エドアルド・ジェルリーニ「投企する文学遺産 ―有形と無形を再考して」●荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』より公開

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間もなく刊行する、荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』より、エドアルド・ジェルリーニ Column「投企する文学遺産 ―有形と無形を再考して」を公開いたします。ぜひお読み頂ければと思います。

なおこちらの論考は、
https://arca.unive.it/handle/10278/3730753
でも公開しています。

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ご予約受付中●2020.10月刊行
文学通信
荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)
ISBN978-4-909658-39-5 C0095
A5判・並製・872頁
定価:本体8,000円(税別)


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投企する文学遺産―有形と無形を再考して

エドアルド・ジェルリーニ(Edoardo Gerlini)

一、古典性という「価値」

 前近代の文化を研究する学者の間では、近年、「古典の危機」という問題が頻繁に論じられるようになった。「古典」、つまり「すぐれた著述や作品で、過去の長い年月にわたって多くの人々の模範となり、また愛好されてきたもの」(日本国語大辞典)は現在の人々に愛されなくなり、その価値と美しさがわからなくなったというのは通常の解釈であろう。しかし実際のところ、一般社会における過去の文化への関心が薄まったとは言い切ることはできない。逆に、フィクションやファンタジーなど、学問の視点からすれば許しがたい歪んだ形ではあるかもしれないが、過去の物語、人物、出来事、つまり過去の文化は、映画、テレビ、漫画などの新しいメディアを通じて、ますます大勢の人々の注目を集めているのは明らかである。『平家物語』や『源氏物語』のような文学作品でも、大衆化した古典として、ドラマ化、漫画化され、原作よりも多くの読者と視聴者を集める形に生まれ変わっている。

 「古典」という概念の重要性も、一般社会において軽視されている訳でもない。新しい元号「令和」をめぐる決断と論争から分かるように、古典が持っている権威は政治的な言説とイデオロギーを支えるための道具として利用され、乱用され、とにかく新しい象徴的な意味と役割を託されるケースが多い。

 いわゆる「古典の危機」は、社会における過去や伝統の危機というよりも、学問の権威の危機に過ぎないものではないだろうか。古典とは何か、古典にはどのような意味があるのか、古典をどのように読むべきか、どのように使うべきか、といった質問に答えられるのは古典の専門家だけであるという確信が、社会からだんだん消えてしまっただけかもしれない。学問の権威が衰えるのと平行して、古典は日常生活には役立たない知識だと軽蔑され、学校の科目や大学の研究分野としてのその意義が軽視されるようになる。これこそ「古典の危機」の原因であろう。

 実は、古典学と現代社会の対立は、必ずしも最近の問題ではなく、ある程度「古典」という概念自体に最初から内在していたのだと考えられる。先行研究が指摘するように、「古典」や「classics」などの単語は、確かに現代に生まれたものではあるが、過去の知識を記録したテクストを評価し、拠り所にし、つまり古典として見做す傾向は、前近代においてしばしば見出せる現象である。特に、社会が大きく変容していこうとする時代に、消えそうな文化と知識をどう保護するべきかが問われた結果、古典というものの再発見と再創造が何度も繰り返される。中国の漢代では五経と儒学、欧州ルネサンスでは古代ローマと古代ギリシャの美術と古典主義、江戸中期では万葉集と国学など、過去の作品に至上の知恵と知識を認めていた人たちは、その作品を参考にしながら現在の問題への答えを求めていたのである。時代と場所によって「古典」の概念と形は異なっていても、過去を現在に意識的に活躍させる、つまり投企するプロセスは「古典」という現象の主な共通点だと考えられる。

