第一回 窓の外から●【連載】窓の外から―なぜ日本古典文学なのか(梅田 径)

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第一回 窓の外から

梅田 径

▶︎学生から窓の外を奪うことはできない

 クラスで教えていると必ず一人は窓の外を見ている学生がいる。
 
 四角い教室の真正面にたって、必死にわけの分からないことーー書誌文献学とか、古典文法とか英語とか遺伝子とか微積分とかだーーを話している教師のことを忘れたかのように、窓から差し込む明るい光をぼんやりと眺めている。教師はその姿を見て深く傷つく。

 ああ、自分だって本当はそっち側の席に座って、このわけの分からないことを教えてくれる人から教わりたい............とかなんとか思ったり、自分もそうやって窓の外見てたなーとか、こっち見て話を聞かないなら適当に怒っておくか、とかなんとか思いながら。教師は学生から窓の外を奪うことはできないのだ。

 窓の外には勉強や教師の顔から逃避する空想がある。その空想の前に学校の勉強なんてなんの魅力ももたない石ころみたいなものなのだろう。
 教師は石である。窓の外には出られない。ただ、命がけの飛躍を行っているのだ............という矜持をすべての教員が持っているとは限るまい。古典文学を教える石ころたちは、その窓の外におびえてこんなことを言ってしまう。

「ま、古典なんて勉強しても意味ないんですけどね。」

 このクラスには窓がある。

 窓の外にある我らが日本社会において、窓の内側にあるクラスは教育なる社会システムの一翼を担うことになっている。
 教育を受けた人類はマジカルな力によって人格が陶冶され深い教養が得られ専門的知識が身につき無限の体力を手に入れられ礼儀作法・有職故実・社会常識など様々な知識技能が身につき、社会なるものを動かし企業なるものを稼がせ経済なるものを回すそうだ。ところがその教育なるものの実体は実社会での稼業とはほとんど無縁なことがらで成り立っていると確信している人たちもたくさんいて、なんらかの影響力を行使したくてうずうずしている。
 実社会と政策、教育産業とその内実の間には、いろいろな思惑や憎悪が膨れ上がり、クラスの窓はそうした思惑と憎悪から、学生たちの内面を守る最後の薄皮なのかもしれない。
 
▶︎なぜ日本古典文学なのか

 古典と文学は遅ればせながら、ようやく教育をめぐる最前線に送り込まれ、いま大きく自分たちの存在意義を問い直すように「上」から言われているといったところだろう。

 日本古典文学。

 これで飯を食っているステークホルダーは別にいい。でも問題は学生たちだ。
 
 彼らはみないつか窓の外に出なければならない。一日も早く窓の外に出たい、と思う者も少なくない。私たちは古典文学を通じて、窓の外へと羽ばたく彼らに何を伝えているのだろう。民族の誇り? 美しき我が国の言語文化の継承と創造? それとも意味のない〈受験用〉の1科目? たしかにいずれも一定の説得力があるように思うけれども、それらには薄ら寒い白々しさが浮かんではいないか。ラブクラフトやカキフライや、コトラーでニーチェや聖書ではなくなぜ日本古典文学なのか。

 いや、この古典文学の時間こそが、他の文化学より優れた、特別にクラスの中で学ぶに値するのだ、と、上記の理由をもって自信満々に語ることができるだろうか。僕には無理だ。

 けれども、これはシリアスな問題なのだった。ひょんなことから僕は書籍執筆の原稿依頼を受け、自らの蛮勇を奮い立てて、この白々しさと戦うことに決めた。
 そして、古典文学を受容史の点から擁護してみよう、といったコンセプトの本を書き始めることにしたのである。

▶︎受容史という戦術

 古典文学は最初から魅力的なものではない。近代において魅力的に作られ、その魅力が滅びつつある。だったら、それをまた構築してあげればいい。それが古典文学を学ぶ積極的な理由へと繋がっていくかもしれないし、CLASSICの枠組みで選択された古典籍の巨大なリソースを再利用するきっかけにもなるだろう。

 そのキーワードの一つに「受容」がある。800年前に書かれた本は成立当時の文脈を越えて、変容し動態となって現代になおその姿を現している。文学の象徴的な価値は未だに完全に無効化されてはいない。
 古典文学を細やかで断続的な文脈の連続体として捉え直し、動態文化論的な視座から、いまを生きる我々の文化・情報環境に接続してみることで、日々の光景、大量消費されるポップカルチャー、科学技術とのつきあい方を変え、学校という世界から解放された、日常の輝かしさを取り戻す契機にしてみよう。
 そういう戦術をとることにしてみた。

▶︎窓の外から、〈若い読者〉へ

 この戦術は〈若い読者〉に向けて構想されている。窓の外から、窓の内側へ向けての投瓶のつもりで書いている。研究者のほうも、学校の先生のほうも、あらゆるステークホルダーのほうを向かないで書くことに決めている。

 したがって、本書からは文学そのものの美とか真実とか、そういうものは全部門前払いと相成った。だから受験参考書にもならないだろうし、古典嫌いの生徒たちへの虎の巻にもならないだろう。数少ない古典文学のファンたちも大いに失望させる自信がある。
 ああ、日本古典文学を大事にしないなんて、日本はなんて落ちぶれてしまったのか。民族の誇りを思い出せ! そういう人たちにはしっかりしろと言いたい。窓の外を見ろ。

 ............とはいえ、早速執筆は難航しきっており、執筆者(僕のことだ)は疲弊しきっている。コロナ禍で図書館の利用や情報検索がうまくいかないのもあるけれど、〈若い読者〉なるものの姿が具体的に思いうかばないし、ともすれば受験参考書や一般向け新書のようなものを書いてしまいそうになる。

 クラスの窓の外に何を見ていただろうか。見ていたのはびっしりと編戸に張り付いた巨大な虫の群れだ。昼間の学校に通った人は見たことがないだろう。蒸し暑い7月の夜学には、クラスの外に暗闇以外なにもなかった。

 一面の闇から、片手大の虫がクラスの光を求めて集まってくる様は、いまでは教育に群がろうとする人々の姿にも重なって滑稽にも思える。僕が示そうというのは、それでも夜の暗闇はなにもないことを意味していなかったし、クラスの外に出れば眩ゆい光がある。そのためには窓の外へと歩み出さなければならない。そのためにあなたを無意味と嘲るものたちと戦うための術と、それから勇気についてのことなのだ。

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