすいのだろうな、と思った。
合意形成には、この問題の奥にある幾つかの次元の価値観の差違について議論する必要があるのだろう。挙げきれないが大きなものとしては「言語観」「教育観」などがそれだと思う。
現代は古典語を使うことはない、という否定派の考えは、現代語の中にさまざまな古典の言語が生きていることや漢字文化について何も知らなくてよい、というスタンスなのだが、おそらく肯定派とはその言語観自体が違うだろう。また、「教育観」についても異なる。否定派の意見は、他者が定めた普遍性の担保されない「有用性」に盲目的に従う生徒を育てるべきだ、という教育観であり、人間に「必要なもの」を、学校教育では予め「無駄」なくセットして用意しておくことができ、それが有効であるという考え方が土台となっているもののように思われる。広い学びの中で、未知なる自分と出会い、さまざまなことを知りながら「○○観」を持てる生徒を育てたい、またそれを自身で脱構築して生涯学び続けていける生徒を育てたいというスタンスとは完全に異なる。否定派の考えは、このように教育観が根底から違うため、私自身が持つ考えとは相容れない。
・否定派の意見に、自分の考えを覆すものを見いだせなかったから。
・古典は基礎であると思ったから。
・自分の考えを大きく変えるまでの議論ではなかった。
・肯定派の主張内容におおむね納得でき、否定派の主張内容に自分なりの反論が描けたためです。
・もともと肯定派で、やはり今回の肯定派の意見に同意できるものが多かったから。
・高校で古典に触れることは必要だと考えているから。
・ディベートにおいて否定派の高校生の立論にあった、教育の段階で多様性の排除された内容(教科書)で学ぶことに意義があるか、という点を聞いたときには、否定派の考えに一理あると思いましたが、根本的に古典を学ぶことで現在の立脚点を知ることは重要で、それは教養として高校までに学ぶべきことだと思うからです。
・古典を学ぶ意義については、否定しきれないと思います。
・自身の考えがより一層、パネリストの先生方のお話から強固なものになったため。
・そもそも論ですが、価値のないモノなどこの世にはなく、当然教育はあらゆる学問をカバーしていなければならないからです。
・もともとが肯定派。反対派のパネリストもよく頑張ったと思うが、意見は変わらない。
【否定派で「変化していない」と答えた人の理由】
・古典から自国の文化を知ったり、歴史を学んだりするということは大切だと思うが、わざわざ古典文法まで学んで時間を使わなくても現代語訳を読めば、それらのことを学ぶことができるのではないかと思ったから。古典の言葉自体を学ばなくても内容を知ることで、学べることが多いと思った。また、すべてが社会にいい影響を与えるわけではないのかなと思った。
・将来一般社会に出た時に使わないから。
・猿倉先生の話に納得しました。
・否定派の「差別を助長しかねない」という意見には反対だったが。それ以外は賛同できる意見だったから。
・古典を勉強しなきゃいけない意味を理解できなかったから。
・むしろ否定的な意見が強まりました。
・やはり自分の意見と似たような意見が多く、古典には必要性が見いだせないから。
・肯定派の挙げた根拠、事例がかなり主観的で、共感できなかった。
・高校生になって、古典勉強の初期段階で、一つ一つの単語の活用と文法を暗記するのではなく、古典の文章自体に慣れ、文章のモラルに触れることが合理的な学びかただと思う。そうしなければ授業がとてもつまらない。古典を学ぶことに疑問を持っているのではなく、勉強の方法に納得がいかない。もし今の古典教育の方針が変わらないなら古典を高校で学ぶ必要もないし学びたくもない。
・肯定派は論点が少しずれているものや、そもそも高校に古典は必要なのかという問いが起こることがおかしいだというような雰囲気、古典はあって当たり前であり素晴らしいものだ感があり、否定派の意見を上から否定しているように感じたから。また、ディベートとして勝ちに行っている感が否めかった。一方、否定派は大体の場面で的を得た質問、主張をしているように感じ、その態度、主張の内容共に大いに納得、共感したから。
・私は古典肯定派の古典至上主義と原文主義(→専門分野以外の極端な無関心ないし排他的な傾向)を問題視して否定派に回っている。ディベートでも否定派は学ぶべきものの多さ、現行古典教育の学習効率の悪さを主張していたが、肯定派は反駁の際も効率化そのものに反対していた印象があり見解を変えるに至らなかった。また、ナショナリズムやニヒリズムの議論で、肯定派が「差別主義・軍国主義に至らない古典教育は可能」としながら現状ではできていない点を認めており、あまり現実に根差した主張になっていない印象がある。
【どちらでもないで「変化していない」と答えた人の理由】
・どちらも、なるほどと思える意見がでてたから。否定か肯定かを決められなかった。
・古典教育の中身しだいで肯定・否定が変わることには変わりないから。
・古典を学習する必要性はあると考えているが、教科書教材の内容には(この教材でいいのか)疑問を持っているから。
・大学で近世文学を学んでいるものです。私自身、古典を好み日本文学科に進学したということもあり、古典を学ぶことに対しては肯定派です。ですが、塾講師として、大勢の高校生に対して古典を教えるようになって以来、現在の古典教育では意味がない、役に立たないと思われても仕方がないとも思っております。多くの高校生たちは文法と単語の勉強に圧倒され、文章の内容、先人たちから学ぼうという意識は薄いのが現状でしょう。やはり、古典を学ぶ意義という面で考えていくと、過去から学び、知識を我々がどのように自身のものとして一般化していくのか、このことを学ばなければ意味はないし、面白くはないはずです。現代文の勉強にも言えることではありますが、文章を通して、これから我々はどのように類似の問題に立ち向かっていくべきか、改めなければならないのか、「未来」を踏まえた思考を学んでいく、これこそがあるべき、そしてこれから求められる古典学習のあり方であり、学ぶ意義だと考えます。
問3.高校で古典を必修科目にするべきだと思いますか?
問3-a.上記のように答えた理由を教えてください。
【必修科目にするべきだ】の理由
・必修科目でなければ、興味がない人が、古典を学ぶ機会がまったくなくなってしまうから。今、残っている古典の作品は、素晴らしいものとされており、興味がなくとも、一度触れることに価値はあると思う。選択する時点で興味がなくても、学ぶうちに興味が出てくる可能性もあると思う。
・非常に難しい問題だと思う。古典の授業を受ける意義はあると思うけど誰に対してでもそうかはわからない。結局はその人の意欲や捉え方に大きく依存していると思う。だからこそ選択科目でもいいのかもしれないが、まったく触れることなく卒業するのももったいないと思うし、古典という日本の大切な文化が廃れていくのもよくないと思う。
・必修でないと将来古典の仕事につきたいとき出会いがない。大学では遅いと思う。古典は音楽や美術と違い小学校などではやらない。またこれから国際的に日本もなっていく中、日本の文学を知るのは大事。
・やはり、文語を学ぶことによって口語の表現も広がると思うからです。
・上(問2─編集部注)で述べたのと同じ理由です。ただ授業の内容や体系は変えるべきではないかと思います。
・否定派だが、現代語訳を読み、古典に触れる授業はあっていいと思うから。
・中学校での古典はただの暗記、という印象が強く、特にもともと興味のない人はそこで終わってしまうと嫌悪感を残してしまうと思った。また、文法を勉強すること自体がゴールのようになってしまっていて、そもそも「古典を学ぶ」というところには到達していないと思う。
・古典を学ぶということは文化や思想、理論的思想を学ぶことであり、ただ古典自体を学んでいるわけではない事が理由。また、それ以上に、古典はその人の人生を豊かにするものであると思う。つまり、古典を学ぶことは必要不可欠であると同時に生きることに潤いをもたらしてくれるものだと思う。だからこそ古典は学ぶべきなのではないかと思った。
・古典によって文化的アイデンティティーを保つことが重要だと思うからです。
・今自分がしゃべっている言葉の起源を知っていた方が良いし、古典が好きか嫌いかは、基礎を学んでから選べば良いから。初めから「必要がない」といって古典を知る機会を失ってしまうのは片方の考えに偏っていて、古典をやるかやらないかを本人が決めていることにならない。
・人それぞれに異なるが、古典は表面的な方から見たら主体的に勉強をしたいと思う人は少ないと思うから。
・海外文学を読むのと同じように感じたからです。英語は現在も使われている言葉で本の世界だけに絞られたようには感じません。一方古典は今は使われていない言葉です。それが必要性を疑う大きなポイントだと思います。けれどもどうして今も読めるのか、残っているのか、それを知ることができるなら私は勉強したいです。そこにはきっと日本という地理的、倫理的、世論的要素が含まれていて、「日本人って何だろう、日本って何」のヒントがあると思うからです。
・現在の古典教育の良くない部分を排除するために科目自体をなくす必要はなく、生徒には、習う前になぜ古典を学ぶのか、ということを教えたり、高校教員と大学教授が意思疎通をすれば、受験のための暗記中心型の古典にはならないと思う。
・自身を知ること、自己形成をすることは教育の範疇なため、必要であると思う。しかし、理系の人は古文(文法)は使う機会が少ないと思われるので古典は必要だが、古文は選択で良いと思う。
・学ばないことは日本人の最低限の文化を知れないのと同義だから。
・見た目だけで古典を嫌いになりたくないから。ある程度学んだうえでやりたくないと思うならいいけれど、日本人としてやはりある程度の知識は持つべきだと思います!
・教育というのは将来、なるべく良い大学に入るためではないし、よい仕事についてたくさんお金を稼ぐことでもないと思う。私たちの心を成長させて、豊かにしてくれるものだと思う。そうした意味で古典は人生の幅を広げてくれるし、間違いなく心を豊かにしてくれるものだと思うから。
・日本で教育をうけることの意義になるのではないか。日本の古典は日本でしか学べない唯一無二のものだから習わないのはもったいない。
・今の授業体制が変わるなら、私も古典は必修がいいと思う。古典というもの自体は、日本の文化の根本であり、一度は全員学ぶべきだと思うから。ただ、今の、暗記に重点を置く入試のための古典なら、時間が有限な高校生にとってその授業は無駄だと思う。
・古典の心に一度も触れないのは非常にもったいないことだと強く思ったからです。原文かどうかはあるにせよ、選択科目にしてしまう教科ではないと思います。
・古典を勉強することでナショナルアイデンティティーに気づく場合が多いと考えるからです。
・古典を読むことで、文化だけではなく、日本語についても意識的に学ぶことができる機会だと考えているから。
・問2-aの回答で述べたことについて、高等学校においても学習すべきことであると考えているからです。
・3択なのでそうしました。古文・漢文という枠をはずして必修「国語」の中で教えるのがよい。
・もはや森鷗外や夏目漱石ですら「古典」となりつつある時代。だからこそ、基礎的な教養としての位置付け(英語同様「外国語」としての古典)が必要。古典文法は早い段階できちんと学ばないと、原文を自分で読むことはできない。文法至上主義ではないが、多くの生徒が「外国語」と思っていないから、文法を軽視し、結果、「文法ができない」→「古典、つまらない」→「古典なんていらない」になる。
・必修科目であった方が、学びの質が維持できると思うからです。しかし日本の古典文学だけ(しかも実質は王朝文学だけ)を必修で教えるのはどうなのだろうとは思っています。10代が高校で学べる古典・教養・芸術の幅は、本当ならばもっと広いものであるべきです。より幅を広げた新しい「古典」が必修科目として高校に残るといいと思いました。
・誰でも文化資本にアクセスできることがこの国の社会水準を担保しています。これがなくなれば、フランスや帝政ロシアのような分断された社会まであと一歩です。
・同時代的な関係と歴史的な関係から自分を振り返ることは必要だと思うから。
・古典を学ぶことで、文化的な素養を身につけるだけでなく、国の歴史観や価値観、自然科学の変遷を学ぶことができる。資料の当たり方、読み解き方といった、学び方、研究の仕方を教材だと感じられ、高校で学ぶことに意義を感じた。
・現代でも書き言葉と話し言葉は共存している。古典の言い回しも、5・7のリズムも残っているため。また、桜を愛で季節の変化を楽しむ趣は、古典の中からその多くを学べるため。
・製薬会社で漢方薬の創薬に携わる場合、漢文を読みこなせないと仕事にならないケースもあります。また自国の文化について理解しないままの大人が増えすぎたため、コミュニケーションの捉え方が薄っぺらだと思います。
・現在も高校1年生の国語総合で必修、高校2年生以降は選択科目となっている。基礎的な内容を高校1年で学習し、それ以上興味がないものは選択しないということでよいと考えているため。大学の入学試験で必要とするかどうかは大学が決めればよいことである。理系の大学でも古文を読むリテラシーを持つことで研究が成り立つこともあるので、一概に理系だから古典の学習が不要ということにはならない。実際、過去の文献を解析して災害や気候、天体現象などの記録を現在の科学に役立てることも行われている。これからは、文理の壁を越えて、さまざまな知の蓄積を生かした研究を一層広げていく必要があるため、一度は古文読解のリテラシーを身に着ける機会を持つことが必要なのではないか。一度機会を得て、それに向いていないと判断した生徒は高校2年生以降選択しないことはあってよい。重要なのは、そのように古文読解のリテラシーを生かした研究分野があることを早い段階で高校生にも知らせた上で選択できるようにすることだと考える。
・日本の素晴らしい文化を学んでほしいです。
・高校生までの狭い世界で形成された考え方で科目を選択することは、可能性を狭め、偏った人間を育てることになることになると考えます。自分では気づかない機会に出会うことができると思うので、ひとまずは必修で習った方がいいと思います。
・学問の基礎だから。多分、古典がいらないのであれば、微分積分もいらないはずです。応用科学の基礎に数学がなるのだとすれば、人文科学の基礎に古典である以上、古典の学習は不可欠です。
・猿倉先生は、文学についてのことをビジネスの場で聞かれたことがない、とおっしゃっていましたが、理系でかつビジネスの場においてはその通りなのかもしれません。しかし、高校生で理系を選択したからといって理系の専門職につくとは限りませんし、やはり、海外からの日本文化(古典)への興味が強いことは、これからも不変であると思います。なぜなら、着物文化・いわゆる雅な文化は、現代よりも圧倒的に、古典(特に平安時代前後)の中に強く残っているためです。したがって、現代の日本を調べ・見るだけでは不十分であり、現代の日本人に、日本の古典について尋ねることは自然なことです。そのため、古典についてのある一定の知識は、全員が身につけておくべきだと考えています。
・古典学習は、ほかの教科や市民としてのコモンセンス、学問としての基礎基本、文化的アイデンティティー上共有の知であると考えているので、公教育のプログラムとして必須のものであると考えているから。ただし、次の問4のように、すべてを「原文」で読む必要はないと思います。
・そこまで深い内容を学習しなくても、自国の歴史として古典でその時代の文化や有様を学んだ方が良いと思うから。
・選択科目にする理由が見当たらない。
・原文にアクセスする手段獲得、他者理解のリテラシー獲得の場として、授業は全員に必要であると思うから。ただし、大学入試で原文の読解を課すか否かは検討の余地がある。今よりも緩和する(平たく言えば理系学部は除くなど)こともありだとは思う。
・ツベタナ先生がおっしゃったことに尽きるが、自らが育つ国の歴史・文化については、知る・学ぶ権利と必要がある。そして、今・ここにいる自分自身を歴史的時間軸の中で相対化させてくれる科目は歴史と古典である。歴史は「何があったか」を学び、古典は「どのように書くか・書かれたか」を学ぶことができる。「どのように書くか・書かれたか」は、対象をどのように見るか・考えるかそのものである。私たちは古典を学ぶことで、自分たちの物の見方・考え方を相対化することが可能になり、今自分たちがいる世界の価値観も可変的であり絶対的なものではないことを理解することができるのではないか。それは、私たちが環境の奴隷にならないために必要な力を育む土壌となるのではないか。それは、人が自由に考え、生きることに直結するのだろうと思う。ただし、上記のことを古典の授業で達成するためには、現在の古典教育のあり方と真剣に向き合い、検討することが必要だろう。
・より、古典の専門的な内容を学ぶ段階は選択でも良いと思いますが、高校段階においても、古典を通して自分自身を見つめる時間というのは持つべきであると思います。
・古典で社会的差別などについて扱う題材を選ぶことで、具体的にそれらの事象を体験できると考える。逆に古典が必修でなくなると、教員側の工夫がない限り、社会的差別に関係するような題材に触れる機会が少なくなってしまうと感じた。例えば部落差別やジェンダーというような問題は、社会科の先生が意識をしなければ、表面的な意味をなぞるだけで終わってしまうことも考えられる。古典でそれらが現れるような作品を扱うことで、ある程度具体的に体験することができるのではないかと感じた。(これにも教員の裁量が大きく関わってしまうような気はしますが、上記社会科の例よりも「具体性」という意味では意義があるのではないかと感じました)
・「触れておく」ことがとても重要。意味や意義は、ずっと後にわかることもあります。
・日本史が必修でない現状で、等身大の人間の目線で現代を歴史的な流れのなかにおいて考えたり中国との文化的な関係を認識したりする機会が必要だと考えるから。中学まででそれを終えず視野を広げ価値観を形成する時期にも経験してほしい。
・古典は日本(国語)の言語文化の一部として、切り離せない存在だから。
・人文学の基礎として習得することに意義があるから。
・こういう世界もあるのだ、ということは教えないと知りえないと思うし、その機会は日本人として平等に与えられるべきだと思うから。
・選択科目にしてしまった場合、古典に十分に触れることがない高校生が増え、古典を学ぶ機会を奪ってしまうことになるため。
・必修でないと、古典を読む機会が得られないだろうから。
・高校は社会に出て、これからどのような社会を築いていくのか、それを学び養う期間であり、場所だと私は考えます。そして、その期間中は、やはり「未来」をつくっていくのに必要な知識・力をすべてを一通りは学ぶべきでしょう。その中で、先人たちがどのように古き知識・知恵を受け継ぎ、自らのものとして吸収したのかを学び、未来に向けて、経験・知識をどのように残していくべきか、このことを学ぶことは重要であり、むしろ必須でしょう。そして、それを学ぶことができるのは古典であると私は考えます。ナショナリズムの形成とか極端な差別意識の影響だとかそんなことよりも、もっと根本的な日本人がどんなものを自分たちの知識として伝えてきたのか、伝えていくべきなのか、そういった面を学ぶという点で、古典学習は高校で必修科目にすべきだと私は考えます。
・未来である高校生たちに、さまざまな可能性の種をもってもらうことで、個人・社会・世界の豊かさにつなげるため。
・古典を学ぶことは教育的に意義あることなので。
・問2-aと重なるのですが、古典を学ぶことは、物事への懐疑の視点を持つための基礎だと考えています。そうした事柄の存在を知っておくことは重要と考えるからです。ただ、多様な生き方が有り、多様な才能があることを考えると、3年間何が何でも必修でなければいけないと考えているわけではありません。
・その学校の全員が身につけるべき「基礎学力」の一つだと考えるから。古典のモノの見方・考え方がこれからの人生の基盤をつくる段階で必ず触れる必要があるから。
・現在を知るには古典を知ることも大切。日本の歴史を知る上でも古典を読む時間は必要だと思う。広く知性を養うために皆が最低限の古典は学ぶべきだと思う。今現在の役に立つことだけを勉強するのは違うと思う。
・日本独自の文化を教養の一つとして学んで高等教育に進んで欲しいと考えるから。
・自国のアイデンティティーを学ぶ上でも大切だと思います。漢文の勉強は外国語の勉強につながりますし、古典は歴史や文化の面でほかの教科と協力した授業展開ができると思います。誰しもが大学へ進学するわけではないため教養として学ぶほか、ある程度思考能力がある高校生が古典を通して当時の価値観について思考する力をさらに身につけて欲しいからです。
・自国の文化を知ることは大切だと思う。理系の入試では必要ないから〜という意見も聞くが、大学受験のためだけに高校に行っている訳ではないと思う。幅広く学べるのは高校ならではだと思う。古典・漢文に含まれる思想や人の思いは現代にも通ずるものが多いと思う。これからのことを考えるのに活かせることも多いと思う。古典に限らず、実用性だけで物事を判断していくと効率ばかりのつまらない人間になってしまうのではないか。人間の豊かさのために古典は必要だと思う。私の高校では文理選択が3年で行われ、理科科目も国語も地歴公民すべて履修したが、すべての教科がどこかで絡み合っていて、より深い学びにするためにすべての教科が必要だと思った。教科の垣根を越えた学びができるし、一つの物事を多面的に見る力が身につくと思う。
・高校1年の国語総合では少しは学んでおいてほしい。
・日本語学習(母語学習)としての史的理解に必要となるから。
・自国民として知っておくべき古典を「知る」きっかけとして必要だと思うから。
・そもそも自国の文化・芸術は、当たり前に存在する教養という認識で根付いてほしいと思っております。古典は特別なものではなく、日本の誇れる文化であるという意識を持っているだけでも、将来や人生においての選択肢において豊かな思考力を育ててくれると思います。高校生という多感な時期に、触れていること、触れておくことは、重要だと思います。
・普通科の高等学校教育として生徒に「身につけさせたい力」と「身につけさせるべき力」を身につけさせることのできる科目であると考えるため。また、ほかの科目ではできない要素と、ほかの科目に有機的につなげることのできる要素を併せ持つ科目であると考えるため。
・高校で古典が必修でなくなると、大学で古典を学ぶなどの積極的に古典に触れる選択をしない限り高校生は生涯通して古典に関わらないと思います。その意味で、高校は最後の砦的な存在ではないでしょうか。確かに、社会で役立つ「即効性のある国語力」が大きく求められています。しかしそれ以上に、高校で古典を必修科目にすることは、長い人生に豊かさを加えられるものの一つを揺れ動く時期にある高校生に提示することでもあり、有意義だと考えました。
・改めて日本文化の一つである古典は選択的なものとしてではなく、全員が学ぶべきことだと思います。