 「投企する古典性」と題する研究プロジェクトから生まれた本書は、古典の根本的な素質を熟考する課題を提供する。しかしそもそも「古典性」とは何か。「古典」と「古典性」はどう違うのか。そもそも、日本国語大辞典には「古典性」という見出し語はないが、その英語直訳に当たるはずの「classicity」も主な英語辞典には載っておらず、それに近い「classicism」という語しかない。不思議なことに、イタリア語やフランス語の辞典では「classicism」と「classicisme」と別の意味で、「classicità」と「classicité」という見出し語がある。イタリア語辞典(Treccani 2020)に記載されている「classicità(古典性)」はイタリア語辞典(Treccani 2020)における「古典性」は「古典的性格」(carattere classico)、古典的精神(spirito classico)、あるいは古代ギリシャとローマの「古典的時代」(età classica)、古典世界のすべての文学と芸術であると解説している。では、日本語でいう古典性は、どのニュアンスがあるのか。前近代に日本で作られたあらゆる作品なのか。前近代文化そのものなのか。あるいは、把握しにくい「古典的な考え」を意味するのか。古典を古典と為す性格、性質、個性なのか。

 周知の通り、古典文学や古典美術は、古典として生まれるものではなく、後代の文化的エリートなどによって編集され、正統化される複雑な社会的プロセスの所産、つまり作られたモノであるとされている(日本文学の場合は、ハルオ・シラネ、鈴木登美共編『創造された古典:カノン形成・国民国家・日本文学』〔新曜社、一九九九年〕を参考)。では、古典性も作られたもの、そもそも存在しないものとして認識すべきなのだろうか。非本質主義的な立場から考えると、天才作家によって絶対的な価値のある傑作に具現される「古典のエッセンス」というようなものは存在しないと、はっきり否定しなければならない。しかしそれでも、古典性という用語は、各時代の各社会によってそれぞれの作品に与えられた「価値」として捉えなおすことができるだろう。そうすると、古典性に富んだ作品は、長い間、多くの人々によって「古典」として見做された作品であるという解釈ができよう。例えば、平安末期から注釈書や歌論の対象となり、その後も高く評価されつづけた『源氏物語』は、日本文学史の中でおそらく最も高い「古典性」を持っている作品であると言える。それに対して、芸能として伝承され、現代になってから初めて「古典文学」として認められた『平家物語』は、「古典性」がより浅い、などと考えられるかもしれない。

 多様な意味を与えることができる「古典性」だが、本稿では、人の教養のために必要とされ、美と徳の基準と見做された過去の作品の「価値」として考えておきたい。

二、文化遺産から文学遺産へ

 さて、古典性がどのように現代に「投企」され、どのように大衆において視覚化されるかという問いは、幅広く、学際的なアプローチを促す刺激的なテーマである。そこで、「古典性」を「価値」として捉えなおすのであれば、近年盛んに発展している文化遺産をめぐる研究、いわゆる遺産研究(heritage studies)との学際的な考察が特に有意義である。遺産研究の前衛ともいえる批判的遺産研究(critical heritage studies)が打ち出した再定義によると、遺産は、内在的かつ普遍的な価値を持つモノではなく、過去の文化的所産に社会的な価値を与えるプロセスとして捉えなおすべきである。ここでまず注目したいのは、この遺産の価値作りというプロセスは、古典作品のカノン化過程に近似することである。近年の遺産研究によって、遺産は「文化的過程」や「現在を理解するための言説的構造」(Smith 2006)、一つの「文化的政策」(Logan et al. 2016: 1)、「過去と現在の関係から生み出される、未来に対する熟考」(Harrison 2013: 228)、「付加価値を与えるメタ文化的過程」(Sánchez-Carretero 2013: 387)など、様々に定義されてきた。そして、「遺産は個人と集団が特定の社会の中にそれぞれの社会的位置と「場」を交渉するプロセスである」 ▶注1(Smith & Waterton 2009: 293)ので、共同体におけるアイデンティティーと共通記憶の構築に深く関わっているプロセスだと力説されている。

 二〇〇三年にユネスコによって発行された『無形文化遺産の保護に関する条約』の影響で、世界の文化遺産は有形(建物、遺跡、景色、街並みなど)と無形(ダンス、演劇、祭典、技術、料理など)という新たなカテゴリーに分類されるようになった。しかし、社会的な営為に焦点を置いた批判的遺産研究の学者たちは、すべての遺産は「無形」であると強調する(Smith 2006)。

