和田敦彦「おわりに――あとがきにかえて」●和田敦彦『読書の歴史を問う 書物と読者の近代 改訂増補版』(文学通信)より期間限定全文公開

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和田敦彦『読書の歴史を問う 書物と読者の近代 改訂増補版』(文学通信)より、和田敦彦「おわりに あとがきにかえて」を期間限定全文公開いたします。ぜひご一読下さい。

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●本書の詳細はこちらから
文学通信
和田敦彦『読書の歴史を問う 書物と読者の近代 改訂増補版』(文学通信)
An Inquiry into The History of Reading: Readers and Print Culture in Modern Japan
ISBN978-4-909658-34-0 C0000
A5判・並製・328頁
定価:本体1,900円(税別)

本書の詳細はこちらです!
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-34-0.html
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◉おわりに あとがきにかえて

和田敦彦

 読書は、それぞれの時代、場所で同じような行為、経験としてあったわけではない。また、書物と読者の間だけでなりたつ孤立した行為でもない。この当たり前のことが、読書を学び、調べることの豊かな可能性や広がりを作り出す。ある時期や地域の読者を問うたり、あるいは書物を作り、運び、紹介したり、保存したりする行為を研究したり、学んだりすることに結びついていく。本書は、こうした読書の歴史に関わる多様な問いを調べ、考えるための実践的なマニュアルのようなものだ。だから本書では普遍的で一般的な読書の価値を述べているわけでもなければ、読書の通史が描かれているわけでもない。どこからどこまでが読書なのか、いつの、誰が読者なのか、その問いを忘れたときに、読書の研究は、これまでになされてきた、あるいは今なされている読書の営みから切り離され、同時にその豊かな問題の地平を拓く興味や関心とも切り離されてしまう。

 読書の歴史への問いがもつ広がりや可能性を大事にしていくこと、それは読書を問う学生達の研究から、私が日々教えられてきたことでもある。私の大学のゼミでは、出版や読者の歴史に関わるテーマを研究する学生も多い。そして彼/彼女らが取り組みたい、あるいは取り組もうとする問いは、私の想像、想定をいともたやすく越えていく。

 ある学生は推薦図書の歴史や制度を研究したいという。別の学生は点字訳される図書の数量や傾向を研究したいという。ある文学賞の仕組みや影響を研究したい学生も出てくる。落語の噺の伝承や継承と変化を追いたいという学生、絵本の翻訳や所蔵の問題を考えたいという学生や、教科書図書館に通って国語教材のデータベースを作る学生。そういえばソウルミュージックのミニコミ誌の歴史を研究し、聞き取り調査にはまって結局留年してまで仕上げた学生もいた。これらを、読書の問題ではない、とするのはやさしい。しかし、私はこれらは読書の歴史を考える上で大事な取り組みだと思うし、また一見ばらばらな関心やテーマも、読書の歴史研究の中でしっかり位置づけていきたいとも思っていた。

 そういう思いに支えられながら、本書を作り、そして実際に読書を調べ、学ぶための素材として、本書を用いてきた。二〇一四年に刊行して以来、自身の勤務する大学はもちろん、それ以外の大学でも本書を用いて教えてきたが、それはまた、読書の研究が多様な分野と結びつき、方法や関心を共有することができるということを私に教えてくれもした。実際に本書をベースにして私が授業を行ったのは日本文学(立教大学:二〇一四〜一六年、慶應義塾大学:二〇一七〜一九年)、比較文学(東京大学:二〇一五年〜一六年)、比較文化(ヴェニス国際大学:二〇一六年)、日本学・日本文化(ローマ大学サピエンツァ:二〇一七年、サンパウロ大学:二〇一九年)、図書館情報学(京都大学:二〇一九年)と、多くの領域にわたる。それぞれの領域やその学生達から教えられることも多かった。

 当然のことながら、刊行してから毎年、その内容を更新するための資料や研究をこれらの場で説明していくこととなるので、それが、改訂版、増補版が必要となってきた理由でもある。だが学生達とのやりとりの中で出てきた意見や疑問、あるいは討議の中で学生達から示唆されたことを、改訂・増補を通して反映したかったことも大きな動機となった。

 本書の初版は二〇一四年に刊行された。本書の構想が現実化していったのは、近代の読書に関わる多様な問いを、整理して互いに関係づけ、論じていくという機会があったことも理由として大きい。二〇一三年の四月から六月にかけて、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で、大学院生たちを相手にこうした観点から一〇回ほどの話としてまとめ、論じる機会があった。これは、当時同校で教鞭をとっていたマイケル・エメリック氏が企画した国際会議「日本の書物の歴史 現在・過去・未来」と連携した企画で、私はこの会議に参加するとともに、大学院生たちに、「近代日本の書物と読者」というテーマで先述した話をする機会をもった。

 国際会議「日本の書物の歴史 現在・過去・未来」は、日本の出版文化や読者の歴史に焦点をあてた非常にユニークな企画で、米国の研究者を中心に三日間、二五本に及ぶ密度の濃い研究報告が並び、これもまた私にとっては読書を軸に研究をまとめていくうえでの大きな刺激となった。こうして、二〇一三年の四月から六月の間、サンタバーバラのキャンパスで私は本書の構想をずっと練りつつ、関連する研究を見直したり、資料を集めたりしていたわけである。

 それはまた、これまでの自身の読書の研究を振り返ってみる時間としても貴重だったと思う。私の読書に対する問題意識や、調査、研究方法は、変化してきてはいるが、それらは問題意識としてはつながっているし、方法的な変化も私にとっては必然的なものだった。そのことをごく簡略に振り返っておきたい。