・古典を学ぶことは、自らの拠って立つ文化的基盤を学ぶことに通じるから。
・古典を原文で読むからこそ、難しい文章への読解力を高められると思います。
・自国のことばだから。
・自国語の文法の成り立ち、人々の考えの変化、芸術・文化を学ぶことで、自身のアイデンティティーが構築されると考えているため。
・中学までの「古典」はあくまでも「親しむ」ことが目的であり、いはば教材を「消費」しているにすぎない。また、高校で学ぶことが増えたからといって、高校の内容を中学や小学校に下ろすことは発達段階を考えれば、妥当とは言いがたい。以上より、高校では「必修」として「古典を読む」という行為にじっくり向き合い、学んで欲しい。あるいは「全日制普通科高校」では必修とし、技術の習得を専門的とする高校においては「選択」という考え方も可能だと思う。
・肯定派の方の立脚点の一つでもあった、「文語文に自らアクセスできる力」が必要だと考えるためです。
・ツベタナ先生がおっしゃったように、まずはアイデンティティーを学ぶために古典教育が必要だからです。また言語は、最も身近なコミュニケーションツールであり、自分の気持ちを相手に伝える表現の一つです。これらの歴史や変遷を学ぶこと、古典から人の心を読み解くこと、人間の営みを知ることは、現代私たちが生きて、他者と関わっていく上で最も大切なことだと思います。私は古典は「変わるもの」「変わらないもの」の二つを実感する場所だと思っています。「変わるもの」は、今回高校生が言っていたように言葉が流動的なものである、ということです。また「変わらないもの」とは、人の内面です。言葉は人を励ます力も、傷つける力も持ちます。言葉を使う上でその重みを知るためにも、古典は必修科目にするべきだと思います。
・古典の授業で学べる古文読解や古典文法知識は、授業で扱われるもの以外のすべて古典への足がかりになります。そういった古典の内容は文学にとどまりません。すなわち、古典の授業はいわば古典へのアクセス権を手に入れる手段です。この機会は高校での教育を受ける生徒に平等に与えられるべきだと思います。
・高校段階までは、全員学ぶ機会があってよい。それ以後は個人の判断。
・シンポジウムで(確か)渡部先生がおっしゃっていたように、古典は基礎科目。基礎はひととおり高校までにやっておくと、大学や社会人になってからいろいろな意味で楽だと思います。
・問2に書いたように、現在の私たちの立脚点を知るために、古典で過去の日本人が拠って立ってきたこと、思想、環境、感情、その表現方法を学ぶことは、社会人になるにあたって重要だと思うからです。教養としての必修、としてもいいかもしれません。
・古文を読めないのはもったいない。
【選択科目でよい】理由
・古典に興味のある人、将来そのような仕事に就きたい人だけ勉強すればいいと思うから。
・今回のディベートでも、最後まで否定派で変わらなかった人もいるだろうし、やはりそこに魅力を感じない人に無理矢理古典を習わせる必要はないと思う。
・興味のある人だけ学べば良いと思う。興味のない人はほかに優先して学ぶべきことがたくさんある。
・選択科目で良いと思うが、古典を学ぶ機会があるからこそ興味を持つ人もいるので、古典に触れる機会をつくる必要はあると思う。
・将来役立つという保証はないから。
・現代語訳や解説などで思想や教訓などを学び(歴史や社会などで)、興味がある人は原文に触れればいいと思うから。
・やりたい人だけやればいいと思うから。
・学ぶ必要がないと考えるならば無理に学ばなくて良いと思うから。
・ツベタナ先生がおっしゃっていたことには納得したが、もちろんやりたくない人だっている。その人の自由も尊重すべきだと僕は思う。もし古典が選択科目であるならば、僕は選択していると思う事。
・肯定派の意見に同意する部分もあったけど、すべての生徒が古典を学ぶ理由になるとは思わない。
・古典は私たちの日常生活にいて、必ずしも必要とは限らないから。むしろ自分から古典の世界に足を踏み入れない限り必要になることは絶対にないから。
・正直必須ではなくていいと思う。だけれども取りたい人がいるのも事実でならば選択科目にすればいいと思う。
・必修にすることによるメリットが、それに費やす時間に見合わないと思った。しかし、古典に興味がある人には機会が与えられるべきだと思う。
・一年生の時は古典を漠然と理解するために必修科目にした方が良いが、二年生からは古典が必要であるかないか自分で判断し、選択するかしないかをきめるべき。
・ディベートを聞いていると、じゃあ古典を必要性に納得した、やりたい人だけがやればいいんじゃない? と思ってしまった。肯定派の説明から、古典を学ぶことで得られるものはわかったが、ほかの必修科目と比べるとやはり重要性も低く感じられた。肯定派の意見は古典を学ぶ理由には充分なるが、全員に義務付けるまでの必要性は感じられなかった。
・高校生は自分で選択するべき年齢だから放任でいいと思う。
・楽しいと思えるまでに時間がかかるのは確かで、知識を覚える体力も必要。嫌々授業を受けて「嫌い」で止まってしまうのがもったいないと思う。日本人としてのアイデンティティーを考えても、ちゃんと面白さを伝えられるようでないといけないと考える。自ら選択して授業を受ければ、多くが面白いと感じる領域まで辿り着けるのではないかと思う。
・必修にすることで生まれる、幅広い習熟度の人に合わせるため難易度を低く調整する必要性などのデメリットを感じたことがあるから。
・学びたい人が学ぶということでいいかなって思いました。
・古典の知識自体は学びたい人が学べば良いと思う。古典を通して異文化理解の姿勢は勉強はできるが、それは英語などほかの教科で勉強できるのも事実ではあるので。文化的アイデンティティーを教えるための古典の意義が話題になったが、それは中学までの義務教育で扱われるべき。
・全国の授業でクオリティーが確保できないという否定派の指摘は極めてクリティカルです。
・古典は教養的な知識の面が大きいと考えます。文語リテラシーなどありますが、必ずしも必要な能力ではありません。私個人としては、すべての学生に古典を味わって欲しいですが、生徒の意志により学ぶか学ばないかを選択する場を設けることも必要なのかなと考えました。
・問2-aと同様の理由。ただし、芸術科目のように1年生は必修にすべきであると感じる。ここでは文法などの基礎を教えることが望ましいと考える。それは、選択科目で内容に踏み込む際に、土台となる文法理解がないと先に進めないためである。また、むしろ中学で古典の時間を設け(音楽や美術は中学で必修になっている)、ここで現代語訳を用いた古典作品の紹介ができると「自国のことを学ぶ」という目的も達成されるのではないだろうか。(以上の考えから、問4は「どちらでもない」の意味で三つ目を選んでいます。)
・自国の文化的涵養を培うために必要であるが、現在の教科としての情報のように、古典が大学教育で必要な学部(文学部史学科など)のみが修了単位を増やしたり入試に使うべきである。なので、古典は理系文系問わず最小の単位数でよい。例えば論理国語が4であるならば、古典は2でよい。やはり知識基盤型社会に生きる現代人として、そういった教養よりも読解力や数理分析力などにリテラシーに時間を費やすべきである。このように、現代のニーズに合わせて古典を最小にするべきであるが、自国の文化的涵養のためにゼロにしてはならない思うから。
・高校一、二年生で古典の知るべき箇所を学んだ後、興味を持ちやりたいと思った人が三年生でとりより深く学んでいく形でもいいのではないかと思ったため。
・現状のような知識を求めるものは望ましくないから
・おおむね問2の通り。特に言語習得の効率の問題から、多様な興味関心を持つ高校生に"一律に"学ばせる必要性はないと考える。付け加えれば、今回の議論は「"高校生に"古典は必要か」であり、小中学校で多少なりと古典に触れてきた生徒であることが見落とされている(今回のディベートの争点にならなかったが)。ICT活用の話題もあったが、その行き着く先は「先行研究の信頼」と「AIによる古典文法の現代語訳」になるはずで、いずれにせよ原文主義的な高校古典教育を強制する必然性に乏しい。肯定派の言う理想的な古典教育が現状でほとんどできていないならばなおさらである。
・何を学ぶかは個人の自由であるから。
・古典を相対化できるような学びができれば、それはきっと現代につながる有意義なものです。しかし古典を相対化する学びを実現するというのは、かなりのレベルでの理解が求められ、それを公教育ですべての生徒に行うのは、コストがかかりすぎると思います。そのため、ある程度のレベル以上の内容については選択制を取ることが現実的だと考えます。
・肯定派ではあるが、将来目指す職が定まっている一部の人には、有限である時間を古典に割く必要はないと考えるため。
・一つ目 学びの主体は生徒です。ましてや高等学校は義務教育ではない。選び取るという行為がなければ主体性の構築は難しい。極論、高等学校の教育はすべて選択科目でいいと思っています。広く浅くでも、狭く深くでもいい。さまざまな学びのバックグラウンドをもつ人々が協働する意思さえあれば、そちらの方がさまざまな価値を創造できるでしょう。むろん、現在の学校教育や入試制度では実現できませんから、一つの理想です。二つ目 学びの主体性は好奇心にはじまり、公共の精神につながっていくと考えています。好奇心は人それぞれですから、興味がないのに必修にしたところで無味乾燥なものになるでしょう。教員側の興味付けは確かにある程度必要でしょうがね。
【必修科目・選択科目ともに無くてよい】理由
・古典を強制的に高校の授業で学ぶ必要はないと思う。必須科目にしないことでもっと気軽に古典を学べるようになると思うから。
・古典に特化した科目を立てる必要はないが、それを相対化できる枠組みの中で扱うことには賛成。
問4.授業で古典を原文で読む必要はあると思いますか?
問5.高校の授業で古典を学ぶことは、現代日本語の能力向上に
【その他の意見】
・「過去とのつながりを知る」ことと現代日本語の能力が向上することを関連づけることには懐疑的です。古典を学ぶことで、言葉と向き合う姿勢は格段にあがるので、結果として向上することはあるかもしれません。
・「能力」をどう捉えるかによる。運用能力という意味なら、現代語の学習を充実させればよい。日本語に対する理解を深めた上で使えるようにすることを能力向上と捉えるなら、古典で向上する。
・そもそも日本語の「能力」とは何かということを定義しなければ、この問いはあまり意味をなさないように感じます。
・とても役に立つわけではないが言葉の表す鮮やかさを知る経験になるなど「現代日本語の能力向上の資質」をのばすのではないかと思う。
・現代日本語の、というよりは、日本語の。
・古語や古典文法の知識がないと理解できないものがあるため役立つ部分もあるが、古典を学ぶ主目的ではない。
・自動的に役立つわけではない。
・主観では「役に立つ」と感じています。が、古典学習と現代日本語能力向上の相関性を分析したデータなどがなければ、否定派を前にしての立証はやや難しい論点だと考えます。
・人によります。意識の差によります。柔軟に吸収しようとする人にとっては、日本語の能力向上以上の効果をもたらします。
・まったく役に立たないわけではないと思うが、それだったら現代語で古典の内容を包括した学習をしたほうが効率的だと感じる。古典学習の目的に現代日本語の能力向上というのはあまりふさわしくないのではないか。
問6.古典の授業で論理的思考を学ぶことは
【その他の意見】
・「論理」の捉え方による。論証能力などを言うのなら現代文学習で十分。思考と捉えるなら古典の論理を学ぶと良い。前回こてほんシンポの前田雅之先生の発言。
・ここでの「論理的思考」の定義が不明なため、回答できません。
・まだわからない。
・よりよく可能にすることを目指すべきである。
・何をもって論理的というかが曖昧で返答しにくい。
・可能だと信じたい! でも文法漬けになりがちな今の授業だとそれは難しいと思う。
・可能であるが、学べるかどうかは扱う文章によって違ってくると思う。
・可能であるものの、効率的な手段とは言えないと思います。
・教員の力量や方針によるかも......。
・今の学校教育で扱われている古典では不可能です。教材の選定は必要でしょう。
・論理的な文章を古典の授業で読んだことがない。
問7.文語文に自らアクセスできるリテラシー(文語文を自分で読む能力)は
【その他の意見】
・アクセスの仕方を知ることは必要。
・学校で教える必要はある。(学ぶ意欲を持つかは本人次第)
・完璧なリテラシーは要求しなくてよいと思う。ただ古文アレルギーのようなものを持たずに、読んでみようという意欲は育ててほしい。
・希望制でよい。
・近代文語文なら、訓読文学習を今以上に充実させるなど、今の古典授業のままでは駄目だと思う。
・原文と現代語訳には、差があることを理解することが肝要と思います。その上で必要か不要かは決まると思います。
・高校で習う文法を理解する必要は全員にはないと思いますが、文語文を見ておよその意味を理解できる程度の能力は、(ナショナリズムへの利用に気づき防止する意味でも)身に付けるべきだと思います。
・全員が持つべき能力とは言えないかと思います。
問8.古典の内容は
【その他の意見】
・レベルによります。本質に迫ろうとすれば原文をよまなければなりません。
・「内容」の定義・説明が不明なため、回答できません。
・「内容の理解」というのが、「あらすじ」という意味であるなら可能であるが、内容と表現は不可分のものであると考えるので、この問いは有効でないと思う。
・ある程度、作品の世界へ誘う道標として現代語訳を用いることは有効だと思う。あらすじを理解して原文を読むと、ハードルが低くなるのも事実である。しかし、どの言語でも同じであるが、訳は二次的なもので訳者の能力によって大きく左右される(間違いも含まれる)。やはり、原文に触れ、読むという行為は内容理解においてとても重要だろう。原文・現代語訳を両立させるという選択肢があってよいと考える。
・いわゆる原文の表現に注目することで理解が深まるケースも少なくないため、「現代語訳だけで理解できる」とは言い切ることはできません。ただ、現代語訳から内容に入るということもあってよいと考えています。
・どちらも使えばいいと思う。
・意味を取るだけなら現代語訳だけでいいですが、ニュアンスを取り逃すことは間違いなく言えます。
・意味を知る、という意味ではある程度理解できるが、言葉そのものの持つ力は現代語訳では伝わらないことがある。
・原文も、良質な現代語訳も、「理解」を広げてくれることがある。
・原文をもとにしてさまざまな現代語訳に触れることで自分の解釈を持つことが大事だと感じた。
・現代語を読めば理解できるが、原文から現代語訳を考える過程で学べることは得られない。
・現代語訳だけでも理解は十分にできる部分はあると思います。ただ、原文はまったく読まなくて良いという立場ではなく、両方を効果的に使っていくべきであると思います。
・現代語訳で読めること、古文で読めること、ともに異なる。
・現代語訳を参考に読むというので構わないと思うが、現代語訳には訳者の解釈が混ざっているということと、原文でないと伝わらないニュアンスがあるということは知る必要がある。
・古典は、音声での受容が重要でもあるので、原文に触れることが必要だと思います。
・書き手に迫るためなら原文必須。あらすじだけなら訳で。でも書き手に迫るのが国語における古典学習だと思う。
・生徒の実態によりけりでしょうが、原文「だけ」でないといけないとは考えておりません。場面に応じて原文と現代語訳を使いわける必要があると考えておりません。また、原文と現代語訳を読みくらべるという活動も学習活動の目的によっては有益だと存じます。
・二値的に捉えること自体フィクションであり、質問自体がナンセンスです。
・表面的に内容を知るだけならば現代語訳で足りるとは思いますが、原文の表現に触れ自分で考えることによって本当の「理解」につながると思います。
問9.古典に含まれる、差別的な思想や表現は、
【その他の意見】
・「古典」だけではなく、近現代の文章にもある。この前提は正しくない。またいまの教科書には問題になるような差別表現はほぼない。
・すでに敦盛最期・扇の的などの殺人場面が教材化されている。
・その時代の社会や文化のありさまを享受することが第一なので「有害」か「無害」かは問題にあたりません。
・それを相対化するのが授業の役割です。
・どう取り上げるかが大切だと思います。「だからこそ教えるべき」という立場ではないですが、しっかりとした目的があり、提示の仕方に配慮を持てば、そのような内容を取り扱うことも可能ではあると思います。
・異なる時代・文化の中にさまざまな考えや習慣があることを学ぶことこそ重要であり、これが差別の助長につながるから現在の教育から排除すべきという意見は、真にナンセンスであると思う。
・価値観が異なることを前提に取捨選択をしながら学習していくべきだと思う。
・教員がきちんとフォローした上で教える必要がある。
・現代にも日常にも、差別的な思想も表現もあふれている。向き合い方を学ぶ機会を提供したい。「有害性はあるが、だからこそ高校で学ぶべきだ」。
・古典における「差別」は現代のそれと異なる場合があって、それを学ぶのも古典学習の一部ではないかと思います。
・古典教育の有害性につきましては、教材ではなく教員の問題であると考えております。ゆえに、害のあるものを完全に取り去ることで無害化を図ろうとするのではなく、教員による教材の扱い方を常に適切化していくことで無害化を図るべきだと存じます。
・差別的表現を含む古典をあえて選ぶ必要はないが、もしたまたま選んだ作品に差別的表現が含まれていたら、注意して教えるという対応でいい。
・授業による。
・女性に参政権がなかったことを歴史的事実として学ぶことと同じです。有害性があるからこそ学ぶべき、とは考えませんが、そう考えていた時代もあった、という事実として学び、相対化する必要があると考えます。
・知ることに有害はことはないと考えています。
・不適だと思うが知るべきだと思うので日本史で学ぶべきなのではと思う。
・有害か無害かではなく、広く学び現代の自分たちの問題として引き付けて考える必要がある。
・有害か無害かという二択にするのは問題があると思う。時代背景を含めて知る行為が大切なのであって、害があるなしの議論はいささかミスリードと先日のシンポジウムでも感じました。
・有害であると言い切ることは難しいが、教員側が有害性をはらむことも認識した上で、学ぶべきだと思う。
・有害なものはあえて学ぶ必要はなく、興味があれば深入りすれば良い。
・論語にも女性差別はあります。価値観の違いを教える側が押さえて取り上げれば良いだけの話です。
問10.古典を通して昔の人に共感したり、古典のリズムに触れることで、
【その他の意見】
・「人生を豊かにする」ことの内実が不明瞭なので、この問いも有効でないと考える。
・「豊かになる」という表現は具体的ではないと思い、あまり使わないのですが、古典に触れることは自分とは違う考え方に触れる、考え方の視野が広がる、多角的な視点を持つことにつながると思います。この考え方を「豊かになる」と言えるとは思います。
・すべての人の人生が豊かになるかどうかは難しいですが、共感したり触れたりしておいて損はありません。それをもとに新たな仕事の企画を立てていくこともできると思います。
・精神論だけで考えることは危険だと思います。豊かさと古典は切り離すべきではないでしょうか。
・昔の人に共感することは大切だが、現代文で良い。
・豊かになるとは限らない。学力を育てるための古典学習が必要。
問11.古典は国際社会を生きていくうえで
【その他の意見】
・国際社会を生きていく上で学ぶべき古典学習形態を開発する必要があります。
・人によると思います。「この人には古典の話をしてもしょうがない」と思われたら、その人には誰も古典の話はしてこないでしょう。
・日本を知り外に出るためには大切。
・必要か不要かは結果論ではないか。
問12.肯定派のあげた「先人の知恵」を学ぶことは、生きる上で
【その他の意見】
・いつか必ず生きる、あるいは本人の意志と偶然により生かされるもの。有益か無益か、実用的かなど即物的な対象ではないかと存じます。
・そのときにならないと決してこれはわかりません。
・レベルによる。
・高校ですぐ役立つとは思わないが、知りたくなるタイミングは訪れると思うので、先人の書いた文献の存在を知りアクセスすることができるようになる点には意味がある。
・使う人によります。「三国志に学ぶリーダーの条件」といったものだけが古典から学べる知恵ではないと信じたいです。
・役に立つが「古典」を通して学ぶ必要はない。
・役に立つこともあるが、必要性はない。学ばないと困るということはない。
問13.否定派のあげた「実用的なスキル」を学ぶことは、生きる上で
【その他の意見】
・これもそのときにならないと決してわかりません。
・今日の社会では役に立つと思いますが、10年後も役に立つと保証することはできないと思います。
・実用性を求めるあまりに伝統を切り捨てるというのは少し違う気がする
・短期間は役に立つけれども、時代の流れの中で役に立たなくなることがある。
・目的と場、対象により実用性が発揮されるものなので、そのスキルが適合していないと役にたちません。また、高校までに学ぶのは実用的な文章などを通して実社会でどのような対象、目的があるのか、多様な他者にどのように伝える方法があるかを考えることかと存じます。
・役に立つが、例えば、プレゼンテーションに用いる媒体はこの10〜20年で大きく変化した。実用的なものは変化のスピードが速い。高校生の時に学んだものが、実社会に出た時に通用するとは限らないというリスクは理解する必要がある。
問14.より役に立つのは「先人の知恵」と「実用的なスキル」では、
【その他の意見】
・どちらも同じくらい大事だが、「先人の知恵」を原文で学ぶ必要はない。
・どちらを優先する訳ではなく、どちらも身につけるべきだと思う。
・学校で学ぶものを「役に立つ/立たない」で選定すべきでないと考えております。
・実用的なスキルが先人の知恵に基づいている場合が多いのではないでしょうか。
・前者はすでに古びており、後者はすぐに古びてしまうだろう。
・同じくらいだと思いますが、「役に立つ」をより具体的(場面・程度)にすると回答者が同じ認識をもって比較しやすいのではないかと思います。
・比較対象とすべきものではない。どちらも大切であり、個人・場面によって大切の程度も内実も異なる。
・方向性が違うので比較しにくい。豊かな世界を生きるために知性的であろうとすれば先人の知恵は必要だし役に立つでしょう。この前は話題にあまり出なかったと思いますが、特に海外の人と話をする時に、古典を知っていることは大変重要なのです。実用的なスキルだけでは乗り切れません。
・立場によるのではないですか。天秤にかけられるものではないのではないでしょうか。
問15.古典のナショナリズムへの利用に気づくには、どのような古典の授業が必要だと思いますか?
