第二回 あなたが読まなきゃ意味が無い。●【連載】窓の外から―なぜ日本古典文学なのか(梅田 径)

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第二回 あなたが読まなきゃ意味が無い。

梅田 径

▶︎NHK Eテレの〈正しい日本語〉

 さっきNHK「Eテレ(教育番組)」をぼんやり眺めていたら、ごく簡単な日本語を教える子供向けの番組をやっていた。報道記者に扮したお笑い芸人がいかにもポンコツ風な人型ロボットと開発者の博士に取材に訪れ、そのロボットがいかに優れたものであるか――つまり人間と同じようなことができるのかを――を示そうとして、道端でおばあちゃんを助けたエピソードを話しはじめた。

 ロボットは「道端で困っているおばあちゃんがいました。だけど、私は荷物をもってあげました」という。記者と博士は「?」を頭にうかべつつ「だから、でしょ」と訂正を要求する。でもロボットは再び「だけど、荷物を持ってあげました」と繰り返す。結局、ロボットは「だから」を言わず、煙を吐いて壊れてしまうのでした。

 番組の意図としては、ポンコツのロボットには、人間が使う「だから」と「だけど」の違いがわからなかったといいたかったのだろう。でも、それだったらロボットはすぐに「わかりました」といって誤りを認めればよかったはずだ。

 とすれば、ロボットにとって「だけど」は適切な、代替不可能な表現だったはず。「道端で困っているおばあちゃん」は紛争地域で明日をしれぬ身にさらされる少年少女に比べれば支援が必要とは言えない。それでも、自分自身の存在価値を示すためにこの老婆を助けねばならぬ、とかなんとか。とにかく、ロボットなりの使命をもって「だけど」と、決然と、はっきりと、自らの強い意思的なアルゴリズムに従っていうたのであろう。

 ロボットなりAI(深層学習)なりをクサして〈正しい日本語〉を使える人間を褒めるという構図は、平成時代のテンプレすぎて2020年代にどうなんだというキモチもないではない。が、この「だから」と「だけど」という日本語ネイティブではおよそ間違えるとは考えにくい接続詞の相違が、ロボットと人間の違いとして表象されることへの興味は尽きない。

▶︎コンピューターと人間の〈文脈〉

 さて、私たちは機械学習(深層学習)が理解できるような方法で言語を理解することができない。コンピューターで言語を扱う領域を自然言語処理(Natural Language Processing:NLP)と言うけれど、これはけっこう長い歴史があるわりに、最近まで全然うまくいかなかった。ちょっと前までの「グーグル翻訳」だって、ほとんど意味不明なポエムそのものだった。技術の進展で日英翻訳や電話応対など、ある程度のことができるようになって、AIが作った小説が、賞の選考を通過したというニュースに沸いたのもつい最近のことであったように記憶する。ただ、そこで行われている言語生成のプロセスや、その言語の適正さの測り方は、およそ人間の言語活動とはかけ離れたものだということには何度でも注意しておく必要がある。深層学習の用語で人間の言語活動を評価するのは危険極まりないし、たぶん言い訳としても上質なものにはなるまい。

 とはいえ、もともと短歌や俳句をコンピューターで生成させることは深層学習ブームが本格化する前からあった。佐々木あららさんが制作した短歌自動生成装置「星野しずる」など、当時はけっこう話題になったことを覚えている。今でも、星野しずるの不器用で冷たい語感の短歌を楽しむことができる。

 文章を作り出すことは文を理解することに比べて実はそれほど難しくない。難しくない、というよりも、文章を作るにあたって必要な作法(文法、語順、拍数)をそろえることは、文章を理解するための文脈を把握することよりも自由度が高くてやりやすい、といった方がいいかもしれない。

 ここ数年、コンピューター(特に深層学習による自然言語処理)と人間との関わりについて、文学研究者のコミュニティ―(ようするに学会)では、「文脈」、次点で「評価」をめぐって議論されることが多くあった。中にはAI全般、あるいは深層学習について極めて初歩的な誤解や評価関数・損失関数といった用語をよく知らないまま使っているのではないかというケースもあったけれど、まあそういうのは誰にでもあることだろう。

 文学研究者の界隈でなされたNPLについての議論は多岐にわたるのだけれど、「コンピューターは特定の文脈に依存していることに対する反省をもてない」(だから学習させるデータで層実装によっては、めちゃくちゃ差別的な発言を連発したりする)、「複数の文脈を同時に読むことができない」(だからどれも正解であるような選択問題の中からためらいなく受験用に最適な選択肢を選ぶことができる)、「小説や詩のような多様な解釈を要求する作品の関係概念や観点別(ジェンダー、脱構築、評価)の分析ができない」(そりゃそうだ)といった事柄が焦点とされてきた。とはいえ、いずれも一般的に使われる言語能力とはかけ離れた言語機能であるから、表だって問題とされたことは少ないように思う。

 逆にいうと、会話とか応答とか、あるいは文書の作成とかクレームの処理と違って、人間の言語活動は意味よりも文脈が優勢に、あるいは文脈も無視して意味が限界まで曖昧になってしまうことがある。老夫婦の親密さを示す「あれとってあれ」(訳:醤油がほしい)は文脈がなければ意味がないし、文脈があっても文としては普通に意味不明だ。だから「はい」(といって塩を渡す)といったすれ違いも普通に起きる。文脈なるものは客観的に存在しているわけではなく、ごく個人的な読みの中にある。