 例えば、教会やお寺などの有形文化遺産の場合でも、その社会的な認識がなければ「遺産」として見なされることもなく、次の世代のために保護される価値も認められない。つまり、モノと人の間に形成される無形的な関係こそが、遺産という価値であるという。このように無形の優先性を認める学者にとっては、博物館に展示されている展示品のような具体的なモノですら、無形的な思想と営為の単なる「具現化」(embodiments)として捉え直すべきであり(Bredekamp 2006: 7‌9、Akagawa 2016)、全ての遺産は「無形」というカテゴリーを通じて解釈せねばならぬものだと指摘されている(Munjeri 2004)。

 しかしながら、遺産をめぐる複雑ながら刺激的な論考には、文学と文学研究は未だ登場していない。そこで本稿は、「古典の危機」を念頭に置きながら、古典文学と文学研究を遺産研究の討論の中に投企することを試みる。それにより、古典に付加される「価値」の作り方を理解し、現在における古典の役割についての考察に新しい意識を与えられると期待する。

 まずは、古典、古典性、文学などの用語を遺産研究の枠組に再定義してみよう。文学の先行研究では「文学遺産」(英語ではliterary heritage)という語句が散見するが、これは遺産研究の新しい定義などを意識している言い方ではない。つまり文学研究も、遺産研究も、「文学遺産」とは何かと、未だはっきり定義していない。

 ではここで、遺産研究を参考にしながら、文学遺産の定義を仮に提案してみよう。批判的遺産研究の視点から考えてみると、遺産はモノではなく、社会的かつ文化的営為であるのと同様に、文学遺産も、文学作品そのものではなく、むしろその作品をめぐる様々な社会的過程であると主張すべきだろう。つまり文学遺産は、全ての遺産と同じように、「無形」であると考えなければならない。したがって、有形的に存在している文学作品は、文学遺産という無形的な営為の具現(embodiment)に他ならない。

 さて、このように再定義された文学遺産は、文学研究にとってどのようなメリットがあるだろうか。そもそも、文学(literature)は、「芸術作品。また、それを作り出すこと」(日本国語大辞典)という二つの意味があり、つまり文学作品と、それらを「書く」、生産するという営為と、両方を指す言葉である。「モノ」と「プラクティス」、つまり有形と無形の両面が、常用される文学の概念にはすでに共存しているのではないか。文学のこの両面を熟考し、テクスト分析だけではなく、歴史的背景をより広い目で検討しようとする先行研究は当然少なくない。例えば、『「文」の環境』や『「文」と人々』を副題とする河野貴美子等共編『日本「文」学史』第一・二冊(勉誠出版)は、その最近の例であろう。しかしやはり、多くの文学研究、特に日本で行われる古典研究では、テクストの有形的な面にもっぱら集中しがちであると言わざるを得ない。「原典」と「複製」の優劣関係という前提は、そのアプローチの姿勢の証拠となる。つまり、ある写本の価値は、失われた原本との隔たりによって付けられるもので、近ければ近いほど価値がある善本だと考えられる。これは、作品の原典には純粋で絶対的な価値があるという確信に基づいている考えであろう。当然、作品のオリジナルな形にたどり着こうとする書誌学や文献学は、作品の正確な理解に必要不可欠な知識と方法論を提供する。しかしその一方で、原典を目的とするアプローチには、作品の周りで行われる様々な社会的過程と、作品の複製などが有する意味を看過してしまう恐れがある。文学を文化遺産として捉え直し、その有形/無形の二面を合わせて考察することは、作品とテクストの中心性を相対化し、文学研究、とりわけ古典の研究のアプローチを改めるメリットがある。

 ところで、文学は有形(作品、テクスト)と無形(読み書き、知識、営為)といった性格を含む概念だといっても、それだけでは「遺産」だとは言えない。遺産は、やはり過去と現在のギャップから生まれ、未来への目線を含意する思考と言説であり、必ず通時的な意識に関わるのである。過去の文化を使ってどのような社会とアイデンティティーを作るか、後世に何を、どのように遺すべきか、という質問は、遺産を形成する問いそのものであると言ってよい。文学遺産というのは、作品を「書く・読む」だけではなく、作品の保存とカノン化に関わる書写、編集、印刷、引用、注釈、翻訳、評論などの多様な過程も含むのである。このような再創造かつ正統化のプロセス無しに、何百年前の作品が現在まで伝承されることはなく、今日そのテクストを「遺産」として受け取ることもあり得ない。