・昔の人々の考え方や歴史的背景を古典から知り、考え、現代につながることを探し出したり、考え方の違いを探したりする授業がいいと思う。
・日本史、世界史を交えての授業を行う。
・過去に、ナショナリズムに利用された例をあげる。
・社会に出てこんなところに古典が役に立ってるんだよーとか、将来少しでも役に立つと思えるようになる授業。
・原文としての形で捉えることは大切だと思う。
・これまでどのようにナショナリズムへの利用をされてきたかを学べる授業。
・専門家を呼び、セミナーを開く。
・先人の思想や知恵は、歴史を学ぶことと同じように今後の社会に役立つので必要。文法も、個人的には語学、日本語だけではなく外国語の身につけ方を学べるので必要だと思う。テストに出る大事なポイントだけ教える学校もあるが、それだと古典の良さが伝わらないと思う。当時の様子も説明して授業をしてほしい。
・そもそもナショナリズムに古典が利用されることはそこまで問題ではないと思います。古典が利用されていることとナショナリズムが広められることに関係があるとは思えないためです。
・数多くの古典に触れること、そしてその時代の思想や価値観を学び、別と比較すること。
・差別的な内容や物議を醸すような内容のもの。
・歴史的背景がよくわかる授業。
・日本の古典だけでなく、いろいろなものに触れるべきだと思う。
・古典を「日本の素晴らしい文化」としてだけ教えるのではなく、当時の日本の汚い部分、時代背景なども知りたいと思う。結局どこの国にも時代にも歪んだ部分があると思うから、できるだけフラットにそれを認識することができるようになりたい。知らないということがそれこそそのような歪みを助長してしまうと思う。
・わからないです。自分の意見がまだまとまってないのでもう少し考えたい。
・愛国心を植え付けるような授業ではなく、すべてを客観的にみられるような授業が必要であると言える。
・ナショナリズムへの利用を強制するのではなく、学びを通して自分たちで気づけるような授業。
・古典がナショナリズムに使われた例があるから学ばないほうがいいという理屈は成り立たないと思います。文化のすばらしさはすべて国のすばらしさだという解釈を大衆に植え付けることは可能です。その理屈でいくと、法隆寺は燃やし、京都には幾度目の火を放ち、日本書紀の存在を抹消しなければなりません。
・古典の授業というよりは、公民でナショナリズムなど政治についての理解を広め、ナショナリズムに流されない国民を育てるべきだと思います。
・過去に利用された事例を知る授業が必要だと思います。
・差別などがあったことをしっかり伝える。また、過去にナショナリズムへの悪用があった事例を紹介する。
・ちゃんとみんなが理解できてそれを学ぶことに意味があることをちゃんとわかることができる授業。
・試験のため、大学に入るためではなく、古典の本質を知れるような授業。
・古文を通して日本人の美意識を、本質を学ぶ。もちろん文法も大切だけど、So what?をもっと問うべきだと思う。
・現在の授業+実践的なもの。鎌倉校外学習の時の能の体験みたいなものが「古典」という授業の中でもあると良いと思う。
・文法や訳の方法を重視するのではなく、ストーリーや背景などをメインに学ぶ。
・古典を現代文のように読み、そこから時代背景や思想などを読み解く。
・いちいち文法だとか品詞だとかを気にせず、学びのある作品を現代語で読み昔の風情に触れる。
・一つ一つの作品に対して、感想を書く、という作業はどうだろうか。そこから何を学べるか、好きだと思ったか、嫌いだと思ったかを個々人が考えて書くことで、古典に少しは関心を持てると思う。今の教育では、(特に入試のための勉強となると)文法を習い、それを入試のために古文に当てはめるだけで、単純作業というか、感情がなくても、AIでもできる冷たい教科の気がしたから。
・実際に使用された例。作者の意図する意味。
・チャットのコメントにもあったようなホロコーストがあったことを踏まえ我々はどう生きるべきかを考えていく。といった姿勢が大事だと思います。本居宣長の例にしてみれば軍事国家による曲解のせいで歌の本意ではない方向に利用されてしまったという事実がありますが、古典をきちんと学習することによってそうしたこじつけのような解釈に気づくことができると思います。逆説的に言えば古典学習をしなければそうした意図に気づかずに流されてしまう危険性すらあると考えます。具体的にそうした事実を生徒に認知させる形の指導が必要だと思います。
・現在の価値観との相違やナショナリズムに利用された歴史的背景をしっかりと伝える。
・さまざまな意見を取り入れて古典とはどうあるべきかを最初にクラスで討論したら面白いのではないのかと思った。
・歴史の授業などと並行して教えてくれたらわかりやすいと思います!
・まずはそうした例が過去にあったということを知れる環境が必要。
・ナショナリズムとは排他的なニュアンスを含むと思うのですが、例えば純粋な愛国心などは問題なのでしょうか。古典作品を取り上げて、日本人はこんな人たちなんだ、と誇りに思ったりすることはまったく問題がないと思います。ただ、それがほかより優れている、という勘違いを起こさないように他文化を取り上げることが大事だと思います。
・そもそもこのディベートを授業で行うと高校生も何か新しい発見があると思う。さまざまなバックグラウンドを持つICUの同級生のディベートを聞いてみたいと思った。
・古典と現代の価値観や倫理観の比較をし、区別することを教える授業。
・ただ文章で出た単語の文法を細かくやるのではなく、文章のモラルを理解することを重要視した授業が必要だと思う。
・私の場合、古典にまったく興味がないので正直授業の内容はほぼテストのために覚えるという作業しかしたことがなくて、その作業の中にももちろん考えながら覚えるというものもあるがなかなか現代語訳の内容まで深く考えてみることはないので、授業で淡々と現代語訳をするのではなくて、その内容について現代文の授業のようにグループで話し合う時間を設けたらいいと思う。
・文法などを勉強するよりも時代背景や原文の解釈などを勉強する。
・具体例を示す?
・文学の流れを追うのはどうでしょうか。漠然と作品を読むのではなく、時代背景を学び、古典が現代へとつながっていることなどが知識的に理解できれば、日本人として興味がもっと持てるようになるかもしれません。
・率直にその歴史的事実を伝えればいいと思う。
・そのトピックを丸ごと正直に取り上げるべきです。文部省に反対されて無理でしょうけど、、、
・常に読んだ生徒がどう考えたかについてその意見を活発に交換すること。
・時代によって扱われ方が変わってきたことを学べるような授業。
・享受史についての一定の知識に触れる。
・作品の内容ばかりではなく、古典の享受・継承のありようにも目を向けるような授業が必要であると考えています。例えば、平安時代に成立した作品が、鎌倉時代や室町時代、江戸時代、そして近代においてはどのように享受され、それらが現代における享受にどうつながっているのか(また、いないのか)、といったことです。
・古典だけではなく、あらゆるテキストは、さまざまな角度から批判的に読むべき。
・差別的な内容も含めて満遍なくいろいろなものを教えて、知識・教養を身につけさせること。
・たとえば古典と現代文の授業共同で『万葉集』を扱い、品田悦一『万葉集の発明─国民国家と文化装置としての古典』を読むなど、私学であればいろいろ考えられるだろうが、公立は難しいだろう。
・古典が歴史の中でナショナリズムにどのように利用されてきたかを説明したい。社会の先生と連携が組めたらうれしい。
・古典のナショナリズムに気づくために古典の授業が必要?
・古典の授業においてナショナリズムの利用を回避することは不可能だと考えます。その自覚が教員に必要です。
・過程を示せばよい。近年研究が進んでおり、授業化されてもよさそう。本来は言語文化がそれを担う必要があると思うが、多分そのような科目にならない。
・古典が埋め込まれた歴史的文脈を読むこと。古典に対する言説を読むこと。少なくとも現代と古典との間を行き来して、相互批判的に読むこと。
・社会科との連携や総合学習としての取り組み。学際的な授業の必要性を感じる。
・古典の授業は、そこに結び付ける必要はないと考えます。
・歴史学習とのリンク。
・太平洋戦争時の政治利用の事実について教える授業。
・世界史的な視野の中でナショナリズムが生まれてきた経緯と、歴史的に各国がナショナリズムの高揚によって歩んできた悲劇について教える授業。
・「国民文学」や「国語」という制度を生んだ西欧近代の政治状況を踏まえたうえで文学作品の読解をさせる授業。
・(漱石の諸作品、鷗外の「舞姫」など近代の文学作品はこうした政治状況を踏まえてこそ読める作品である。明治時代の文学ももはや「古典」の一部となり始めており、そういう点でも古典を生かしてこそ、ナショナリズムへの利用について深く考察させる授業が可能になると考えている。)
・具体的に思いつかないです...日常的に使える古典とか...印象的な言葉があれば食いつきそう...。
・教科書にのっている古典の解釈は、今までの学者の研究の積み重ねからなっており、そこからより妥当だと判断された解釈が一般的なものとして載っています。その古典に関する研究史にも触れていくというのはいかがでしょうか。研究史には、時代によってどのような評価を受けて来たかが表れていると思います。
・価値観を植え付けるような教授法を徹底的に排除した授業。
・かつてそのように、ナショナリズムの煽動へ使用されたということについて、まずは高校生に知ってもらうことは必要だと考えています。古典文学の中には、「日本という国が持ってきた美しい文化や言葉」がある一方で、それを利用される可能性もあるということを知るだけでも、大きな違いがあるでしょう。ただ、ナショナリズムの煽動に古典文学が利用される一つの原因として、国民の古典に対する浅すぎる理解という原因があるのではないでしょうか。満遍なくさまざまな作品に触れることは高等教育の中では必要なことだと思いますが、その場合、古典全般に対して極めて表面的な知識を持つことになる可能性が高く思われます。そのため、満遍なくさまざまな作品に触れる授業はもちろん保持しながらも、作品を絞り深く学んでいくことも有効なのではないかと思います。
・教える側の思想的バランス感覚。
・古典のもともとの作品(社会的背景、作者の考えなど)についてよく教える。元の作品を都合よく利用する姿勢がおかしいことに気づけるはず......。
・肯定派の学生が言っていた通り、隠さず取り上げるべき。「ナショナリズムに対抗する最高の手段は学ぶこと」という肯定派の意見に賛成です。
・意図や目的を持って「教育」「感化」「洗脳」する方法、その有効性や実例を実際にロールプレイしたり、シミュレーションする方法が考えられます。イメージとしては田野大輔(甲南大学)教授の『ファシズムの体験学習』が参考になります。
・似たような情景を過去と現在で比較する授業。
・実例を用いて講義すればよい。
・古典を批判・批評する授業。
・現在の常識や歴史との接続を、教師が積極的に話題に取り入れる。そのためにも、「万葉集は日本国民の心が反映」云々のような、ステレオタイプと化した言説を教師が疑い、きちんと専門的に学んでおく。
・実際に、ナショナリズムの高揚に使われた事例を用いて、授業するのが効果的ではないだろうか。例えば、成立期・近代国家の黎明期・戦前〜戦中・戦後と、意味付けや扱いがどう変化したのかを実際の資料(新聞記事なども利用しては)を用いて可視化するという方法はどうだろう。楠木正成・源氏物語(戦時中に弾圧される)・討論でも取り上げられた宣長の和歌など、たくさんの素材があると思う。
・実際に利用された実例を紹介する、それを取り上げている古典作品などがあれば(あるかわかりません......)それを取り上げる。そのような教材をもとに生徒たちに議論させるなどの授業。
・不勉強なため確かなことは言えないのですが、例えば、『大鏡』と『栄華物語』の読み比べなどを通して、我々が知ることのできない歴史があるという視点(歴史も物語られるものである、勝者の歴史であるというような視点)を得ることが一つの手段にはなり得ると考えます。また、どこまでを「古典」とするかで対象外になってしまうかもしれないのですが、中島敦の『文字禍』も良い教材になるかもしれません。歴史的な事実が、権力者の都合で操作されてしまうという事実を知ることができれば、古典にかかわらず、さまざまな事象がナショナリズムへ利用された時に、そのことに気づくことにつながるのではないかと感じました。
・歴史的背景などを教えるべき。
・相対化。教える側の意識の問題が非常に大きいと思われる。
・中国の古典の影響の大きさやそこから日本文化が得てきたものとしての日本漢文とその役割について学ぶこと(明治以降のナショナリズムの影響で漢学を矮小化した国学の延長にある「国語」になったことは大学生以上かと)。また立派な先人ばかりが登場するのではなく、駄目だったり、ずるかったり、ばかばかしかったり、おかしかったりするような人間のおもしろさを多面的に読める作品を教科書に載せること。
・古典がナショナリズムに利用されていたということを明示的に指導すること。歴史教科書のように、現代語で客観的な記述のある教材を使用することや、実際に古典をナショナリズムに利用した原文を読むことなどが考えられる。
・ナショナリズムに利用されるという懸念は、裏を返せば、それだけ古典から多くの人が共通の「日本らしさ」を感じられることを意味している。よって、危険性を意識しすぎると「古典は昔のものだから」といって、現在とは切り離した授業になりかねないのではないかと感じる。ナショナリズムの危険性などについては、むしろ社会科や現代文(主に戦争文学)で取り扱うべき内容ではないだろうか。
・桃太郎をナショナリズムで読む、オリエンタリズムで読む、ジェンダーで読む等、多様な観点で相対化することが大切なのだと思います。
・思い浮かびません...。
・社会の授業とコラボして(単元を半分ずつやるとか、社会の先生と一緒にやるとか)歴史的な観点からの解説を加えると効果的なのではないかと思います。
・古典が現代の私たちにつながる身近なもの、ルーツであるということがわかるような授業(現在の高校の授業は現代との差異が目立ち、遠いもの・現代と関係のないものとして認識されがちなため)。
・後の時代にどのように引用されたか調べる、ほかの国の古典の扱い方と比較する等の活動を取り入れた授業。
・やはり、文章を通して筆者、また当時の人々が何を訴えているのか、この点を吟味する授業でなければならないと思います。日本語を正しく理解できる人は、もちろん我々日本人が大半でしょう。その大半である我々が、読めない諸外国の人々に向けて、日本人が培ってきた知識、知恵を伝えることができないなんてことはあってはいけないと思います。外国語の論文も訳文で充分理解できるのだから、古文も現代語訳で良いという意見もありましたが、その外国語をわかりやすく書いて、伝えてくれるのは誰か。それはその国の人たちです。それぞれの国が持つ、知識という宝物をそれぞれの国の人々が世界中に分配する。その波に、日本人も乗るべきであるし、乗る義務があると私は思っています。この点を深めていくことこそが、日本文学とは何か、日本人とは何か、ナショナリズムを深めていくうえでは大切なのではないか、と考えています。
・教師や教科書の解釈を鵜呑みにするのではなく、アクティブラーニングを取り入れ他者と対話することにより多角的な解釈をする授業が必要だと思う。
・なぜその前提となるか不明。
・日本史で勉強したことを復習し、実際に戦時中にスローガンや隊名として使われ戦争遂行に協力させようとされていたことがわかる新聞記事を紹介するなど。しかし、これは国語科が立ち入って許される範疇なのだろうか? 政治的行為として保護者や社会から問題視されるなどするのだろうか......?