 その個人差は大きい。西尾維新の小説を「セクハラの温床」と見る人もいるだろうし「言語遊戯の極地」と読む人もいる。私たちは自分たちに固有の、解釈用の文脈を持っているのだけれど、コンピューターにとって――というより「一般的な言語機能」なるものが必要な状況にとって――そんな個人差はないほうがよいというわけである。

▶︎学校の外の〈読解〉

 ぼくが関心をもつのは、じゃあ人間はどうしてそこまでバラバラな感覚(文脈)をもっているのに「正解」が必要なのかって話だ。え、そもそも正解とかあるの? って疑問もあるかと思うが、ここでいう「正解」は極めて単純に学校で○をもらえる答えぐらいの意味で使っておきたい。一つは単純な話、人を選別するため。選抜されてしかるべき、成績のいい人は学校によく順応している(「らしい」というべきか、「はずだ」というべきか)。国語教育について多数著作を著している石原千秋氏は、大学受験で「国語」が問うのは、読解力や言語感覚や語彙・文法についての知識であると同じぐらい、学校なる場所にあるべき「倫理・道徳」なのだと喝破した(『秘伝 中学入試国語読解法 』(新潮選書、1999)その他を参照)。古文の場合は注釈の読み方とか、和歌の下の句だとか、ほぼ生涯で使うことのない文法事項の丸暗記だと思われている節があるのだけれど、現代文と同じぐらい受験の倫理に忠実な問題がでる............というより、学校の倫理が許さないような訳の分からない作品とか、暴力的な作品とか、ものすごくecchifulな作品は黙殺されることになっている。このような倫理の是非は普通議論にのぼらない。これからものぼることはないだろう。人間を選別する受験のための読解力とは、誤読をしないとか、適切に表現できる、と同じぐらいに学校の倫理を理解しているかどうかを指すのだ。

 それじゃあ受験をしない人は関係ないの? うん、まったく、完璧に関係ない。関係ないから、「学校のお勉強」は、少なくない人たちに無駄だと思われている。とくに古文。次に数学。あとは生物とか音楽とか体育とかも巻き添えを食らっているようだ。学校内の倫理なる概念に浸された〈読解〉は学校の外にでたらほとんど意味をなくしてしまう。

 会社に必要なのは「書類」であって理解ではない。理解が必要な場合もあるけれど、それは少なくないケースで「分析」とセットだ。コンピューターは理解しなくても書類を作れるので、たぶんこれからたくさんの書類がコンピューターによって生成されるだろう。実際、退職届とかセクハラの訴状など、下書き程度の文面は自動生成で製作できるようになってきている。

 分析もコンピューターの得意とするところとなっている。アマゾンレビューを大量に分析して多くの人が好きそうな感覚を分析するとか、病院や医院の名前や評価から何科をあてるとか、Twitterを分析してキャラクターの人気を可視化するとか、クレーマーからの電話をBOTが応答するとか。そういった「分析」やそれをモトにつくられた「対応」には一人一人がもつ個別の文脈が入り込む余地なんてほとんどない。分析する側の人はむしろそうした「文脈」を見えるような形に整理しているのだ、とすら言うかも知れない。

 でもまだ、学校の外には人間特有の個別的な文脈が必要な世界も少なからずある。日記、手紙、音楽の歌詞。極言すれば人付き合いは全部そうだ。いまだ先行する「学習データ」が存在しないまだ名付けられていない創作や芸術にだって、そのとっかかりには自身の「文脈」をぶつけるしかない。あるいは意味が確定できないけれど、なんとなく「わかる」ふわっとした表現もまだまだ人間の手助けを待っている。

 教科書にもよく取られる谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」は火星人のことを想像して「ネリリ」・「キルル」・「ハララ」している姿を想像するけれど、そんな行為はない。ない、というか、火星人をしらないので今作り出した適当な表現にすぎない。でも、これをコンピューターで分析し、もっとも可能性が高い行為群をプロットし、予測される火星人像の姿と動作をシミュレートして丁寧に解説してもらえたとしてなんか意味あるだろうか。まったくない。まったくもって、ネリリもキルルもハララもあなたが「絶対に間違っているはずの解釈」を施さなければ意味を持たない言葉なのだ。正解もなければ道徳もない。入り込みようがない。ここを「問題」にする人はセンスがゼロなのか血が通ってない。学校の窓の外には、正解も不正解もなく、あなたをただ待つだけの表現が無数にある。

 だらだら書いたけど、ここで言いたいことはただ一つ。「あなたが読まなきゃ意味が無い。」だ。そりゃそうだ。でも、ある種の人たちは「誰が読んでも変わらない」とか「誰が読もうと関係ない」とか「そもそも読まなくていい」とか考えている。そもそも「読む」という行為を分析するとか理解するとか、そういう事だと思っている人もいる。

 でも「あなた」にいつかコンピューターが入る日がくるだろうか。人間以外の存在が「読む」ことをみる日は来るだろうか。そういうことには興味があるけど、いまはまだ、この問いかけは横に置いておこう。

 未だ読まれていない膨大な古文の中にも、あなたが発見されることを待っている「何か」がある。正解も倫理も無関係な場所で、謎めいた謎を持ったまま眠っている。次回はそういうものについてちょっと書いてみようかな、と思って今日のところは筆を置くのであった。

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