 この視点から見ると、「古典」は「遺産」の同意語にも見えてくるのである。狭義の「古典」は、前近代の作品を網羅的に指すよりも、知るべき、参考すべき限られた数の作品を意味するのである。遺産も同様に、過去の文化を網羅的に指すのではなく、特に価値のある、後世に伝えるべき、そして後世に重視される文化のことである。「古典」が「遺産」に匹敵する概念であるならば、「古典性」は、厳選された過去の作品に付加された社会的な、無形的な「価値」であると考えられる。その意味では「古典性」は、原作、例えば紫式部の『源氏物語』に染み込んでいた本来の価値ではなく、のちの写本、注釈、翻訳などの再創造によって与えられ、蓄積された価値であると考えられる。

 Michael Emmerich氏は「『源氏物語』の「原典」や、その保存と伝達の重要性という概念の創出それ自体が、中世における注釈者が果たした最も意味のあること」▶注2であり、紫式部の原文の受容よりも、のちに作られた翻訳やパロディーなどのテクストの「改替」(replacement)に注意を寄せるべきだと述べている。エメリック氏が提案する改替は「カノン化したテクストに代わる、新しく、異なるかたちの改替品が、先行する改替品に絶えず取って代わり続けることとしてのカノン化が[省略]テクストの消費者の要求にも応えてきた。それが膨大な類似作品の集合と、改替品の連鎖としての文学的カノンである」▶注3と説明する。つまりエメリック氏によるこの改替は、一つのオリジナルではなく、絶えず上書きされつづける「カノン」のことだが、この見解は、各時代に作り直される遺産という概念に当てはまるのである。例えば、ユネスコの『無形文化遺産の保護に関する条約』では「この無形文化遺産は、世代から世代へと伝承され、社会及び集団が自己の環境、自然との相互作用及び歴史に対応して絶えず再現」▶注4(UNESCO 2003, art. 2)すると定義されており、またDavid Harvey氏が述べる通り、遺産は「どの時代にでも発見され、解釈され、意味を与えられ、類別され、紹介され、保存されることがあり、そしてまた何度も何度も失われるものである」▶注5

 したがって、カノンとしての古典は、やはり一つの無形文化遺産の類であると考えられる。文学遺産は、真正性に満ちた原典そのものよりも、むしろ、のちに再創造されつづけた複製と、それらをめぐる文化的営為と言説である。

 実は、カノン化を言説として捉え直すことは、文学の研究では新しいアプローチではない。しかし、言説という論理的な枠組みを通じて、遺産と古典の生産過程を比較的に考察することが有意義である。例えば、平安の勅撰集▶注6や明治期の国文学史などにおけるカノン構築のあり方を解明しようとする文学研究は、遺産研究で論証された「権限付遺産言説」(authorized heritage discourse)(Smith 2006)、つまり専門家と権力者の権威に基づいて遺産の意味と伝達方法を決めるプロセスの論考などを参考することによって、新たな証明と、学際的な視野を得ることが期待できる。

三、有形と無形の相互投企

 上述の通り、遺産研究で論じられる無形から有形への具現化過程(embodiment)は、文学の有形・無形という二重性を再考するのに役立つが、実は逆に、文学は無形文化遺産の概念の限界を見出すのにも有効であると考えられる。従来の遺産とカノン化をめぐる研究は、文化の社会的な過程に集中しすぎたせいか、文学作品が持っている有形的な性格の働きを軽視してしまう傾向がある。