・わかりません。
・作品への理解を深める授業が必要だと思います。作品の本来的な意義や真意を探らせることと、作品のどういった部分が利用されたかを知らせることが必要だと思います。
・①本文に即した解釈。たとえば「花山院の出家」でなぜ「大鏡」バージョンでは安倍晴明が出てくるのか? なぜ、ここで「奏す」? え、誰に? ②文献学、伝本研究。そもそも、どういう形態でどういう系統でこの書物が残されたの? どうしてこういう記述がこの伝本にはあるの? どうしてこの版元から出されたの? ......古典の存在そのものが社会の政治や経済とは無関係ではなく、教科書という媒体すら社会(教育政策)の一部であることを忘れないこと。だから、どのテキストで、どのように読むかを主体的に判断・選択できる力が古典読解には必要です。
・古典に出てくる現地に訪れたり、絵巻など見たりする授業が増えてもいいのではないかと感じました。
・作品の表面上の理解に止まらず、そこに描かれる事象や環境(衣服や食文化)などに対する関心を刺激するような授業。
・本居宣長の例を挙げていましたが、nationalismとpatoriotismの違いだと思うのです。その違いを教えるということかな、と。
・自分の力で古典を解釈する力。
・ディベートにもあった解釈学。
・戦時の教科書教材と戦後の教科書教材の比較。
・ナショナリズムに利用されるくらい文学には力のあるものであると考えられるので、紀貫之の例や他国の例を挙げ、どうすれば利用されないか教員、生徒で話し合う機会を設ける必要があると思います。
・理解度を測ったり成績をつけるためにもちろんテストは必要だが、数字に出されてしまうと単なる「試験教科」になってしまって、古典を味わったり文化を誇りに思うことが難しいと思う。テストをなくすことはできないと思うが、成績だとか数字を考えずに古典に触れられる授業が必要だと思う。
・歴史的コンテクストを踏まえ、当時、どのように活用されたのかを学ぶことは必要である。歴史との教科横断的授業で取り組むべきでしょう。
・ナショナリズムへの利用という観点が問われることの意味が理解できない。
・時代背景を踏まえた授業(地歴公民科との連携)。
・否定派が挙げたような、ナショナリズムに利用された歴史を学ぶほかない(国語でなく歴史の授業になりそうであるが)。ただ、学習指導要領・教科書・大学入試などである程度「指導すべき」としておかないと、ほとんどの教師はやりたがらないように思う。
・時代背景や歴史上の事実を解説の上で、ディスカッションしてもらい当事者意識だったらどうかを想像してもらう。
・時空を越えたテキストを「読む力」を育て、身の回りや自分とは異なる世界の存在を意識化し、そこにある価値観を自己の価値観とともに対象化し、自己の世界観を広げ深めていく糧とする力を身につけさせる授業。自分自身は、現代文、古文、漢文に関わらず、「国語」の授業において根幹にしている要素である。
原文にアプローチできる力は、その「読む力」の一部である。それを身につけさせることで、メディアを介さず自らアプローチする「筋力」を身につけることができる。他者の解釈と翻訳を鵜呑みにすることの問題に気づかない人間を育てたくない。古典の政治利用などを見抜く力は、「否定派」の「寝た子を起こすな」論の方が身につかず、愚民政策につながる危険性を持つ。
上記の「筋力」をある程度持つことによって、日本の言語文化における豊富なテキストを自己の世界観構築に資するものにしていく力を持つことになる。高校生というこれから世界に羽ばたいていく世代の生徒たちに、「狭義の現代」テキストのみしかアプローチできない枠を強制することはしたくない。
対象生徒、学校の教育目標に応じて、原文にアプローチする力は、各校でどの程度まで育てたいかを決めればよい。自分の所属する学校においては、できる限り高いレベルで、原文にアプローチする力も育てたいと考えている。
差別的な思想等、過去の「負の経験」部分については、逆に「古典(時空を越えた異世界)」や「文学(フィクション)」というものであるからこそ、高校生という発達段階においても対象化しやすく、問題の本質について考え、今の自分たちの世界をより良くするためにどうすべきか、と思考を深めることができる素材であると言える。当然、授業者がそれを踏まえて授業をデザインする必要があるが。
・古典が後世の人によってナショナリズムに利用された歴史や、古典そのものに今日の観点から見ると不適切な記述があるという事実を取り上げつつ、まずは時代とともに正しいとされる倫理観や道徳観は変化することを知ることができる授業が必要だと思います。
・古典を知り、それを通して今を知り、相対化すること。
・教室での、授業時間における学びにとどまらない、生徒(学生)個々のより貪欲に学ぼうとする姿勢が重要であると思います。
・まさに先生方がおっしゃっていたように、現代語訳を読んで終わりではなく、原文を読んで、生徒たち自身の解釈を求める授業が必要だと思います。
・神話を学ぶ授業。その時々の政治や宗教の影響で神話の内容や注目される部分が変化したことを学ぶことは、神話とナショナリズムの関係に気づくきっかけになる。
・書かれた内容を読むだけでなく、作品がどのような価値観のもとに書かれたのかという当時の常識をセットで教える必要があると思います。それを踏まえて、内容を評価する活動が望ましいと考えます。
・古典の内側からではなく外側からのぞくように学び、常に外国文化や現在の価値観など比較対象との差異を意識しながら学ぶ授業。
・まず教員がどうすれば気づけるのかを考え、答えを有る程度出した上で授業計画を練る。
・実例を挙げる。(ディベートでも出ていましたが、具体例を挙げることが一番わかりやすいと思います。)
・現代文との分野横断的授業、地歴公民との教科横断的授業が必要だと存じます。
・肯定派の方が指摘されたように、軍国主義における古典利用について、正面から扱うのが良いのではないかと思います。また、少し論点はずれますが、今のように作品偏重の古典ではなく、例えば宣長・春庭周辺を扱い、古典文法がいかにして今の形になったかなどを少しでもいいから学ぶことで、「古典作品」と「古典文法(古語)」をある程度分けて対象化することもそうした古典の利用に気づいていくために重要ではないかと思います。
・生徒自身が考える時間を設けるべきと思います。今回のシンポジウムでは本居宣長の例が出ましたが、その事実を伝えた上で何が問題点だったか生徒自身が考えることが必要だと思います。
・生徒が自分で判断する力を養うために、現代的価値観から良いと見なされるものもそうでないものも取り上げる授業が必要だと思います。ただしその前提として、生徒には授業で扱う古典の価値観は絶対的なものではないという認識を共有する必要があります。
・前提として生徒に古典への興味を持たせられる導入が授業でなされて、ある程度までは解釈できる力を高める学習段階の環境が整えられた上で、時代の異なるテクストと読み比べたり他教科(地歴科目や語学を中心に理系や実技の分野も含む)との連携で思考を深めたりしていける授業が理想です。その模索を新科目の教科書作りでも意識して編集しています。しかし、現任校のような定時制では、そもそもの学習歴の乏しさや、ある種の障碍で学習自体が儘ならないケースが散見され、古典学習に入る前段階で苦心や工夫を重ねております。
・日本史、特に近現代史との連携も必要だろう。
・「古典作品は無条件に素晴らしいものだ」という前提をまず取り払う。その上で、文法や内容を学ぶ授業とは別に、「古典作品が時代の中でどう読まれてきたか」(受容/利用の歴史)を探る授業を行う。
・実際にナショナリズムに使用されたものをまず学び(現代社会や現代文の範疇)、実際に書かれた社会状況や作者の背景が、どう「利用」されたかを探るような授業がいいと思います。たとえば、和歌だと『百人一首』をまねて『愛国百人一首』というものが戦中に編まれています。それがどういう意図で編まれたのか、実際の百首はどういう時代状況のなか、どういう意図で詠まれているのか、それがどう読み替えられているのか、を探ったり。
・仮にそうした授業が必要だとするなら、古典作品がナショナリズムに利用された・されている例について知り、考える授業を行うことが方法として考えられる。しかし、ナショナリズムは古典以外にもさまざまな部分(現代のサブカルチャーなど)に潜んでいて、国語科の中だけで扱うのではなく、教科横断的に考える必要がある。
・古典が現代において必要な理由から説明すべきだと思う。
・社会科との教科横断的な学び。文学批評。
・古典の文章は素晴らしいという前提で読むのはよくない。ただ、長い年月の間に価値があるとして残されてきたものを、それがどういうものだったのかを学ぶ意義はある。
問16.今回のシンポジウムは、オンライン上での開催となりましたが、オンライン上での開催について、いかがでしたか?
問16-a.問16の回答の理由を教えてください。
・気軽に参加することができたから。
・前回までのシンポジウムの内容を提示してほしい。第1部でなぜそのような協議内容になったのかわからないまま進んだので、今回初めての参加者は趣旨を理解することが難しかった。
・時間がなく発言できなかった方の意見も、チャット欄で見ることができ、いろいろな人の考えを見られて面白かった。
・少々やりにくいところはあるかもしれないけど、オンラインでも回ったから。
・両方の側面がある。家でできて楽だけど機材のトラブルなどもあるなど。
・十分にみんなの意見を聞くことができたから。
・学校に来てもらうより、より多くの方が視聴できたと思う。
・もちろん楽しかったのですが、本来の予定通りどこかに集まることができれば、私たちも参加者の方々と意見交換や討論をすることができてさらに刺激的になったのかなと思うと少し残念です。
・オンラインにしてはスムーズに行ったと思う。
・家からでも参加できたから。
・実際に集まるとなるとハードルが高いと感じてしまう部分もあるためオンライン上だからこそ参加できる人もいるというメリットは大きいと思う。
・会って話すのとそんなに変わらずに話し合えていたと思う。
・一人一人の意見が非常に聞きやすい。
・オンラインなので、家でリラックスしながら集中して参加することができた。
・Wi-Fiのトラブルがあった様ですが、それ以外はスムーズに進んだからです。
・オンライン上だから仕方ないけれど、トラブルで聞きにくかったりするのは少しストレスを感じました。でも、このコロナ下でもシンポジウムを開催させた先輩たちや先生方に感動しています。
・人の意見に集中できていなかった人が多かったと思う。そのために話がかみ合わなくなっていたところがあった(先生方の話や生徒ディベートの反対尋問など)。先生方の話に関しては、「話し合い」というよりも、完全に「意見の主張のし合い」になっていた。はっきり言ってテーマが難しくなっただけで中学生の喧嘩のようだと私は感じた。
・本当なら実際にお話を聞いたりしたかったけれど、今こういうご時世だからしょうがないと思う。オンライン上でも今回のような体験ができて良かった。
・スムーズであった。
・気軽に聞けたしコメントと言う形で介入するほうが直接話すよりやりやすいと思うから。
・コロナ禍の中で開催できたのは良かった点だが、やっぱり、対面の方がディベートとしてはしっくりくる。
・自分の部屋で集中してきくことができた。
・手軽に参加できる。(気が楽っていうことじゃなくて、より多くの人の参加したい意思に寄り添ってくれるってことです)
・画面をずっと見るのはやや疲れたが、楽しかったから。
・やっぱり面と面を合わせての熱い議論が見たかった。
・家から参加できるので、緊張や、リスクが少なくてよかった!
・しっかりとパネリストたちの意見を聞くことができたから。
・コロナの状況でもこのような会が開催され、参加できた事は非常に幸運だったがネットワーク上の問題や制限時間等であまり快適に聞くことができなかった。
・回線状況で時々聞こえなくなったりしたから。
・リラックスした状態で話を聞くことができたから。
・家で視聴できたし、大きな問題もなくスムーズだと感じた。
・大勢が集まるには手間や時間がかかるが、オンラインなら気軽に参加できるから。
・少しWiFiの問題などがありましたが、おおむね不自由なく参加者の熱意がオンライン上でも感じられる事ができてよかったです。でもだからこそその場で先生方や、先輩方のディベートを生でみたかったなぁと思います。
・場所関係なく多くの人の意見が聞けたから。
・会場で長い時間座るだけではなく、気軽に立ったり歩いたりできて楽に話が聞けた。
・気軽に参加できるし、ガッツリメモを取れる。
・対面だと行きづらいと感じていたから気軽に参加できた。
・やはり生で議論できるのが最善だと思うが、この社会状況の中オンラインで開催できたのは素晴らしいことだと思う。
・多くの先生方をお呼びできていること、多くの参加者が集まれていることはオンラインでの開催によるところもあるのかなと思った。一方でオンラインだからこそ起こるトラブルもあったので、いいところと悪いところが出たのかなという印象を受ける。
・生徒たちの頑張りはとても良かったですが、否定派の大人たちの意見がそんなに大したことがなかったのが残念でした。
・実際に行ってみることは大事だが、地方からの参加のハードルが随分と下がったように感じられたから。また、高校で実現できる新しい取り組みの紹介にもなったから。
・家から視聴できる利便性は高いが、音声がたびたび大事なところで途切れ(登壇者や会場のせいではなくZoomの特徴です)議論に集中できないため。
・奈良にいながら、リアルタイムでシンポジウムに参加させていただくことができました。今後の教育・研究の可能性などに多大な示唆を与えるシンポジウムだったと敬服しております。
・対話のスムースさがない。タイミング難しい。しかし遠隔地でも参加できる。
・回線の状況が良好ではなく、しばしば音声が止まったため。
・東京まで片道5時間のところにいます。オンラインでなければ參加できませんでした。
・遠方にいても参加できたのでよかった。
・参加が手軽です。準備側の大変さはあるかもしれませんが......。
・遠方に住んでいるから。
・現地には行けないから。
・この状況下でも参加できた、ということもあるが、遠方からでも参加できたし、主張が聞きやすく見やすかった。またチャットとの連携で質疑が活発になったことも良かった。
・参加しやすかった。
・地方に暮らしていても参加できるから。
・往復の交通時間の節約ができたため。資料がデジタルデータで入手できたので保存、閲覧がしやすくてよかったため。
・現地に行く必要性がないため。(札幌在住)
・参加者の移動の手間がなく、気楽に参加できたのでその点は嬉しいです。
・良い点も悪い点も双方ありました。
・全国のさまざまな場所から参加できる利点はあると思いますが、パソコンの画面に4時間かじりつきは目の疲労が激しかったです。
・いろいろ技術的な大変な面も多かったと推察しますが、やはり開催されてよかったと思います。むしろ地理的な理由で参加できない人も参加できてよかったと思います。
・スムーズさにかける、まどろっこしいという指摘もあるのかもしれませんが、丁寧に前提を確認したり、発言者と司会者と聞き手とが「手続き」を切り分けることで、リニアでフラットに話題が進行できたのではないかと思います。
・オンラインでは、直接会場に足を運ばなくても良いので自宅でも参加できたから。
・オンラインで開催されたこと自体に不満はないが、明らかに運営側の落ち度によるトラブルにより進行が滞ってしまった点は残念だった。これは実務を担った生徒さんたちではなく、運営者である教員側の責任だろう。
・地方からこのような貴重な機会に参加できたことを心から感謝します。
・地方在住なので、オフラインだったら参加できない可能性が高かった。殊に、オンラインだったことで現場の教員の方々が地域問わず参加し、高校生の声を聞けたことは大きかったのではないかと思う。
・実際に集合してのシンポジウムの開催に大きな支障がある中、中止とせずに、開催の方法を探り、実現されたということが、とても素晴らしいと思います。
・今の状況だけでなく、金銭的などの理由で東京まで行くことができない人でも参加できる点がとてもいいと思いました。
・移動の負担がなかったことです。
・大分在住ですがアクセスしやすかったです。
・どこにいても参加できる。特に現在の状況において、無事に開催に至ったのはオンラインのお蔭である。
・参加しやすさはありますが、対面ならではの会場の雰囲気形成のようなものは難しいと感じたから(やむをえませんが)。
・会場より遠方に住んでいるため。
・生徒の皆さま、担当の先生の熱意が伝わってきた。動画の使用や作戦会議中の司会の進行などからも、オンラインで行うために試行錯誤したくさんの準備をされてきたのだと感じた。
・情勢上、現実的な策であるから。
・自宅からの参加が可能であったため。
・直接会場に行かなくても参加できるというメリットは感じますし、オンライン上の方が画面を集中して見られるのは良かったと思います。ただ、画像や音声が乱れるなど、リアルシンポジウムでは見られない、オンラインならではのトラブルが発生する場合があるので、どちらとも言えません。
・wifiなどの問題はあるものの、zoomを使用することで簡単に参加することができたため。
・自粛の現状にありながら、オンラインでの開催に踏み切って下さったことに感謝いたします。制約のある中で、時間配分、進行の役割分担等非常に工夫されていると感じました。
・オンラインでなければ、参加することはできなかったと思います。現在、大学4年生として就職活動を行っているため、なかなかまとまった時間を取りにくく、現地に行ってまでシンポジウムを聴取しようとは考えなかったと思います。
・対面のシンポジウムと特に変わらないから。
・移動時間を気にしなくてよい、用意された資料を各自の手元でそのまま見ることができる、投票やグループでの話し合い・質問への移行がスムーズ、距離によって声が常に届きづらいということがない。
・やはりオフラインだったらよりライブ感があったんだろうなと思う一方で、オンラインでもきちんとできていたので。
・コロナ禍による自粛期間中ですが、こういった形式でもきちんとした討論が戦わされ、緊張感も有り、大変刺激的でした。
・二つあります。一つは三密→「仕方がない」とふさぎ込む世の中に高校生が使える手段でパネルディスカッションができるよと教えてくれたこと。二つめは参加者の発言、進行をうまくコントロールできたこと。タイムスケジュールにしたがい、公平に時間という発言チャンスを配分できたこと。チャット欄の使いかたを制限し、みんながそれを守ったこと。
・発言者一人一人の顔を見ながらしっかりと意見を聞けたのがとても良いと思いました。
・広くさまざまな意見が聞けたこと、時間を区切って進められたことはよかったと思うが、もう少し自由闊達なやり取りをしてほしかったので、改めてやっていただけたらとも思いました。
・どこからでも参加できる。
・仕事でもアクセスして参加できたから。
・遠方からでも参加できたから。
・実際に会場に行くのが難しかったので、家にいながら参加できてよかった。
・オンラインならではの良さがあった。参加しやすく、当日会場で実施するよりも多くの参加者があったと思う。オンライン・ディベートもよく運営できていました。司会者も素晴らしい采配でした。
・会場を広げることができた。
・距離を考えずに気軽に参加できる。
・当日は午前が仕事であったため、移動の手間がかからなかった点が何より大きい。
・何か起きても、できる方法を模索し実行するというモデルケースを見せていただきました。
・オンラインである利点をしっかりと考えた組み立てで、見る側にもとてもわかりやすく、存分に楽しむことができたため。
・地方に住んでおり、東京開催なら参加が叶わなかったからです。
・時間がしっかりと守られる、多くの人が気軽にアクセスできた。
・参加しやすいという点では、実によかったと思います。その反面、通信の不具合などが起こるところは、若干の不便さを感じました。
・よりリラックスした状態で参加できるのは良かったと思います。しかし音声が途切れ途切れになったりで時間のロスが生じたのは残念です。
・移動時間がないので、忙しい時期でも、参加時間を確保できる。
・内容は良かったが、かなりの頻度でネットワークの接続が切れた。
・企画・運営者には敬意を表した上で述べます。シンポジウムの内容がとても面白かったからこそ、オンライン上で行うにあたっての配慮が足りないと感じられた場面が見受けられました。
・学校のWIFIを使うのであれば、16:00に切れてしまうことを事前に把握すべきだったのではないか。(プログラムも16:30までで記載があるため)事前に把握できない様だったのであれば、万が一WIFIが切れてしまった時の対策を練っておくのはどうか。
・オンライン討論を行うにあたってのタイムラグを承知した上で討論して欲しかった。ディベート特有の両者共に引けをとらない模様は、どうしてもタイムラグが発生するオンラインでは難しいと思われたため、相手が話し終え一拍置いてから次の話者が話始める等事前に決めてもよかった様に思われる。
・司会およびパネリスト同士の間でもタイムラグがあったので、コロナ対策は距離を取る等工夫して、運営側のzoomアカウントはペアで一つにして欲しかった。
・司会が討論を回す際、司会アカウントがアンミュートになっており、司会の声が討論者の声に被っている場面があった。ミュート使用にあたってのルールを作っておくべきだと個人的に思った。
・質疑応答の際、フロアからの質問がすべて肯定派の先生方への質問だったため、否定派の先生への質問も聞きたかった。まずは肯定派の先生方へ、次は否定派の先生方へという様に司会で回す方法でもよかったと感じた。
・以上が質問への回答理由です。
・居ながらに参加できる点。
・機器と回線があれば、地理的制約・時間的制約を取り払う可能性が生まれてくるからです。ゆえにこうしたインフラ整備に対する公的補助はこれからもっと充実させていくべきだと思います。
・いろいろな価値観が変容する状況下だからこそ、開催していただけてとてもよかったと思います。また、遠方からの参加ハードルが下がった点も感謝したいです。
・機器トラブル等もありましたが、全体的に工夫されたプログラムだったと思います(次の質問につながりますが)。ご連絡等も丁寧にしてくださったので、不安がなく参加できました。
・気軽に参加できたから。
・オンラインでないと、参加できなかった。(居住地や交通費の関係で)
・先生方やパネリストの関係性がよりフラットになり、発言者の発言が対等な大きさで聞こえてきたから。でも、視聴者の盛り上がりはやはりわからないので、オンラインの良さはありつつ、可能になったら次回はリアルな場でのシンポジウムを!
