アルバイト日誌「本を消費してしまった私へ」(2020.9.25、れい)

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 先日、家にあると思っていた青い鳥文庫の本が見当たらず、そういえば捨ててしまったことに気が付いた。私は小学生の時、講談社の青い鳥文庫が好きだった。特に、あるシリーズの作品が好きで、新刊が出るたびに買ってもらった記憶がある。そんな大切なものをなぜ捨ててしまったのか今となっては不思議ではあるものの、どんなストーリーだったのか、表現だったのか、本が手元にない今でも、はっきりと思い出すことができる。それほどまでに、気に入って何度も何度も読み返していたのだと思う。

 今、もう一度自分の本棚を見返してみる。最初に目に入ったのが、母から受け継いだ「愛の若草物語」。下巻だけがそろっていなかったため、幼い頃に両親が古本屋か何かで探してきてくれた思い出の詰まった本。ページを開かなくても、自然と挿絵が思い浮かんで、初めて読んだ時の感覚が脳裏によぎった。

 その隣にある、読む機会を失って積んだままの本、最近読んだのに、内容を思い出すことができない本たち。なぜだか、ずっと前に読んだ本のことは思い出せるのに、ここ3、4年で読んだ本は断片的な記憶しかない。大人になるにつれて、物語を読み味わうのではなく、消費してしまっているのかもしれない。私はそのことに気が付いた時に、すごく残念な気持ちになってきた。大人になるとは、こういうことなのかと。

 高校生の時、興味のあった分野の講演会に行って、その研究の最先端のお話を聞いた。技術の進歩によって、人間の知ることのできる世界が、少しずつ増えていく。私は講演を聞いていて、ワクワクしてきた。私の頭の中に、自分たちの時代を大きく超えた、広くて深い世界が見えた。でも、その技術の進歩は、私たちに消費し続ける社会も与えてしまっている。小さなスマートフォンの画面上でインターネットにつなげば、湯水のように表示される情報。私は、毎日流し見たその情報の、何割を覚えていられるのだろう。私には、情報過多過ぎる。最近読んだ本一冊のことも覚えていられない。

 私は、今の情報化社会を否定するつもりはなく、むしろ毎日便利に利用させてもらっている。でも、この手のひらの小さな画面の中の混沌とした世界に、一喜一憂し、謀殺され、いつかは大切なものを失ってしまうのではないか、そんな不安とも戦っている。私の考えは、矛盾しているのかもしれない、けれども私の中には、この二つの考えが同時多発的に存在している。

 幸せなことに、ネットの情報はどこかに行ってしまうことはあっても、本は自分が捨てない限り逃げることはない。もう一度、手元にある本を読み直してみよう、そう私は思った。