 確かに、前章で言及した通り、文学作品は「読む・書く」などの技術、知識、つまり「無形」な営為から生まれるモノ(有形)である。古典もまた、後世の人々が行う社会的営為によって作られたものとして理解できる。しかし一方、古典テクストという有形的な存在が人々の知識、嗜好、倫理、価値観などの無形な営為になんらかの影響を与えることは否定できない。つまり、テクストが持っている固まった形は、それに基づく文化的営為のあり方を左右し、制限するものであると推定したい。

 例えば、テクストを神の言葉と見做す聖教という独特な古典のケースを考えてみよう。時代が変わり、社会が新しい価値観と倫理を受け入れようとする時、聖教のテクストで結晶化された教えに忠実に従う信徒たちは、自由に自分のモラルと生活スタイルを改めることはできない。解説や釈義によって聖典の読み方を変えようとしても、固定されたテクストを無視することができず、いつまでもその形のもとでの価値観と言説に縛られ、制限されるのである。原則として翻訳が許されないコーランや、文字を一つ一つ蓮華座に載せて崇拝する『一字蓮台法華経』などのテクストの場合は、原文から離れることは一層難しいだろう。テクストの有形的な存在自体に神秘的な権威が認められるので、そのテクストに基づく儀式、習慣、祭典などの様々な無形的な営為も、不可避的にそのテクストの形に影響され、規制されるのである。

 有形が無形に与える影響は、写経という仏教の重要な修行によって代表される。写経は無形的な営為として考えられるが、既存する有形的なテクスト(経典)が必要不可欠である。そしてまた、写経という営為から新しい写本が生産されるが、それは元の経典の形を忠実に複製するだけである。つまりテクストは、一度作られて、そのまま存続するモノだけではなく、何度も同じ形で作り直されるモノでもある。有形的なテクストは、無形的なプラクティスの不可欠な対象であり、目的である。

 この無形/有形の相互的な関係は、言語と辞書を考えるとさらに明瞭である。ユネスコの条約の中でも、言語は無形文化遺産の一類だとされているが、言語という無形文化の重要な具現としては、辞書という有形的なモノを挙げることができる。社会の中で新しい言葉が生まれ、表現の意味が変われば、辞書の固定された「形」も変わる。しかし逆に、日常に使われている言語を正しい「形」にするために、辞書が参考にされるので、有形の辞書は、無形の言語の形を定め、その変更の可能性を抑え、制限するのである。このように、言語→テクスト→言語という螺旋は、無形→有形→無形の交代の繰り返しに匹敵し、相互的な制限、抑制プロセスが発生するのである。ちなみに、辞書に載っている用例の中では、古典文学からの引用が特に重視されていることを考えれば、現代(語)と古典(語)の関係はやはり無形・有形という関係の内に位置付けることができる。

 古典テクストが無形文化に与える影響については、芸能と文学の関係が興味深い。二〇〇八年からユネスコ無形文化遺産として登録されている能楽は、芸能(無形)でありながら、文学のジャンル(有形)としても意識され、伝承されている。ほとんどの能楽の舞台は、固定化されたテクスト、つまり謡本を上演する文化的営為であり、脚本に登場する人物が舞台で演じる役者に身体化(これもまた英語ではembodimentという)されると言えよう。つまり、固定された有形的なテクストは、何百年にもわたって何回も演技という無形的な営為に具現化される。これは、録音か録画を再生するような機械的なプロセスではなく、役者の創造的な貢献が重要で、同じ演目でも、細かいところではやはり、役者によって異なるところがある。つまり有形(謡本)なモノが無形(上演)になり、変わりつづけるのである。

 しかし逆に、舞台で蓄積した役者の生の経験は、謡本というテクストに具現化される過程もある。謡本は、それぞれの曲の詞章を記し、それに節付けを示す譜を傍記したものであるが、各流の大夫たちは、前代の大夫が残した謡本を参考にしながら、新しい謡本を作成する習慣がある。これは、古典化されたテクスト(脚本、詞章)に新しいテクスト(節付けの指示)を追加するもの、つまり古典の注釈書のような、テクストの再創造の一例として考えられる。謡本も、能楽の面と同様に、代々伝承されながら、新しく作り直されるモノであり、能楽という芸能における無形と有形の関係を表現する。そして逆に、謡本という有形なテクストは、能楽の現在と将来のあり方を規則し、その変更と進化を制限するのである。ちなみに、先ほど辞書について述べたと同じように、多くの能楽の脚本は『源氏物語』などの古典文学を典拠にしていることを考えると、能楽もまた古典文学の再創造、あるいはエメリック氏が述べる「改替」(Emmerich 2013: 92)として考えることもできる。