・3月開催のときは企画を知らなかったので、聞き逃すことになっていたので!! オンラインでは気軽に参加もできますし、よかったです。トラブルも問題ありません。
・遠隔地で忙しい状況でも参加できるから。
・一斉に複数の方の表情が読み取れるため。
・回線の不安はあるものの、場を選ばずに参加できる。
・今回のシンポジウムが生徒の側からの要求でスタートしたものとは思っていなかったので、大変びっくりしました。企画にあたった生徒さんの最後の発言は力強く、古典教育の未来を切り開くエネルギーを感じ感動しました。オンライン上ではあったけれど、この時期に実現できたことはとても有意義なことだったと思います。
問17.今回のシンポジウムのプログラム構成について
問17-a.問17の回答の理由を教えてください。
・大人も高校生の意見も聞くことができてよかった。
・しょうがないのはわかるけど、くっきり時間をくぎってしまって言いたいことが言えなくなってしまったりしていたから。
・交互に意見を述べるやり方や何回か意見をきく場があってとても楽しかった。
・もっとフロアの方の意見も聞いてみたかったです。でも、ディスカッションはとても有意義でした。
・先生、高校生、という感じで意見をそれぞれ聞けて、視聴しやすかったと思う。今後はもっと視聴者も参加して意見をいい、ディスカッションができる時間がほしい。
・せっかく社会人のパネリストの方々に参加していただいているのだから、もっと話す時間を長くするべきだと思います。
・最初は三時間も長いなあと思っていたのですが、面白くて飽きずに聴くことができました。
・みんなの意見をしっかりきけた。
・前回の振り返りがあったので、前回は参加していないが議論の内容がよくわかったから。
・最初に論点をまとめてくださっているなど、内容が理解しやすかった。
・まず、古典を学ぶ必要があるのかということについて考えるのが目から鱗だった。学ぶことが当たり前になっていて、まずその必要性を問うこと自体初めてだった。だから、今回このような機会があり、自分自身に問いかけるいいチャンスになった。
・初めて参加したけれど、特に問題がなかったから。
・全体的にはよかったと思うのですが、先生方の論点が少しかみ合っていないところは福田先生も指摘されていた通り、気になりました。生徒パネリストのディベートはすごくよかったと思います。
・最初に先生方のお話があって、そのあとに高校生パネリストのディベートがあったので回が進むにつれて話が深まって、それに引きこまれたから。
・構成は良かったと思う。
・良かったとは思うけど、たまにディベートがちゃんとできてなかったりしたから。
・順序立てて構成されていたので聞きやすかったし内容が整理しやすかった。
・不満はなかった。
・スムーズな進行でした。
・大人と高校生の考える必要性って違うと思うので混ぜこぜにしないのが良かったです。
・さまざまな意見が飛び交っていてとても面白かったし学びにつながった。
・いろんな先生方や、高校生からの鋭い意見を聞けて、とても有意義な時間だったと思うから。
・先のゲストの方々の話と、生徒のディスカッションの内容や方法、意見などにギャップを感じたから。
・教授をたくさん呼んでいただき濃い内容だったが教授方があまり満足に話せていなかったように感じた。
・いろいろな人の話が聞けたから。
・フロアとの時間をもっと取って欲しいと思った。
・みていて楽しかったです。
・最初にそれぞれの立場の意見をゆっくり理解してから討論が聞けたら、内容にももっと追いつけたと思う。
・ディベート形式だったので、話が聞きやすかった。
・特に問題はなかった思うが、あえていうならもう少し時間があったらよかった。
・司会がちゃんと進行していたから。
・前回のシンポジウムを知らなかった身としては、前半のプログラムについていくのが大変でした。専門家の方と現役高校生のどちらからも話を聞くことができたのはよかったです。
・第1回のシンポジウムに参加していなかったので、最初のディスカッションの意味合いがいまいち取りにくかったですが、全体的に非常に満足です。
・全体の流れはよかったと思うんですが、各部の時間、特に先生方お一人お一人のお話の時間が短く感じたので、多くの先生方に集まっていただいている中で多少仕方ない部分もあるとは思うけどもう少しまとまった時間を作れていたらもっとよかったのかもしれないと思いました。
・高校生たちが頑張っていたのに好感が持てました。
・昨夏の「こてほん」を受けての開催というのがわかる形になっていたから。
・進行は驚くほどスムーズで問題なかったが、一番最後の長谷川さんの開催意義は最初に置いたほうが議論の問題意識や焦点が定まりやすかったか? 高校生から見た古典イメージについての詳細について、もう少し突っ込んだ形で知りたかった気もする(ホンネ・現状認識の社会的な共有こそ、本企画の最大の意義であり、議論の基盤でもあるから)。
・もちろん、パネリストの先生方のお話も興味深くうかがい、勉強させていただきましたが、個人的には、高校生の皆さんのディベートや意見交流をもっとゆっくり拝見したかったという思いもございます。
・感想戦をいれたこと。パネリストへの質問を入れたことがよかった。
・第1部の振り返りは、質問への回答がずれていたりして、正直なところ、前回のシンポジウムを視聴していた人間にとってはあまり意味のあるものではなかった。高校の生徒さんたちのディベートとその後のフロアとのやりとりにもっと時間を割いてほしかった。また、高校の国語科教員をパネリストに加えるべきであったと思う。
・議論のキャッチボール。球の動きを観察しやすかったです。
・白熱した議論でも、時間制限で止められてたので、もっと時間に余裕があったら良かったのかなと思いました。
・パネリストの厳選はすべきだったと思います。否定派も増やすべきでした。
・大人が子どもの声を奪っていなかったか。
・パネリストの議論、高校生の議論のどちらも興味深かったけれども、あの時間に詰め込むのは無理があった。また、高校生の議論はディベートのための立論だったように思う。自己の学習経験・生活経験に根ざした「生の声」を聞きたいところだった。
・参加が初めてだったので良くないとは思いませんでした。
・高校生のディベートが中心だったので。
・高校生のディベートは不要と感じました。もっと専門家の意見をじっくり聞く時間が欲しかったです。
・良かったので。ただ時間制限があるのでもっと聞きたいなと思ってしまいました......。
・前回の「こてほん」では、否定派と肯定派がまったくかみ合っていなかった上にわかりにくいシンポジウムになっていたので、この度両者の意見を整理してくださったのは非常にありがたいです。当事者である高校生が、優劣を別にして、「肯定派」「否定派」に分かれ平等な立場でディベートをしたことも、論点が明確でわかりやすく、私自身もさまざま考えていくきっかけになりました。
・高校生が企画したものとして、本当に素晴らしかったと思います。
・発起人の方の思いをうかがえたことだけでも、この会に参加させていただけてよかったと思います。もちろん、ほかの議論に関しても参考になることが非常に多く、このような機会をいただいたことに対し、感謝しております。
・特に問題は感じなかったので。
・どうしても前提や、言葉の定義、立場の違い、経験の相違など「文脈の違い」によるかみ合わなさが発生するところで、「ディベート」という形で論点がいわば強制的に「見える化」されつつ吟味される場面が作られたように感じられました。ただ、そこが否定派からすると不誠実な命題に映ったのかもしれません。
・肯定派、否定派にそれぞれ区切られた時間を利用しており、内容が混同せずに済んだから。また、司会の方が内容を簡潔にまとめて説明してくださるのもわかりやすくてよかったと思ったから。
・学生のディベートが、どのような意図で組み込まれていたのかわからなかった。内容は、肯定派/否定派ともに前回のシンポジウムおよび書籍の受け売り以上のものではなく、主張に見るべきものはなかった。かえって肯定派、否定派ともに、パネリストの考えに毒されている弊害が目立ったように思う。また、あの時間が高校(ICU高校?)の授業実践を披露するためのものとして設けられていたとするなら、それは「これからの古典教育の在り方を考える機会」という企画趣旨に反するものであったのではないか。学生が発言することを否定するつもりはない。当事者である高校生をないがしろにした議論がこれまでなされていたことは事実である。最後の、発案者の方の意見には率直に胸を打たれた。しかし、あれだけのことを言えるのであれば、ディベート形式にとらわれた紋切り型の発表ではなく、もっと自分自身の実感に即した言葉で、話してもらいたかった。生徒同士ではなく、第一部の形式で、それぞれのパネリストとの応答の方が適していたと思う。あるいは、パネリストにこそ、ああいったディベート形式を採用すべきであっただろう。今回も、特に肯定派(の一部)が自分の主張を一方的に押し付けて対話の姿勢をみせようとしていないことは非常に残念だった。高校生の誠実さを見習ってほしい。高校生にこそ自由に、パネリストにこそ形式的に発言させるべきであった。選択のミスであったと思う。
・厳格な時間整理によって議論がスムーズでした。
・前回の不満点(?)の解消、高校生が声を交わすディスカッション、どちらも必要だったと思うから。
・以前の明星大学のシンポジウムをどう受け継ぐのかもよくわかりましたし、都度、司会のお二人が意見や問題点を整理されていました。わかりやすく整理された構成だと感じました。
・高校生の生の声を聞ける機会がなかなかないのでとてもよかったです。盛りだくさんの企画と時間の関係で仕方がないのはわかっていますが、パネリストの先生方の議論をもっと聞いてみたいと思いました。
・高校生の声を直接聞き、その熱量を感じることができたからです。
・よく練られた構成であったと思う。高校生自身の声、やり取りが聞けて、大変有意義であった。
・高校生の独自の論点の展開があったのがよかった。
・時間配分を常に意識されていた点が良かった。だらだらと長引くこともなく、スムーズな構成であったと感じる。ソーシャルディスタンスを保ちながらの運営、本当に素晴らしかった。
・ディベートが新鮮であったから。
・時間制限があるので仕方がないとは思いますが、言いたい事を絞って発言したり、上手く言えなくても次へ進んでいくので、議論が深まらないうちに進展していくような印象を感じました。ただ、二部構成にして、用語について意見を深める部分とディベートする部分をすみ分け、さらにそれについて掘り下げる時間を作ったのは、わかりやすくて良かったと思います。
・肯定派・否定派、双方の意見を十分に聞くことができたため。
・前半大人のディスカッションがかみ合わない感があったところ、高校生のディベートによって軌道が修正され、後半は非常に実りあるディスカッションとなったからです。
・先生方、パネリストの方々、すべての人の発言がどうしても途中で終わってしまっている感が否めなかったです。もっとここからが、面白そうという点で終わるのは残念でした。
・古典に関して根拠に裏打ちされた意見を持っていないかつディスカッションに慣れていない高校生たちの議論は、あまり必要ではなかったから。
・限られた時間の中で、先生方、高校生、フロアどの立場からの考えも聞くことができる配分でした。ディベートの感想を高校生が話す時間は、ディベートでの好戦的?ともいえる雰囲気からうってかわりながらも、こちらはこちらで古典の授業に関する生の疑問や感想の声を聞くことができ、面白かったです。司会の方も、白熱した議論を安心して聞くことができるつなぎだなあと感じました。
・最後まで見ていないので。
・高校生を主体にしながら、広がりのある視点を持つことができた。
・最初から全体のスケジュールが示されていたため、長時間だけどくじけず聞けたから。
・とても意見の流れがわかりやすく聞きやすいプログラム構成だと思いました。
・よく考えられていたと思います。
・国語についての議論はもっと活発に行われるべきだと考えるから。
・高校生がシンポジストに質問することができたから。
・当事者である高校生が中心であったため。
・先に肯定派・否定派の意見が整理されていたので聞きやすかった。
・明星大での研究者の議論を踏まえて、高校生がその続きをディベートで展開するという構成が素晴らしい。古典を学ぶことの意義とは何かを探究したよいものでした。従来の古典授業を脱却して、新しい古典の授業を作るべきという高校の先生方への鋭い示唆として有益だと思いました。
・高校生の参加はよかった。もう少し広がりがあるとよかった。
・前回のシンポジウムの登壇者直々に総括があってからのディベートだったので、前回のシンポを知らなかった人でも流れをつかむことができ、前回の議論の焼き直しになることを防ぐことができた。また、高校生目線の意見が多く採りあげられる点もよかった。
・一つ一つの構成が立っていたので、すべてのプログラムを興味深く視聴することができました。冒頭の説明部分を視覚で説明してくれたのは、入りやすかったです。
・大人のやりとりの後に生徒によるやりとり、そして、特に、ディベートの最後に両者がタッグを組んでの最終弁論、という点が大変面白かったです。
・教員として高校生の率直な意見、研究者の考え方、否定派の考え方に触れることができたから。
・若い方々の白熱した議論に多くの時間が割かれたことが、極めて有意義だったと思うから。
・動画の流し間違い以外は特に問題点はなかったと思う。
・古典教育を受けている者(高校生)が主催し、等身大の意見を伝える、という目的が明確だったため。
・高校生パネリスト、フロア、先生方など、さまざまな方々からのご意見をお聞きすることのできる構成になっていたからです。
・オンラインですが、最初にスライドと音声で論点と用語の定義をしていただけたので。
・効率的、効果的な議論ができるプログラムになっていたと思います。
・とても良かったと思います。昨年のこてほんシンポジウム、本を読んで疑問に思っていたことやモヤモヤしていたことが、もう一度聞き直すことでわかりやすくなったと思います。また、シンポの延長的な部分と高校生たちのディベートを切り離したのが良かったです。時間の関係もありますが、もう少しフロアの人の発言、意見できる時間を延ばしていただけるともう少し着地点があったのかな......とは思いました。
・特に肯定派否定派の双方の意見を整理する時間を設けていたことが今回のプログラム構成の中でも良かったと思います。また、パネリストの先生方のセッションには行き違いが多かったのですが、進行の生徒さんたちのおかげで論点が大きく逸れずに議論が行われたことが素晴らしかったです。生徒ディスカッションとその直後の緩急があったのも、高校生の率直な意見の発信になっていて良かったです。
・中核部分に、高校生のディベートをもってきたから。
・高校生同士のディベート時間がたっぷりあり、聞きごたえがあった。
・何よりも、高校生の企画力、実行力に脱帽しました。ディベートも素晴らしかったです。否定派の論点にも学ぶことが多くありましたし、どちらも本当にすばらしかった。
・ディスカッションの流れが綿密に組まれていたから。高校生が活躍する場面が多くあったのが、とても良かった。
・理解しやすく、円滑であった。しかし、高校生主体の場であるため、高校生の生の声をもっと聴きたかった。専門とされている先生方の論は論文等から読み取れる。一方で現役の高校生の生の声を耳にできる機会というのはそう多くないと思うため。(むろん、先生方のご説明があってこそ成せる議論ではあるが)
・ディべート形式もよかったけれど、高校生の本音の発言をもっと聞きたかった。何をどうしてほしいのか、どんな授業や受験、進学を望むのか、古文だけの問題ではないが、率直な意見を述べる場が、ほとんどないのだと気づかされた。
問18.今回のシンポジウムに先立って、Twitterアカウントを作成し、発信してきました。シンポジウム「高校に古典は本当に必要なのか」についてのツイートはご覧になりましたか?
問18-a.問18で「見た」を選択された方にお聞きします。発信内容に関して、今回のシンポジウムにとって有用な良い発信情報だったと思いますか?
●今回のシンポジウムについて感想等があれば、自由にお書きください。
・私は、言葉や高校の古典について知らないことが多くて、ディベートの内容で理解できなかったところも多かったけど、今回のシンポジウムに参加して、もっといろいろなことを学んで知っていく必要があることに気づかされました。また、先輩方がちゃんと自分の意見を持っていて、それをはっきりと伝えているのを見て、すごいなと感心しました。今まであまり高校での古典教育や、高校の教育について考えたことがなかったけど、このシンポジウムを通して少し考えることができて良かったです! もっといろいろなことを学んで、知って、考えていきたいと思いました。またこのような会があったら参加したいです! 今回は素晴らしいシンポジウムをありがとうございました。
・時間的に困難だと思いますが、フロアと先生方、主催側の生徒方とディスカッションできる機会があればよかったと感じます。学校の授業でもディベート、ディスカッションしてみたいです。
・さまざまな意見を聞くことができ、面白かった。ただ、その授業があるからやるのではなく、どんな利点があるのか、なぜ学ぶのかということを考えてみることも、必要なのかなと思った。自分でも考えるようにしてみたい。
・とても楽しかったし今まで自分が深く触れてこなかった分野について知るきっかけにもなっていい機会だったと思う。ぜひまたの機会があれば都合のあう限り参加したいです。本当にありがとうございました。問18-aは必須だったので「どちらとも言えない」に回答しました。本来は答えるつもりはないものです。
・否定派と肯定派の意見、どちらも納得することができて有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
・私にはまだ難しい日本語もありましたが、勉強になりました! 今後の教育の変わり方も期待ですね。
・自分の古典への立場を理解することができました。時間がカツカツでパネリストの方々の意見が伝わりきっていなかったことが残念でした。もしまたこのようなシンポジウムが開催されるのであれば、是非参加したいと思います。
・結論としては「古典の授業はこのままではいけない」ということだと私は捉えていて、このシンポジウムから得たものを形にするために、今度はどうすれば授業を改善できるかなど、生産性のある討論をしたいなと思いました。私も先輩方に続いて、現状を変える手助けがしたいです。
・ディベートに圧倒されました。古典について話すだけでもこれほどの知識と深い考えが必要だということがわかりました。私もあんなふうに話し合える人になりたいと思いました。こてほんに参加できて本当に良かったです。ありがとうございました。
・私は古典を高校で勉強することに疑問をもったことがなかったので、否定派の方の意見自体がとても新鮮でした。また、このようなさまざまな年齢、立場の方がいる議論も初めてで、議論というもの自体の難しさや面白さを感じました。このようにディベートをするとなるとそれは極論では、と思うような意見や単純な好き嫌いから過大評価してしまっているのでは、と思う意見もあると感じ、意見のぶつけ合いだけでなくあえて自分とは反対側の意見の立場からその立場になったつもりで考えてみる、というような柔軟さも必要なのではないかと感じました。
・楽しかったです。前に述べたように古典について考えるいい機会になりました。先輩方が教授の方々を前にして堂々と自分の意見を言っていたり、意見を全力でぶつけていた姿に感動しました。ただ、教授の方のお話は難しかったです。なので、私はもっといろいろなジャンルの勉強をしたり世の中を知ったりしていろんな側面から物事を見る事が必要だと考えさせられました。今度またこのような機会があったらぜひ参加したいです。運営してくださった皆さまありがとうございました。
・非常に良かった。しかし、このシンポジウムは来年も再来年も続けるべきだと思う。(パネリストをやりたいと思う人がいたため。)
・すごくおもしろかったです。初めてのシンポジウムだったのですが、自分の古典に対する考えを深めることができました。ありがとうございました。
・自分は古典が好きなので、仲島先生からお知らせをいただいて参加することにしました。シンポジウムもディベートも、すべてに関して初めてだったのでとにかく圧倒されました。前回の内容を知らなかったり、内容が難しくて理解できないところがあったりしましたが、始めから終わりまで全体を通して参加することができました。家にいながらにして、さまざまな大学の教授のお話をうかがえたり、先輩のディベートを聞けたり、とても貴重な時間となりました。これだけのものを企画して準備するのはとても大変なことだと思います。私はまだこの学校に入学したばかりですが、先輩たちの勇姿をとても誇りに思います。今日は本当にありがとうございました。
・「高校」に古典は必要なのか。という面白いテーマだったのに、著名な先生方の話が脱線していて、必要な情報が得られなかった気がする。また、いきなり喧嘩腰だったり、人が意見を主張している間に(ミュート状態ではあるが)、あからさまに大きなため息をついたり、首を横に振ったり(全然違うと見下した感じで)していたのは感じが悪かったし、どうなのかなぁと思った。その分野を長い間調べてきたというのはわかるし、尊敬する点は多くあるが、自分の意見に固執しすぎて良い討論ができていなかったように僕は感じた。ICU生のディベートは面白かった。質問タイムがもう少し充実すれば最高だと思う。
・いい経験になりました。また参加したいです。
・難しかった部分もあったが、たくさんの発見があり濃い時間だった。最後の長谷川さんの「古典をオープンなものにしたい」という言葉にすごく感銘を受けた。
・結構聞き逃したところがあったので、要点をもう1回読めれば嬉しいです。
・先輩方お疲れさまです!!! 今回は否定と肯定でしたが、原文派、現代語訳派、いらない派に分けても面白そうだし、より「古典の必要性」を探れるかなと思いました。結構話はズレますが、差別に対する考え方すごく心に刺さりました。「差別」と感じずに過ごしている日々が、いつか差別と感じられてしまう時がきてしまうかも知れないと思いながら過ごそうと思います。今は差別に対して注目が集まっていてそれに対してさまざまな声が集まっていますが、それが差別を引き起こしているかも知れないと考え直さないといけないなと思いました。
・とても有意義な3時間でした。また機会があれば、参加して次回は自分の意見を共有したいです。
・日本の教育改善、ということに前から興味があったので、参加してよかったです。ありがとうございました。このような企画を42期、43期と受け継いで、長いスパンで考えてほかの教科でもできたら面白そうですね。
・非常に有意義な時間を過ごせたのでまたこのような会が開かれたらぜひ参加したい。
・今までその意義などをほとんど考えずに「なんか国がやれっていうならやったほうがいいんじゃなーい?」などとのんきに古典を捉えていた自分が恥ずかしくなりました。聞けなかったこと、話したい事などがたくさんあるので校内での開催を切実に希望します!(知っている人同士のほうが話しやすいので、、、)
・ディベートがすごく面白かったです。どちらの意見も的を射ている部分が多くて、肯定派、否定派の主張を聞くたびに心が揺れました。自分とは違った観点から古典の授業に対して意見されていて、すごく勉強になりました。
・肯定派、否定派、どちらをとっても"権威のある"教授や先生がお互いの考えや個人を批判をする不毛な論争が展開されていたと感じた。どうしてまともな議論ができないんですか。討論は相手をけなすことではなく、より良い結果にたどり着くために行われるもののはずです。大の大人がそれでは、問題です。古典よりもやはり討論などを推進する方が重要ではないか、と改めて感じます。
・最後の長谷川さんのお話がとても素敵で、私もそんな人になりたいと思いました。また、長谷川さんだけでなく、ディスカッションをしていた3年生の方々もすごくお話が上手で、学年が一つ違うだけなのにこんなにも違うのかと圧倒されました。お忙しい中準備お疲れさまでした。大学の先生や大学生、高校生までさまざまな視点からの意見がとても面白く有意義な時間でした。ありがとうございました。
・今回何となく申し込んだのですが、とてもためになりました。特に、先輩たちの討論で4人の本気度が伝わってきて、圧倒されました。討論の結果私は否定派に一票を入れましたが、最後の長谷川先輩の話や先生がたの話、参加者の皆さんが書いていたチャットから、みんなの古典に対する愛を感じて、古典っていいな、こういう話し合いっていいな、と思いました。この話し合い自体が、とても意義のある素敵なものだったと思います。高校教師サイドのこてほんも、もしやるならぜひ参加したいです。ありがとうございました。
・自分と似た意見を持っている教授さんたちがいたので安心できた。
・とても楽しかったし、こういう競技としての?ディベートに参加したのは初めてで、三年の先輩たちは普段は仲がいいはずなのにここでは対立して意見をバンバン出し合う姿に感銘を受けました。また、このシンポジウムは先生が考えたものだと思っていたのにこれもまた先輩たちが考えたものと知ってただただすごいなと思いました。42期ではまだこのような生徒が主体となって何かアクションを起こすというのがない気がするのでせっかくこのような活動を応援してくれる高校に入ったことだし、興味のあるトピックが出てきたらやってみたいなと思わされました。ディベートの内容はどうであれ、長谷川さんの最後の言葉でディベート中は少し怖かった先生方もみんな称賛していて人が何かに頑張っているところは人に何らかの影響を与えるし、頑張っている人には大人が支えてくれるのがすごくいい社会だなと思いました。そう思うと同時に、ひたすらに頑張るだけで認めてもらえるのは学生の特権かもしれないと思いました。学生のうちにいろいろとチャレンジしてみたいです。この企画に関わったすべての人、お疲れさまです! ありがとうございました!
・お疲れさまでした! 休校になったときはこてほんがどうなっちゃうのかな...と心配でしたが、オンラインでの開催が叶って、陰ながら準備段階から応援していた身として、とても嬉しかったです。熱意が画面からひしひしと伝わってくる素敵な時間でした。中間テスト間近でも参加してよかったなあと心から思っています。皆さんありがとうございました。
・同学年の人の企画ということもあり、古典が今までで一番身近に感じました。私は特に深い理由もなく否定派でしたが、今回のシンポジウムで意見が本当に変わりました。完璧な肯定派ではないにせよ、古典に対する心情が変わります。是非多くの人に見て欲しいです。とても楽しかったです、ありがとうございました。
・最後の、長谷川さんの素敵なメッセージが印象的だった。
・大人たちがちょっと不甲斐ない印象でした。古典は本当に必要かどうか、というよりも必要だと思ってる大人と必要だと思ってない大人がそれぞれ固定観念に立っていて建設的でなかったように感じました。主催者の皆さん、お疲れさまでした。ありがとうございました。
・トラブルもありましたが、この時期の高校生の取り組みとしては上出来だったと思います。肯定否定の次の段階に進み、自分たちにとっての古典を学ぶこととは何かを考えてほしいと思いました。肯定否定や文理選択、大学入試をこえた学びを目指してください。
・大変意義深いシンポジウムであった。高校生がこれほど問題意識を明確に持っていることに驚かされた。むしろ順番を逆にして、長谷川さんの企画意義→否定・肯定派それぞれの議論→最後に大人の側が意見や疑問を出す形でも、充分に議論が盛り上がったのではないか。それほど充実した内容だった。肯定否定どちらの問題意識も観点も、今回でほぼ出そろったと言えるように思う。次は、この高校生たちの議論を受け、高校の教員の方々による、高校で古典をどう扱うべきかシンポをぜひ聞いてみたいと思った。企画・運営の皆さま、仲島先生、本当にありがとうございました。
・終了時の長谷川さんや仲島先生のお話をうかがい、このシンポジウムにこめられた思い、熱量を知って、改めて心が揺さぶられました。自分に何ができるか、引き続き考えてまいりたいと存じます。本当にありがとうございました。
・高校生の熱意と真摯さと問題意識の深さに感銘を受けました。
・このようなシンポジウムを企画されたICU高校の皆さんに、心から敬意を表します。お疲れさまでした。
・こうした活動に制限のある最中でのシンポジウムの主催、本当にお疲れさまでした。正直に申し上げれば、否定派・肯定派の先生方のお話よりも、高校生の皆さんの議論の方に引き込まれました(^∀^;「本当に必要か」というセンセーショナルなタイトルですが、「古典教育をどう進化させるか」を考える機会になりました。こうした取り組みを高校生の皆さんがしてくださったことが、これから国語の教員を目指す人々へのカンフルにもなると思います。
・ためになる時間になりました。古典について見直す機会になり、自分の糧になったシンポジウムになり良かったです。
・とても挑戦的な取り組みだったと思います。まずはそのことに敬意を表します。粗い部分はあったものの、それはこれからの課題として持っておくといつか道は開かれます。私はTwitterでいつもワチャワチャ言っていますが、Chris君と出会い、あれこれやり取りをしたことが一つのモチベーションになっていたなら幸いかな、と思います。この場を提供してくださった仲島先生、生徒の皆さんに心からの感謝を。私の感想はTwitterであれこれつぶやいていますので、お時間あるときにご覧いただければありがたいです。
・大変面白い企画でした。先生方も生徒の皆さんも大変だったと思います。本当にありがとうございました。古典授業については、実践者として大変反省しています。また、生徒の皆さんが主役であるにも関わらず、大人が大人の聞きたいことを大人に聞いて皆さんが置いてけぼりになっていたり、皆さんの声を奪っていてしまったのではないかと危惧しています。異議を唱えることができず申し訳ありませんでした。生徒の皆さんにうかがいたかったのは、「日本人としての誇り」や「ナショナリズムへの危惧」を、古典学習を通じて実感されるものなのでしょうか。これらは古典教育を論じる際によく言われることなのですが、なおも有効なものなのか疑問を抱いています。古典学習を通じて、「日本人だよねー」、「日本って良いよね」、「古典がよりどころになるなあ」と感じたり、「やべー、ナショナリズムに加担している/させられている」みたいに実感するものなのでしょうか? グローバル社会に生きる皆さんにとって、古典はまだそこまで有効なものなのでしょうか? また、現代の社会やその中で教育を受ける皆さんにとって、アイデンティティーは確立されているものでしょうか? むしろ何が良いのかよくわからないまま進んでいるという感じはないでしょうか? そして、良さそうなものにコミットしてはそれが無効化され、別の良さそうなものにコミットしてはまた...というように、次から次へと転じることが緩やかに強制され、アイデンティティーの確立が難しいのかと思っています。その中で。古典は有効な装置だと生徒の皆さんは実感としてありますか? ぜひ感想を教えてほしいです。よろしくお願いします。本当に貴重な会に参加させていただき、ありがとうございました。
・コロナ禍の中、準備に大変なご苦労をされたと思います。最後の生徒さんのことばが、いちばんの「生の声」だったと受けとめました。古典教育の是非を、授業の質を無視して議論するのは無理があるという今日の結論は、まったくその通りだと思います。受験用古典はおおむね否定的なように思われましたが、逆に肯定派の先生方の考える古典の意義を実感させる授業ができたとしたら、その是非はどうなるのか。しかしそのような授業の質的保障が難しいとしたら......、など考えるきっかけをいただきました。ありがとうございました。
・途中から参加させていただいたのですが、私自身の古典に対する考え方を確固たるものにしていただきました。今までは私が好きだから、とぼんやりしたところもありましたが、客観的に見て必要だと思えるようになりました。また、何より、最後の長谷川さんの言葉は、一人の授業者として重く受け止めました。次回はぜひ多くの先生方を誘って参加したいと思います。開催してくださったことに感謝申し上げます。
・大変面白かったです。お疲れさまでした。
・仲島先生はじめ協力者の皆さんのおかげで高校生の学びの一端を知ることができました。私は中学校勤めなので、目の前の子どもたちに高校につなぐため何を伝えるべきか再考するきっかけをもらい、感謝しております。ありがとうございました。
・高校生のパネラーの皆さんは、議論後に意見の変容はあったのでしょうか? それが知りたいです。聴衆の判定よりも、ディベート当事者の意見変容の方が実は重要なのではないでしょうか? また、論点を整理してからシンポジウムを始めた点は高く評価しますが、否定派の論点が「意義がない」というものではなく「選択でよい」という立場であったのに、そのことを取り上げなかったのは残念でした。今回の議論で、「限られた学習時間の中で古典学習に時間を割く必要があるとすれば、どのような学びを保障すべきなのか」ということであるということが見えてきたと思います。議論を踏まえて、以下の2点が古典を学ぶ必要性の中で最も重要な点であると思いました。
古典の内容を知ることでアイデンティティーを培うこと
古典語のリテラシーを身に着けることで、法律文の解釈や過去の記録にアクセスできる力を身に着ける教育を受けることが市民としての権利であること
古典に興味関心を喚起するような授業づくりに高校教員が努力すべきという意見で着地しましたが、それは高校の教員として真摯に受け止めねばならないと感じながらも、新学習指導要領の「言語文化」や「古典探究」ではすでにそういう理念に基づいた授業づくりをするように設計されているので、そうした事実も知ったうえで考えを深めてほしかったと感じています。(学習指導要領の改訂に先行して、内容に興味をもてるような授業づくりに取り組まれている教員は、案外多くいると個人的には感じているので、そんな結論で終わったことが残念でなりません)。上記の2点を踏まえれば、古典語のリテラシーの有無によって、将来の政治的格差を生む可能性があることの指摘もありましたが、そういった「必要性」をどのように高校生に理解させていくのか、ということも考える必要があると感じました。
・今回のシンポジウムを企画、開催していただき、ありがとうございます。私は研究室で実験補助をしている者で、文系のこのような場は初めてでした。とても有意義な時間でした。否定派にもさまざまな意見があっておもしろかったです。高校パネリストたちの言葉遣いが気になりました。(理系のディスカッションではないので的外れかもしれませんが......)「〜だと思う」など言っていたので...これは良くないと......「〜である」にした方がいいかと......。
・企画をしてくださった長谷川さん。自分がしっかりとしていて、思ったことについて行動をする。これはとても大事でなかなか簡単にできる事ではありません。高校生でこのシンポジウムを企画するなんて本当にすごいと思います。大学のオーキャンの話、古典への熱意が伝わりました。このまま突っ走ってほしいです。どうか変わらずに...素晴らしい人材...?逸材と言った方がいいのか...う〜ん......。
・私は○○大学大学院で○○先生のもとで勉強している者です。文学部日本文学科というのは外部からどうしても低く見られがちで、○○先生の授業でも「古典は本当に必要なのか」という問いを考えたことがあったのですが、否定派からの意見もわかるし、どうしようもないことなのではないかと思考放棄をしていたので、鋭い視線で真剣に考えてくださっている高校生がいることに感銘を受けました。
学部時代、大学のオープンキャンパスで学科の説明を担当したり、高校生の質問に答えたりしていまして、その時は、「○○大学の日本文学科は少人数クラスが多く、演習という授業を通し、自分の考えを発表することができるようになる。そして、必修の卒業論文執筆を通し、他人に自分の意見が伝わる文章を書く能力が身に付く。これらは社会に出てからも役に立つものだ」とアピールしてきました。しかし、これは本学の特性であって「古典を学ぶ意義は何か」に対して根本的には答えていません。
実際、見学に来る高校生や親御さんの反応で、古典を学ぶことにピンときていないような顔をしている人が多く見られました。
閉会での長谷川さんの挨拶を聞き、耳が痛かったです。学部を卒業し、院生としてより深く研究する立場にありながら思考停止に陥っていて恥ずかしいです。この度の議論を通して、今一度自分が古典を学ぶ意義、それが社会にとって有用であるのかを考え直し、勉強に励みたいと思います。
自分が高校生のときも、(統計を取ったことはありませんが)周りの反応として、古典が好きな人は少なかったですし、文系を選択した人でも受験のために機械的にやっている人が多かったと思います。古典の内容の面白さを伝えたからといって、万人が古典に興味を持ち好きになるとは思いませんし、絶対に好きになってほしいとも思いませんけれども、それでも古典を踏まえた現代に通ずる考え方を勉強することは必要だと考えます。高校までの教育で、文章読解の答えを提示されてきましたが、大学に入ってから、活字に起こされていないくずし字の原文・資料を読み、先行研究の解釈が正しいのか検討する勉強の方が私は楽しく感じました。現代語訳で内容を知るだけでも足りる人もいるかもしれませんが、やはり発信していく人を育てていかなければ、古典は途絶えてしまいます。現行の国語教育に問題があるというお話は何度も出ましたが、機会を提供するという視点から、とりあえずは必修で扱うべきです。
長々と自分語りのようになってしまいすみません。勉強になると同時に楽しい時間を過ごさせていただきました。答えがないからこそ考え続けていかなければならないと思います。大変な状況の中準備を進めた高校生の皆さまを本当に尊敬いたします。ありがとうございました。
・有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。生徒の活躍が微笑ましく、また頭が下がります。立派な生徒さんたちですね。仲島先生をはじめ、貴校の先生方の日ごろの指導のたまものと思います。高校とか大学は、生徒や学生の顔色をみて教科を選別するものではないと思います。いろんな議論がありますが、古典を外す必要はないと思います。改めまして、本当にありがとうございました。
・このような素晴らしい場を用意してくださったこと、本当にありがとうございました。仲島先生がおっしゃっていた、高校の先生での第三弾、ぜひ開催していただきたく思います。
・高校生のディベートについて、ディベートというのは、論理の強さを競うものであり、合意形成に向かって、賛成否定両方の考え方を深く議論する場になりにくいのではと感じた。感想戦の方が実のある議論に聞こえた。前半のディスカッションでは、「高校教育における意義」を見落としている主張が多いと感じた。いまだに古典そのものの意義について自論を展開する段階ではないと思う。また、古典で論理的思考を学べるか否かがなぜ高校教育における意義というテーマのもと議論されるのかわからなかった。また、主張の根拠の客観性が薄いなど、議論の姿勢やクオリティーにも問題がある。パネリストの方々はよく論題を理解してほしいと感じてしまった。高校教育はすべて論理的思考を学ぶものだという前提があったのでしょうか。今回は前回の反省を踏まえて開催されたとうかがっている。現在の高校教育に問題があり、見直すべきだという今回の結論を次回に生かしてほしい。高校生の皆さん、主催者の皆さんがこのように教育を見直す機会を設けたくださったことは非常に素晴らしいと思う。
・ありがとうございます。想像以上でした。大成功だったと思います。
1)先生方とのディスカッションにおいて、猿倉先生に「根拠は自分とfacebook友達」と言わせたのは、「必修・選択を議論しない」という当初からの方針と相まって、今回の方向性を決定づけたと思います。
2)ディベートの作戦タイムで議論のまとめをしていた司会の方々の実力はかなりのものだと思いました。
3)ディベートで否定派が、「限られた時間で少しだけやっても意味がない」と主張しているのは興味深かったです。今後の高校古典では、時間が限られているからこそ、自分で古典に分け入ることができる力が必要だと考えさせられました。
4)高校の古典の内容に問題があることは、拙著でも述べたのですが、いちばん反応が薄い部分でした。今回も、この点に関して高校の先生からの反応の薄さは少々残念でした。仲島先生のおっしゃる通り、次は高校の先生が引きついでくだされば良いのですが。
5)最後の長谷川さんの作文には、私もハッとさせられました。アンケートにそのような意味があったとは思いつきませんでした。
いろいろと考えさせられました。改めて、本当にありがとうございました。
・まず、第一回のシンポジウムを受け、さらなる対話の場を設けようと準備を進められた関係者のご尽力に心から敬意を表します。古典の価値はあると言いつつも、その実「古典教育」の体たらくに不満がたまっての問題提起であったのでしょうし、そこに効果的な手を打てずにいた古典業界もまたその鬱憤のやり場に困っていたところであったからこそこの企画が衆目を集めたのだと思っています。その意味で「合意形成」にはまだまだ道半ばであると思いますし、さらなる対話が必要だと感じています。特に「高校国語教育」に携わる教員としての発言が十分にできなかったことは申し訳なく思っておりますし、その意味でますます議論を積み重ねていく必要性も痛感しております。ぜひまたの機会を得たいと思いますし、非力ながらその一端を担うことができればとも思っております。今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