 以上の例から再考すると、無形と有形の関係は、必ずしも一方通行で展開するものではなく、相互関係であると分かる。これは当然、文学のみならず、美術や建築などの有形文化遺産についても同様のことである。しかし文学は、言葉を通じて「話す」文化的所産であり、固定した形をとった言説であるので、「有形」の能力を理解するには一層ふさわしい資料であろう。読者の読み方によって、テクストの意味と解釈が大きく変わることがあっても、やはりそのテクストが含む元の意味と価値観と言説などを完全に無視し、勝手な読み方を作ることは難しい。

四、現代を相対化する文学遺産

 遺産と古典は、単なるモノ(作品)ではなく、より複雑な文化的現象であり、それを理解するために「無形」という概念が特に有効であると提案した。文学遺産は、読み、書き、編集、書写、注釈、引用などの無形的な営為を通じて、過去の文学作品を保存し、正統化し、意味付け、共同体の共通記憶に投企するプロセスであると再定義できる。また、このプロセスから生み出される文学作品は、のちの言語などの無形的な営為に大きな影響を与えるのである。つまり、無形と有形の関係は、相互的なプロジェクション(投企)の螺旋というパターンで考えるべきであると主張したい。そして、有形文化遺産として捉え直した文学作品は、文化遺産の概念を問題化し、発展させる底力があると言える。

 投企する古典性というテーマは、無形に傾いている遺産研究と、有形に傾いている文学研究を融合させるのに有効である。古典(有形)ではなく、「古典性」(無形)を対象にした本プロジェクトは、このような学際的な試みを促すメリットがある。また、古典性を現代や大衆という対象に投企することは、前近代に発生した出来事だけではなく、現在、古典の研究に新たな役割と価値を付加する可能性も開く。前田雅之(二〇一八)やサルバトール・セッティス(二〇〇六)が提案する通り、現在における古典の重要な働きは、我々が当たり前だと思い込んでいる現代的価値観を相対化させることである。古典性を現代に投企することは、過去の素晴らしい作品を鑑賞することにとどまらず、古典テクストの背景にある価値観を現代にプロジェクトする意味もある。そこで、過去と現在をつなげる遺産は、「投企」という多様な過程を理解するのに役立ち、これからの古典をめぐる論考のみならず、二一世紀の人文学にますます影響を与える学術的なアプローチであると期待できる。 

 学際的な研究の成果によって発展しつづける「遺産」という概念は、文化的アイデンティティーと歴史的意識、共通記憶と感情、世界の代表文化の編集、あるいは未来に対する義務感など、政治的、倫理的な諸問題にもつながり、文学と古典を含めて、現在における人文学の役割についての考察を促すのである。


1 «heritage is a process through which individuals and collectives negotiate their social position and 'place' within particular societies» (Smith & Waterton 2009: 293)(筆者訳)
2 «the invention of the idea of "the original text" of Genji monogatari and of the importance of its preservation and transmission was itself the medieval commentators' most significant accomplishment» (Emmerich 2013: 10)。
3 «This is what I mean, first of all, by "replacing" a text: canonization as the continual replacement of canonical texts by new, different versions of themselves that answer to the needs not only of authoritative institutions intent on preserving and propagating their own values and ideologies, but also of their consumers; the literary canon as an enormous gallery of look-alikes, a string of placeholders.» (Emmerich 2013: 11)
4 «This intangible cultural heritage, transmitted from generation to generation, is constantly recreated by communities and groups in response to their environment, their interaction with nature and their history».
5 Heritage, in this sense, can be found, interpreted, given meanings, classified, presented, conserved and lost again, and again, and again within any age (Harvey 2008: 22).
6 「平安初期の漢詩集の序文における「遺産言説」に関しては、拙稿「平安朝文人における過去と現在の意識 漢詩集序をテクスト遺産言説の一例として」(第43回 国際日本文学研究集会会議録,(43),129-150 (2020-03-26) http://id.nii.ac.jp/1283/00004055/ )を参照されたい。