・長い間お疲れさまでした!! すごく白熱した討論でした。どちらも主張に筋が通っていてとても納得できたので、最後の「どちらですか?」の問いにはすごく苦しみました(笑)
・皆さん理解と頭の回転が速く、次々と話が展開されていくのでついて行くのに必死でした(笑)
・限られた時間の中、自分の主張を相手に伝えることは大変だったと思いますが、少しでも多くのことを相手に伝えようとする姿に圧倒されました。ディベートが終了した後、生徒さん同士で讃え合う姿も印象的で、心にくるものがありました。そしてなにより、皆さんの古典が大好きな気持ちがこちらにも痛いほど伝わってきました。長くなりましたが、今回このような形で私もプロジェクトに参加できたこと、本当にうれしく思っています。とても有意義な時間を過ごす事ができました。これからも「こてほんプロジェクト」がいろいろなかたちで活動できますように。応援しています! ありがとうございました。
・有意義なシンポジウムであったと思う。大変な状況下にもかかわらず開催されたことに、運営に携わった方々へ深く感謝したい。その上で、今回のシンポジウムの企画意図に疑問が残った。最後の企画趣旨の説明で、本企画が高校生の問題意識から出発したものであることを初めて知った。できればシンポジウム前にそのことを知りたかった。インターネットを前面に活用した企画であるのだから、それを事前に公表することができただろう。演出として最後に持ってきたのかもしれないが、学術的なシンポジウムとしては不誠実にも感じる。
また、これは前回の企画から疑問だが、奇をてらったかのようなポスターや冒頭の動画など、意図を図りかねるものがあり、この企画自体に懐疑的な印象を抱いている。問題意識はとても重要なものであり、パネリストも一流の方々をそろえ、また運営側の熱意も疑うべくもない。それなのに、あたかも何か茶化してでもいるかのような演出手法には、戸惑いを感じざるを得ない。
「古典は本当に必要なのか」というタイトルそのものがこれまでのシンポジウムと比して異質であり、異色の企画であることは承知しているが、必要以上に異質性を煽る必要はないのではないか。特に参加前は、企画に対して不真面目さを感じており(実際の運営の方々が真剣であったことは理解している)、少なくとも私にとっては疑問に思う演出であったことをお伝えしたい。
むろん、私の感じ方が狭量であるのは承知している。そのような固定観念を打ち崩す意図があるのかもしれない。その説明がほしいと思っている。
・生徒の皆さん、仲島先生、貴重な機会に参加させていただきありがとうございました。議論の中で、肯定派のいうことは理想論で全国で等しくクオリティーが担保できないのではないか、という指摘は極めてクリティカルだったと思います。古典学習の理論はいまだ途上で、これは「国語科教育学」の人間が議論すべき論点でもあるはずですが、これについての興味は極めて低調な状況です。その意味で肯定派の生徒さんが最後の総括で、大学の国文学部に対して感じた危機意識を私も同様にもっています(これは学会に対してですが)。そして、生徒の皆さんが主体となってこのような会を成功されたことを心から驚嘆するとともに、学会の学者たちは何をやってるんだろうという憤りも湧いてきました(ずっと湧いておりますが)。いずれにせよ、今回いただいた機会をバトンとして受け取って、具体的な形にしたいと思っています。ありがとうございました。
・*福田先生の「古典の論理」、近藤先生の「概念的メタファー」の話題が、今回最も興味深かった。前田先生が「それは価値観だ」とおっしゃったように、これを論理と見るか、価値観と見るかが、肯定派否定派を分ける特に大きな分岐点であり、議論しがいがある部分のように思った。また、仮にそれがいわゆる論理学的論理と並立する固有の論理と認められるとして、その手の論理を全員が身につけるべきかも、意見が分かれそうだと感じた。個人的には、授業でやるかに関して言うならば、経験としてやるべきであると思う。
・*歴史で学べるリテラシーと古典で学べるリテラシーの違いとして、渡部先生が「現在との関わりで学べる」ということを挙げられたのは、よくわからなかった。歴史はそれがなぜ当てはまらないのか、あの場の説明だけだとあまり理解できない。
・*ポリティカルコレクトネスについては、フロアの○○さんがチャットに投稿していた通り、否定派の根拠としてはそろそろ棄却したい。授業で重要な問題として取り上げるのと、世の中で是として野放しにしておくのとではわけが違う。
・*否定派の生徒牧野さんの、「そもそも過去を洗いざらい教えられてなんかない。教育されることは選ばれている。」という発言は示唆的で、高校生にしてそういった視点をお持ちであることに感服した。肯定派否定派問わず、教育に携わる人間は自覚しておくべきだと感じた。
・*猿倉先生の意見の根拠がことごとく「私の周り(理系)」であることが、(有意性の保証がない、追跡調査をすべきというご本人の自覚はありつつも)他者理解をどれくらい重視しているかの表れなのではと感じてしまった。
・*前回のシンポジウムの大きな課題の一つが、肯定派否定派がきちんと対話できていなかったこと、互いに応答しあえていなかったことだと思う。それを踏まえると、今回「古典は不必要、という考えは古典の価値からしてそもそも論外だ」という主張を前面に出す議論、またそのようなパネリストの選択が適切だったかどうか疑問である。価値がわからないのは論外、ということを主義主張として持っているのは自由だとしても、今回は前回における肯定派の「価値がわからないのは愚かだ」というスタンスを克服し、否定派にわかってもらえない原因を詳らかにしわかるように説明しようとする対話が期待されていたのではないか。正直、渡部先生のご発言から見える姿勢は前回とあまり変わっていないように思え、残念だった。また、ツベタナ先生も前回を踏まえて今回求められている対話の在り方を理解されていないように思え、ただご自身の主義主張を開陳しているように見えてしまった。
・*以上2点に関連するが、その点生徒さんのディベート後の感想戦は非常に理想的な対話の在り方であるように思った。できればパネリストの先生方にも、あの感想戦のような議論の形態で自由に話していただく場を設けても良かったかなと思う。「その応答は私の問いに正対していないですよ」「我々の立場のこの点の主張に関してはどう思うのですか、違うと思いますか」と直に言える柔軟性がある議論の場があれば、もっと建設的な議論の摺り合わせができていくように思う。
・*事前資料の前提(論じるテーマ、言葉の定義など)がディベート限定のものか、シンポ全体のものか、いささか紛らわしかった。一部と二部の位置づけと前提の違いについて、最初に言っていただけるとありがたかった。
・*大学入試との関わりについても話題に挙がったように、リニアな軸で子どもたちの学びを俯瞰し考えていく必要もあるように思う。その点で、義務教育でどこまでやるのか、やるべきなのかも、どこかで視野に入れてほしいなと思った。
・とても楽しく、知的な興奮に満ちた時間でした。そして、こちらの姿勢をただしてくれる得がたい経験でした。このような場を創り上げるためには、どれだけの準備と努力が必要だったかと思い、心から感服しています。中心になった生徒さんたちが高校3年生であること、新型コロナウィルス感染症の影響で学修にもさまざまな影響が出ていることを思うと、本当に頭が下がります。何よりも、生徒さんたちが自らの問題意識に対して、真摯に向き合い、たくさんの困難を乗り越えて誠実に考え抜かれてきたこと、それを実際に形にして発信されたことが本当に素晴らしいです。私が高校生の時には、とてもできませんでした。また、生徒さんたちの思いを真摯に受けとめ、ご多忙の中で誠実にサポートされた仲島先生にも、本当に頭が下がります。古語でいえば、ただしく「恥ずかし」です。シンポジウム参加者は、私も含めて、問題を自分のことと受けとめ、考えようと思っている人が多いのではないでしょうか。皆さんの発信が、他者の背中を押し、外に向かって開かせようとしているのだと思います。このようなことは、なかなか達成されるものではありません。皆さんのご努力の賜物です。このような場に参加できたことを、心から感謝します。ありがとうございました。
・今回はこのようなシンポジウムを企画していただき、また古典教育に関する研究を行っている大学生という立場で参加させていただくことができ、とても有意義で刺激的な時間を過ごすことができました。ありがとうございます。否定派の皆さんへの、質問です。
・①否定派の皆さんは、ツベタナ先生が強く訴えておられましたが現状の古典教育を変えて、現状の古典教育の課題をクリアできたとしても古典は必要がない、または望む人が学べばいいという立場なのでしょうか?
私は、否定派の皆さんがいっていたような社会的ニーズなどを基に教育をしていくなら古典に限らず現在行われている学習のほとんどを否定することになると感じました。(今回は「古典は必要か」というテーマであるということはわかっていますが......)
・②私は古典には、日本のアイデンティティーを学ぶだけではなく、読み手が自分自身の考え方とはどのようなものかを知るという点もあると考えています。これからの社会で生きていく生徒たちには必要な時間、学びの一つであると思っています。否定派の皆さんは、このような学習の在り方であっても必要はないとお考えでしょうか?
肯定派の皆さんへの質問です。
・①具体的にこれからの古典教育はどのようにあるべきだと考えますか?
私も現状の古典教育では否定されてもおかしくないものになってしまっていると思います。古典が必要か、不必要かの議論だけでなく、古典教育をどのように変えていくのが望ましいのかという議論ももっとお聞きしたいと今回のシンポジウムを終えて思いました。
最後の生徒さんのお話は、教員を目指している身、これからの古典教育の在り方を研究している身として、とても心を打たれるものでした。そして、パネリストの先生方の意見に対して質問する姿や、進行やディベートをしている姿はとてもすごいと思いました。お疲れさまでした! 第三回のこてほんのシンポジウムが開催されることがあれば、参加させていただきたいと思います。今回は本当にありがとうございました。
・まず、企画から運営まで本当にお疲れさまでした。非常に有意義な時間を過ごさせていただきました。先生方のお話からは、改めて私自身の勉強不足を痛感いたしました。また、ディベートを見させていただき、一教員として、今後の教育を変えていかなければならない、という責任を感じました。そして、今回は「古典」がテーマでしたが、おそらく「現代文」に対して意義を見いだせずにいる生徒もいるのではないかと感じました。経験も知識もない私ですが、できることから取り組んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。
・Twitterの方で感想や意見などを述べさせていただきます。さまざまなパネリストの意見を聞くことができて良かったです。ありがとうございました。
・私は現在、大学で古典を教えているが、高校時代は古典が大嫌いであった。源氏物語や伊勢物語などの恋物語にまったく興味が持てず、古典文法だけが面白かった(その規則性や現代語とのつながりなど)。大学に入学し、目が覚めるような面白い授業に出会い、方向転換した。だから、高校の古典の授業が嫌いという生徒の気持ちはわかるつもりである。いかに教えるか、何を教えるか、が本当に重要だと思う。現在の非日常の生活において、ふと古典の文句が浮かぶことがある。卒業式が中止になり、人とのつながりも途切れ、知人が命を落とす。満開の桜を見て、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と口ずさまずにはいられなかった。詩人でない私は、自身の気持ちをうまく表現できないが、それを古典の中に見いだした。高校生の時に学んだ漢詩が、こんな時に顔を出す。これは漢文であるが、しかし日本に深く根付いた教養でもある。古典は、ずっと先に、何かの時に、心の支えになる。だからこそ、高校で触れておいていただきたいと心から願う。
・長谷川さんの思いから、ここまでのイベントにこぎ着けるまでの高校生たちの行動力、それを支えた先生方のご努力がすばらしいと思います。どうもありがとうございました。とりわけ、作品中の差別などの問題について、それを直視してこそ、今の問題にも向き合えるという議論が出てきたことに感動しました。明星のシンポでもフロアから少し申しましたが、(猿倉先生たちの想定する)日本の産業競争力や生産性向上を牽引するような大学進学する5割強ではなくそれ以外の層、また(最近は大学でも多くなってきましたが)両親またはいずれかから引きついだ異なる文化的背景をもつ生徒たちにとっての古典教育の意味とはどのようなものなのかということが気になっています。それでも、言語や価値観・考え方の違いを通じてイマ・ココが絶対ではないことを知るのはどんな人生を送る子たちにとっても必要なことでしょう。今日の福田さんのご意見のように、古典が異なる思考回路や価値観に触れる機会となればと思います。今日のまとめとして述べられていたように、明治以来の国学の影響を揺曳し「カノン」を疑うことなく称揚する現在の国語教育は、今日のような徹底した議論を通して(しかし自民党や日本会議のようなナショナリズムへ利用の野望は排除して)、改めて再編し、意義やおもしろさが生徒にも伝わる教科にしていく必要を感じました。
・教科書教材の内容についても論じる必要があると思った。「古典」を学ぶことと、教科書教材の古典を学ぶことはイコールではないので。個人的には、古典を学ぶ必要があると考えているが、教科書の古典(平安時代の文学作品や、古代中国の漢詩文)は、なぜその教材を取り扱うのか、その教材でどのような能力を身につけられるのか、曖昧だと思う。
・各問の理由部分で長々と書いてしまったため、全体を通しての感想となりますが......。高校生の方々の熱意にとにかく圧倒されました。コロナウイルスで先が見えない中、ここまでのシンポジウムを企画し運営されたこと、本当に感動しました。ディベートでの鋭い指摘、司会の臨機応変な対応、そして企画された方の最後の言葉。大学生として「これが高校生? 年下って本当?」となったのが正直なところです。ディベートは、まだまだ話し足りないようにも見えましたので、高校生だけの第2回目のディベートなども見てみたいと感じました。ここでの学びを私自身も今後に活かしていきたいと思います。すてきなシンポジウムを企画、運営していただき本当にありがとうございました。
・前回からの地続きですが、古典教育研究の成果をないがしろにしている点は、研究者の卵としては悲しいです。ツべタナ先生含め、古典教育史の膨大な研究の成果を参照していただければ、議論の大部分がすでに検討されているものであり、焼き直しでしかないことにお気づきになると思います。本シンポジウムでも現場の先生だけでなく、古典教育研究者の意見をお聞きしたかったです。主催者の方々、ありがとうございました。
・教員を目指している自分にとって、古典の学習について深く考える良い機会となりました。ありがとうございました。
・高校に古典は必要だというのは、いわば当然だと思っていましたが、あえてそれを否定するという発想自体が斬新で面白いと思いますし、反対の立場の人と議論を重ねる中で、ハイブリットな発想が生まれていけばよいなあと漠然と考えてしまいました。また、参加した高校生の方の質問が本当に鋭くて、若い力に頼もしさを感じました。主催者の方、運営に携わった方、お疲れさまでした。
・大学で古典を学ぶ身として、最後の長谷川さんの意見は非常に身に沁みました。自分は大学受験のために古典をきちんと勉強するまで古典に苦手意識を持っていたので、古典を必修科目として学ぶという機会は重要であると思います。ですが今回の否定派の意見は高校時代理系の友人から聞いたことのあるものが多く、今一度古典を学ぶ意義を考え直す必要があると強く感じました。今回は生の高校生の意見が反映されていたため、前回と比較してより実りのあるシンポジウムとなったのではと思います。次回開催も楽しみにしております。余談ですが、初めのオープニング映像がとても格好良かったです。
・古典教育の意義について改めて考える機会をいただけて、参加できてよかったです。肯定派、否定派ともに今までの国語教育における古典授業が意義を感じさせないものであったという点で合意したのを重く受け止めました。最後の長谷川さんの訴えを今後の国語科教員養成に活かしていきたいと思います。本日は有意義なシンポジウムを企画、開催してくださりありがとうございました。
・高校生の方々がここまでのディスカッションを用意できるとは、驚きました。本当に素晴らしい時間でした。有意義な時間をありがとうございました。
・肯定派、否定派がきちんと議論できるようにファシリテートをしっかりすべきだと思った。例えば両者の想定している「論理」という概念に齟齬があるため、議論がかみ合わなかった。葛藤や矛盾条件下での議論は創発を生むという論文があるように、コンセプトは非常によいと思うのでシンポジウム全体としてファシリテートが上手くできるようにしてほしい。しかし、こういった機会は非常に学びになったのでとても良かった。また次も参加したい。
・・前田先生が触れられていたように、言葉の定義を共有することで、どのような観点・考え方からそれぞれの立場ができているかわかり、議論しやすいのではないかな、と感じました。高校生の方は、ディスカッションのために言葉を定義したうえで、とてもたくさんの視点を用意され、お考えになっていました。そこに、先生方の視点も加えさらに考えを発展させる・新たなアイデアによる合意形成のためにも、言葉の認識を共有するとよいのではないだろうか、と感じました。
・「実用的」ということに重きを置く話題が出るたびに生き急がなくても...と思いましたが、卒業後進学するか働くかによっても考え方は違うのかもしれず面白そうだなぁと思いました。また、どうしたら古典の魅力が伝わるか、どんな改革が必要だと思われるか? ぜひ高校生の視点からの考えをうかがってみたい! と思いました。思ってもみなかった視点がたくさんありとても興味深かったです、ありがとうございました! 高校生の方は、さまざま厳しい状況ではあるかと思いますが、これからのご活躍も祈っております。
・アルバイトで古典教育に携わっている者として勉強になりました。高校生が的確に質問を繰り広げる様を見てICU高校の教育に目を剥きました。
・高校生たちがそれぞれにしっかりした意見を発信していることに感銘を覚えました。ディベートという形式は、両者の差が際立つ半面で、それぞれの論点が含む多様性が切り捨てられる恐さが残るのはやむを得ない面と思われます。それが、高校生たちがディベート後に普段使いのことばで交わしていたなかで、肯定・否定双方の歩み寄る形になっていて、素敵な成り行きに、感嘆しました。高校の先生方の行き届いたご指導を感じながら、高校生たちと大学教員たちとの間でこのような交流を実現されたことは意義深いことと思っています。今日はありがとうございました。
・生徒が運営できたこと、参加者全員に細心の心配り、目配りをいただき、本当にありがとうございます。全国的に休校開けの大変な時期に元気な姿を見せてくれてありがとう。仲島先生、本当にお疲れさまでした。日ごろのご指導の賜です。
・高校の時に何気なく受けていた「古典」がこのように答弁されていることを知って驚き、この度参加させていただきました。さまざまな観点からの意見を傍聴できて大変学ぶことの多い良い時間を過ごすことができました。また、行うことがあれば是非参加させていただきたいです。本日は本当にありがとうございました。
・この時期に安易に中止ということにせずに、新たな試みとしてリモートでシンポジウムを開催したことは意義があると思います。機器の使用など慣れればもっとうまくいくと思いますし、さまざまな人との新たなやり取りも生まれるかと思います。どうもありがとうございました。
・急な仕事が入り、最後しか参加できなかったのが悔やまれるほど素晴らしい会でした。何より、貴校の生徒さんの国語への愛を感じ、頑張る力をもらいました。私自身、教授法研究に邁進していた時期からいかにアダプターになれるかが教育に携わる指針となりつつあるのでとても考えさせられました。ありがとうございました。
・改めて現状の国語の教育(制度や実態)が古典を不幸にしていることを痛感しました。内容と方法を再考してみます。
・学問に効率、コストが大切であるとおっしゃっており残念でした。学問は学びたいから学ぶものであり、必ずしも役に立つものではないと思います。また、回り道した際に得るものもあります。コストばかり気にしていたらかなりの数の学問に意味がなくなる気がします。また、古典は必要かという意見が出てきたことも残念でなりません。国に余裕がなくなってしまった現れだと思います。もし、次にシンポジウムがある場合は理系と言われる方の中での肯定派と文系の中の否定派の方の意見も聞いてみたいと思います。
・初めてシンポジウムに参加しました。パネリストの方や先生方の熱意に圧倒されました。パネリストの方々がしっかり自分の意見を持っていて、同じ高校生として良い刺激を受けました。いろいろな意見を聞けて面白かったです。最後の発起者の方のお話に胸を打たれました。このこてほんはもっといろんな人に共有されるべき問題だと思います。時間の問題もありますが、先生方のお話が途中で区切られてしまうのがもったいなかったです。貴重な機会をありがとうございました。
・企画者の古典への思い、最後のスピーチが素晴らしかったです。古典の授業をもっと魅力ある有意義なものに改革すべきです。それは、ツベタナ先生もおっしゃっていたように入試中心の現在の高校の授業の問題があると私も思います。入試にでるからと、文法中心の授業から脱却すべきです。古典も一つの文学作品として物語の主題を現代のコンテクストに照らし、解釈していくべきです。これは国際バカロレア教育のDP文学のカリキュラムの原則です。国際バカロレアのDP文学では、作品を選択するときに、時代と場所(五大陸)をまたがってバランス良く教材を選ぶこととしています。教科書はなくまるごと一冊の本を持つことがルールです。日本の古典文学も教材リストにでており、長い作品(源氏物語など)は章段の指定があります。最終課題は2時間くらいかかる論述筆記や15分の口頭試問です。原文からの引用を用いて自分なりの解釈を論理的に表現するために論理的思考が養われます。このようなパフォーマンス評価にもきちんとルーブリック評価が設定されていて、成績が出されます。この成績は世界各国の大学入学資格としてカウントされます。この採点はIB機構が雇った採点官で大学の先生や高校の先生方がトレーニングを受けてから請け負っています。日本ではセンター入試の採点が民間企業に丸投げゆえに、マルバツのわかりやすいものでと流れてしまっています。こうしたシステムの改革はすぐには難しいかもしれませんが、まずは新しい発想でIB実践にも学びながら 現場の教師が意識改革をして明日の授業を改革することは実現可能でしょう。入試対策も踏まえつつ、古典文学のもつ魅力とは何なのか、高校生も教師もワクワクする授業を作っていきたいです。
・最後に高校生がした主張に感動しました。高等学校の教員として今後どのように古典の授業を進めていくべきか、改めて考えるよい機会となりました。ありがとうございました。
・新型コロナウィルスの件で一時どうなるかと思ったが、無事開催されたことをまずはうれしく思う。他方、古典肯定派が圧倒的な環境だからこそ、ディベート以外でも少数派の意見を拾う機会はもっとあってよかったのではないかと思っている。別の自由記述にも書いたICTの件、そして外国籍生徒への配慮という視点も今後は加味してほしいと思う。ところで、私はフロア側から「古典の教養を説くとき、「無用の用」(老子)を引用する推進派がなぜ少ないのか」と尋ねた。その真意は「先人の知恵である古典の意義に関わる議論であるにもかかわらず、なぜ関連する先人の知見を引用せず、一般論のような議論を続けるのか」だったが、その場でその真意をうまく伝えられなかった点を反省している。今回の議論は古典肯定派にとっては死活問題のはずだが、自らの主張を補強するのにその古典の引用が少ないのは極めてもったいない。高校生ならばまだしも、古典の専門家も多く集う場でそうした見解も聞きたかったし、そこから話を掘り下げてほしかったと思う。
・高校生の誠実で熱意ある姿、その想いに誠実に答えようとするICUの先生方には感服いたました。パネリストの先生方も、一人一人にリスペクト持って接しておられるのを感じました。高校生という「とてもおもしろい時期の存在」からの主張はそれだけでも価値があるとは思います。しかし、それだけでは終わらない期待を感じさせてくれるシンポジウムでした。こんな言い方はふさわしくはないかも知れませんが、生徒がこの企画を主張できる環境、実際に実行できる体制は素晴らしいと思います。そんな環境で学べていることを保護者として誇りに思います。
・この状況の中、よく開催していただきました。生徒の皆さんや先生をはじめとして、開催にご尽力なさった皆さまに、称賛と尊敬と感謝の思いでいっぱいです。高校生とさまざまな立場の大人のコラボレーションが建設的なベクトルで行われる活動をどんどん実施していくべきだと考えているため、さまざまな困難を乗り越えてこのように先駆けとしてなさったことは大変意義の大きな素晴らしいことだと思います。ありがとうございました!
・私は古典が好きな高校生として参加させていただきましたが、普段はうかがえない専門家の方の話や、後半のディベートを通して今までなかった新しい視点を持つことができました。これからも高校における科目としての古典について考えを深めていきます。また、今回のシンポジウムを主体となって開催なさったのが私と同じ高校生の皆さんで、しかも学校内にとどまらせなかったということ、そして何より皆さんの意見に大変刺激を受けました。きっとICU高校はいい学校なんですね。私もがんばります! 本日はこのような場を設けていただいてありがとうございました。
・今まで教育内容を生徒が考えることは不可能であると思っていた。今もその根幹は揺るがないが、生徒の視点を参照して授業を考えていくこと、生徒視点を今後の人生とつなげて考えることは確かに必要であると思った。受験のためだけの古典を脱し、渡部先生の主張する「参加」型の古典授業を、リテラシー育成につながる授業のあり方を考えていきたい。大勢の大人の前で臆せずチャレンジをした高校生、そのチャレンジを支えた先生方、圧倒的なアウェイの中今回も参加して下さった否定派に心からの感謝を述べたい。
・高校の現場に立たれている先生方は、本当に必死で、情熱をかけて目の前の生徒さんを教育なさっておられると思います。教科書に載る教材はあくまで教材であって、それが学びのすべてではなく、自身の学ぼうとする意欲が多くのことを左右するのだということは、生徒さん側も、もっと自覚的であってもいいのかなと思いました。しかし私自身が、高等学校までの授業で習う古典を、まったくつまらないと思っている部分が多かったので、「学ぶ意味があるのか?」と考える方が多いことには、非常に共感します(古典というものの存在に感銘をうけたのは、大学生になってからでした)。子どもたちに、「現代において実用的かどうか」という次元の問題ではなく、古典は、人間として学ぶべき文化なのだということを伝えられるよう努めようと、心を新たにしました。
・日常ではまったく古典の話が出てこないのは本当でしょうか。大河ドラマが古語、方言のまま撮られているし、古典に基づいた漫画やアニメはたくさん存在します。逆に存在していることが気づかないほど日常的な存在なのではないかと思いました。そして古典は現代と違うからこそ面白いのではないでしょうか。
・高校生の古典に対する真摯な思いと問題意識、それをシンポジウムという形で外に開いて問いかける行動力と実現力、心から感動しました。このような意義のあるシンポを企画・運営されたICU高校生の皆さん、仲島先生はじめサポートされた先生方、熱意あふれるパネリストの先生方、するどい質問をしてくださった参加者の皆さん、すべてに感謝申し上げます。オープンキャンパスで国文科・日本文学科の学生たちの応答に衝撃を受けたという長谷川さんのお話、ショックでした。学生たちの答えは日本文学を学ぶ意義について日頃から語っていない大学教員の姿を反映していると思います...。古典を学ぶ意義について、もっと学生たちと語り合っていこうという思いを新たにしました。得がたい場をありがとうございました。
・まず、このような場を設けてくださった関係者、名前を公表し責任を持って発言してくださったパネリスト、討論を行った高校生の方々に心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。私は高校の時に古文の面白さ(日本語的な美しさや、世界観)に惹かれ、大学で古典文学を専攻し、教員(非常勤一年目)になりました。このため、古文を高校で読む客観的な必要性をうまく説明できずにいました。今回のシンポジウムで、そのヒントをいただけたように思います。そして、今後自分の中でうまく咀嚼し、しっかりとした信念をもって生徒の前に立ちたいと思います。ありがとうございました。
・次回は「肯定派とも否定派ともどちらとも言えない派」も交えて、肯定派・否定派のディベートを踏まえた上でどっち側につきたいかを決めるのも面白そうだと思いました。
・現状での「古典の授業」が生徒にとってつまらないものになっている、という意見が肯定派・否定派双方から出されたことは教員として重く受け止めるべきと考えます。古文で取り上げられる教材の時代に偏りがあることなど、構造的に見過ごされてきた問題を否定派は丁寧に指摘していました。とても好感がもてました。「古典」はややもすると「授業のための授業」(教員が一方的に知識を伝達するだけでなんとなくなりたった感がでる授業)になりがちです。大学入試で課されている科目は、どれも点数を取ることが目的となりがちです。テクニックに走り、そのために授業がつまらなくなるという指摘も十分にわかります。一方、真剣に取り組むことで、その教科の楽しさを知ることができる、という利点もあると思います。受験間際の高校3年生で、「古典を必修に」という数字が増えていたのも、このことが一因にあるように思います(結局、高校1年生の入り口でつまらない、と思わせてしまい、その後のモチベーションを形成できないことが大きな問題だと思います)。新学習指導要領では「言語文化」というくくりで、より「文化」としての古典の側面が強調されます。今までの延長ではなく、国語の中で「古典」を教えることの意味を、我々現場の教員が今一度考える必要がある、と感じました。最後になりますが、高校生の皆さんがこのようなシンポジウムを企画・運営されたことに驚きを覚えるとともに、感謝いたします。
・最後に少しだけ話にあがっていましたが、もし第三弾があれば学校現場の先生方が中心のシンポジウムを聴講いたしたいと感じました。
・私は大学で日本文学を専攻し、その後WEB制作会社で働いています。
・古典を仕事にはしていませんが、現在も研究をライフワークにしています。今回のシンポジウムはTwiterで知り、オンライン開催ということで仕事の傍ら、遠方からでも参加することができました。内容については、大変興味深く拝聴しました。皆さんディベートも進行も大変に素晴らしく感動しました。私は肯定派ですが、否定派の方の舌鋒には目を瞠るものがありました。皆さん本当に紳士的に議論、合意形成を行っており、安心して拝見できました。特に、最後の長谷川さんの言葉には本当に感動しました。国語教育は変わらなければならないと思います。このような機会をありがとうございます。そして自分も声をあげていきたいと思います。最後になりますが、本当にお疲れさまでした。
・今回、肯定派にお二人の先生が加わったことで、また違った展開になったかと思います。とても貴重な時間でした。ありがとうございました。今回このような状況で、オンラインで慣れないこともあったかと思いましたが、高校生の皆さんが本当に素晴らしかったです。次は高校教師で......という流れになっていましたが、私たち大学生でも議論したいと思いました。いろいろな立場の人がシンポジウムを行うことで新たな面が見えてくると思いました。最後に前田先生に質問したいのですが、芸術はリテラシーがあってこそ、文学は芸術に含まれるという考え方、文学も芸術にも失礼なのではと思います。その点について、もう少しご意見をいただければ良かったと思いました。
・私は大学の文学部日本文学科に所属する4年生で、肯定派として参加していました。先生方や生徒さんたちの議論を拝聴しながら、高校生は性急に「社会の役に立つ」ことを偏重させていると感じました。ですが、最後に今回のシンポジウムの企画立案の意図として、生徒さんからオープンキャンパスでのお話をうかがった際に、はっとしました。高校時代にニュースで大学改革として文学部廃止の話があるということを知ったときの自分の切実な不安を思い出したからです。これから選ぼうとする日本文学科という進路の意義を公に認められないかもしれないと衝撃でした。まる3年の大学生活を経て、私は「周りがなんと言っていても自分のやりたいことをやればいい」というスタンスになっていました。入学直後くらいは日本文学科の授業の中で、古典を学ぶ意義を確認する話が何回か出ていたのですが、その後は世間からの意見に対して傲慢になっていたのかもしれません。世論やその影響にさらされる高校生に対しては不誠実なことでした。とても意義のある素晴らしいシンポジウムでした。楽しかったです。
・事務局の先生の事前準備、校務を抱えながら大変だったと思います。敬服します。
・大変見応え・聞き応えのあるシンポジウムでした。ありがとうございました。準備に携わった皆さま、大変お疲れさまでした。一番はっとさせられたのは、否定派の「古典には差別表現が含まれるため差別を助長する」という指摘です。これは実は考えたことがありませんでしたが、確かに、古典が持つ一側面だと思いました。だからこそ、「なぜそのような表現が含まれるのか」も含めて先生が解説したり、クラスのメンバーで話し合いをしたりする授業という場が重要になるのだと思います。ナショナリズムへの利用についても同様ですね。もう一つ印象的だったのが、「古典の授業を受けたことで文化的アイデンティティーが育った人はいるか」という問いかけ。正直に言って、おそらくそんな人はほぼいないでしょう(笑)。なぜなら、高校までの授業はいろんなことの種まき(基礎を知る)という面が大きく、古典の授業を受けたらすぐアイデンティティーが育つというわけではない。人によっては芽を出さない種で終わることももちろんあるでしょう。一方で、おもしろいことに、ものすごい時間差で芽吹きが始まるケースがあることもまた然りです。これが、大人にとっての「学び直し」です。私は現在、Eテレ「100分de名著」というテレビ番組の副読本(テキスト)作りに携わっているのですが、このテキストは大変よく売れています。「学校で少しだけかじったあの古典、もう一度ちゃんと読んでみたい」という大人が非常にたくさんいるのです(私もばっちりその一人です)。個人的に好きで読みたい人もいれば、ビジネスで外国人と付き合う上で教養として知っておきたいという人もいます。古典に限らず、「大人のための世界史」とか「もう一度知りたい日本史」のような本が山のように出版されていることからも、大人の学び直し欲が大変強いことがわかります。そのとき、まったくの初見で学ぶより、「学校で習ったけど忘れたしまったアレをもう一度...」の方がいかに学びやすいことか。自分自身もひしひしと実感していることですが、学校を卒業しても学びは終わらないのですね。いま、あんなに苦手だった数学を学び直したいとすら思っています(笑)。今回のシンポジウムをきっかけに、高校生、先生方、大学の先生方などの声がさらに集まって、高校の古典の授業がよりよいものになっていくことを心より願っております。かつてICU高校で学んだ私は今回の問いかけをしっかりと受け止めながら、自分の仕事の場で、高校では古典が嫌いだったけど改めて読んでみたいな、と思った皆さまが、より深く楽しく古典と出会い直せるような本を用意できるよう、力を尽くしていきたいと思います。ありがとうございました。
・まずは、企画を立ててくださった長谷川さんをはじめとする高校生の皆さん、ICU高校の仲島先生をはじめとする先生方に、心より御礼申し上げます。こんなおもしろいシンポジウム、参加したことありませんでした。ICU高校が、主体的にものを考える生徒の皆さんを尊重する、素晴らしい教育をなさっていることに感動しました。否定派、肯定派の先生方の議論は、今日もやはりところどころかみ合ってませんでしたが(特に論理・論理的な思考とは? という質問に対する肯定派の先生方の答えは、否定派の先生方の「論理」的な説明とは雲泥の差があったように思います。私は肯定派ですが、聞いていて、論点がずれている(ずらしている?)、それは「論理」ではなく真理を表現する「方法」の説明では? などと疑問に思うことがありました。でも、明星大のときのシンポよりもはるかに議論になっていて、それは高校生の皆さんの整理や前提の示し方がよかったからだと思います。最後に、わたしは文学部国文学専攻で古典を教える教員ですが、企画してくださった長谷川さんの最後のスピーチに襟を正されました。好きな人がやればいい、という意識しか専攻学生にさえ養えていないようでは本当にいけないと思います。古典を学ぶことが現代社会を多面的に見ることにつながるような、また深い人間理解につながるような学びをできるような場にしなくてはいけない、と心から思いました。素晴らしい企画を本当にありがとうございました。
・実用性を考える上で、論理性が果たして公教育を受けるすべての子どもにどれだけ必要なのかを考えました。人間は最初から論理的じゃないからこそ、論理を学ぶ必要はあります。でも、完全に論理的でなければならない訳でもないと考えます。教育現場で働き始めた身として、論理的に説明するだけじゃわからない、伝わらない子供に出会い、そういった子に例えばアナロジーのような非論理的な説明をすると理解できるというようなことを体験しています。こうした、非論理的だけど認知を促すものの性質を仮に「情緒的」と呼ぶならば、情緒的な認知の仕組みを学ぶことが実用的な場面もあるはずです。そして、日本社会において支配的な、情緒的認知の仕組みが古典の中にあるとしたら、それを学ぶ意義もあるのではないか、というのが現時点での考えです。これは、高校生が何度か述べている「相対化」という言葉につながると思っています。ただ、古典を相対化する学びを高校までの学びの中で実現するのは、現状では非常に難しいことであり、それをすべての高校生に求めるのは、大変無理があることだと思います。それから希望を言えば、肯定派の先生方には、是非とも現状の大学入試に代わる評価の方法を、具体的に提案していただきたいなと思います。高校生の熱意に、そしてその議論のレベルの高さに、大きな刺激を貰いました。企画に携わってくださった皆さま、本当にありがとうございました。
・中学国語科の教員を志す者として、大変勉強になりました。自身には学びが不十分であることを高校生の方々からもパネリストの先生方からも痛感させられました。これから日々精進させていただきます。この度は大変貴重な機会をありがとうございました。さらなる議論の深まりを祈っています。
・日本人は議論ができないと言われますが、見方によっては高校生の皆さんの方が先生方より建設的な議論をしていたかも知れません。私は昨年、自身の大学内だけですが、読書会と称して古典を学ぶ意義について議論をしました。そのとき形成された共通了解は、ハイカルチャーとロウカルチャーを分け隔てることなく、あらゆる文学を学校教育で扱いたいね、というようなものでした。機会があれば皆さまと対話したいものです。まったく関係ありませんが、ICTを使いこなしている姿、専門家とのコラボレーション、まさにこれからの教育のモデルでした。勉強になります。
・まず企画した高校生たちにお礼を言います。ありがとう。ここまで準備して、発信するのは本当に大変だったろうと思います。その熱意は十分に伝わりました。お疲れさま。今度は、仲島先生が最後におっしゃっていたように、これを受けて教員や研究者たちが動き出さなければ結局何も変わっていかないでしょう。自分に何ができるか、改めて考えていこうと思います。