参考文献
Emmerich, Michael. The Tale of Genji. Translation, Canonization, and World Literature. New York: Columbia University Press, 2013.
エメリック・マイケル「テクストの改替」(翻訳:幾浦裕之)、(レベッカ・クレメンツ、新美哲彦編『源氏物語の近世 俗語訳・翻案・絵入本でよむ古典』勉誠出版、二〇一八年)。
Harrison, Rodney, Heritage ― Critical Approaches, , London: Taylor & Francis, 2013.
Harvey, David. "The History of Heritage". Brian Graham, Peter Howard (eds.), The Ashgate Research Companion to Heritage and Identity. Aldershot: Ashgate, 2008.
前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信、二〇一八年)。
河野貴美子、デーネーケ・ウィーブケ等編『日本「文」学史』(三冊、勉誠出版、二〇一五─一九年)。
Munjeri, Dawson, "Tangible and Intangible Heritage: from difference to convergence", in Museum International, no. 221-222 (vol. 56, no. 1-2, 2004).
Sánchez-Carretero, Cristina, "Significance and social value of Cultural Heritage: Analyzing the fractures of Heritage". In Rogerio-Candelera, Miguel Ángel et al. (eds), Science and Technology for the Conservation of Cultural Heritage, London: Taylor & Francis, 2013.
シラネ・ハルオ、鈴木登美編『創造された古典:カノン形成・国民国家・日本文学』(新曜社、一九九九年)。
サルヴァトーレ・セッティス『〈古典的なるもの〉の未来:明⽇の世界の形を描くために』 (⾜達薫訳・解説、東京:ありな書房、二〇一二年〔原作:Settis, Salvatore. 2004. Futuro del classico. Torino: Einaudi.〕)。
Smith, Laurajane, Uses of Heritage, Routledge, 2006.
Smith, Laurajane & Waterton, Emma, "'The envy of the world?' Intangible heritage in England", in Laurajane Smith & Natsuko Akagawa (eds), Intangible Heritage, Routledge: London & New York, 2009.
Treccani 2020, Vocabolario Online della Lingua Italiana, http://www.treccani.it/vocabolario/
UNESCO (2002) First Preliminary Draft of An International Convention for the Safeguarding of the Intangible Cultural Heritage. Document CLT‐2002/CONF.203/3. Available at: www. unesco.org/culture/ich/doc/src/04548-EN.doc (accessed January 10, 2020).
UNESCO (2003)「無形文化遺産の保護に関する条約」https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty159_5a.pdf
Logan et al. A companion to heritage studies William Logan, Máiréad Nic Craith and Ullrich Kockel (eds.), Wiley Blackwell, 2016

本研究は、欧州委員会Horizon 2020 - Marie Sklodowska Curie Actionプログラム(契約番号792809)の資金による成果を含むものである。

エドアルド・ジェルリーニ(Edoardo Gerlini) 
ヴェネツィア・カフォスカリ大学アジア・アフリカ研究科「Marie Curie」フェロー、早稲田大学文学学術院訪問学者。専門は平安朝の詩歌、とりわけ平安前期から古今集まで、和漢比較、世界文学、文化遺産。著書論文にHeian Court Poetry as World Literature - From the Point of View of Early Italian Poetry (Florence: Firenze University Press, 2014)、「漢文とラテン語に対する俗語の正統化と遺産化 ─『古今集』真名序とダンテ著『俗語論』を比較して」(『WASEDA RILAS JOURNAL』第八号、二〇二〇年)、「平安朝文人における過去と現在の意識 漢詩集序をテクスト遺産言説の一例として」(第四三回 国際日本文学研究集会会議録、二〇二〇年)。