 本書では、大きく読書を二つのプロセスに分けて考えている。つまり、書物が時間、空間を経て読者にたどりついていくプロセスと、たどりついた書物を読者が読んでいく、読書の内的なプロセスである。私のこれまでの研究は、大まかにいえば後者から、次第に前者へと関心を広げていった、ということになろう。それはまた、「いま・ここ」とは異なる時間、異なる場所の読者や読書へと、自身の関心が向かっていったからでもある。

 最初に私が出した読書論『読むということ』は、特に書物、表現を読んでいく読書のプロセスと、そこに表現がどう作用していくかに関心を向けていた。次にまとめた『メディアの中の読者』では、より多様なメディアと読者の関係に関心を広げる一方で、こうした読書の地域的な、歴史的な差異をどうとりあげ、とらえていくかを考えていくことになった。それはまた、私自身が、東京から離れ、長野県の地方都市で学び、教えることとなったこととも深くつながっている。長野県での調査や、そこでの様々な資料を通して読書をとらえる、という経験は、異なる地域や時代の読書と向き合ううえで、きわめて貴重なものだった。

 現在では自明で、普遍的な行為のようにさえとらえられかねない読書を、異なる時代、場所からとらえなおしていく、いわば「遠くの読書」へ目を向けることの意味、有効性は、本書でも繰り返しふれてきた通りである。こうした遠くの読書について調べ、考えるという点では、その後、米国で長期間にわたって行った調査が、再び自身の研究を大きく展開させていく結果となった。

 国境を越え、言語の異なる場で、日本の書物とその読者に出会うという経験は、自身の思考の枠外にあった者との出会い、いわば他者との出会いのような経験といってもいいかもしれない。それはまた、書物と読者との間にある距離や制約を、様々な角度から考える機会ともなった。日本の書物が、様々な場へともたらされることで、新たな読者が生まれていく。読書の制約や偏向もまた生まれていく。『書物の日米関係』そして『越境する書物』として書き下ろした二冊の書物は、いずれも「書物」を冠してはいるが、書物そのものに関心を向けたものではない。あくまで、書物が読者へとたどりつくプロセスに関心を向け、読者が書物とつながる場を、そしてその両者をつなげる人や組織へと関心を向けたものであり、これもまた私にとっては読書の歴史の枢要な部分をなすものである。そしてまた、書物の動きから、読書の歴史を掘り起こしていく、という方法の有効性やおもしろさも、こうした研究を進めていく中で鮮明になっていった。本書『読書の歴史を問う』は、これらの方法を包含する形で構成されている。

 二〇一四年に刊行して以降、読書についての研究も多様な分野で進められてきているし、また自身の調査や研究にも変化があった。旧版では、本書の冒頭で記したベトナムの日本語蔵書は見つかったばかりだったが、この間に調査は日本とベトナムとの間での共同研究として結実していった。東南アジアをはじめとした各地での調査も進めていった。冒頭でふれたベトナムの事例は、保管された大規模な蔵書に出会った幸運な事例だが、一足違いでそうした蔵書に出会えなかった事例について最後にふれておこう。

 二〇一九年にブラジルのサンパウロ大学で二ヶ月ほど教える機会があり、以前から訪れたかったアリアンサを調査で訪れた。一九二四年に生まれた日本人入植地で、以降大規模な移住地が周辺に形づくられていった。サンパウロ市からは五〇〇キロほど離れている。戦前にそこでどのような日本語の本が広がり、読まれていたのかを調べる聞き取り調査に協力してくれたのは、戦前に移民した一世の嶋崎正男氏だった。戦前の移民地でも日本の娯楽雑誌は広く読まれているが、アリアンサでは一九三一年段階で、岩波書店からの寄贈書をもとにした学術書、専門書の文庫が出来ていたという記録があり、その実態を知りたかった。

 聞き取りを通して、戦前には十キロも離れた移住地から徒歩で文庫を利用しにきた読者がいた話や、日本語の教育や印刷物が取り締まられていた戦時期には油紙に包んだ図書を地中に埋めて隠していた話など、色々な話に驚かされた。戦後は青年団によってそれら図書は維持、拡充されてきたという。ところが嶋崎氏がその文庫に私を案内しようとして調べてみたところ、利用者がいないためにそれらがつい数年前に焼却されてしまっていたことが分かった。

 一足違いで戦前の文庫と出会う機会を逸してしまったにもかかわらず、高速バスで十時間かけてそこに足を運んだことが、私にとってはむだどころか、とても貴重な時間であったというように思えてならない。あるいは私はただ単に遠くはなれた場所にいる読者にむかって旅をしたかっただけなのだろうか。けれど、それはまた雑誌や書物がかつて読者に向けて動いていった距離や、そしてまた遠く離れたその場所での読者の記憶を、自身で感じ取り、すくいあげていくうえで必要な時間であったとも思う。

 むろん本書では、何も地球の裏側の、宇宙よりも遠い場所にまで調査に行くことを薦めたり、求めたりしているわけではむろん、ない。まずは目の前にある書物がどこから、どのようにそこにたどりついてきたのか、を想像してみればよいのである。

 私たちは、読書を自分一人で行う孤独で内面的な営みだと思いがちだ。けれど読書は一人では決して成り立たない。読み方を教える人々や書物を届け、あるいは保存する人々の営みから切り離して読書を考えることはできない。それらの営みから切り離された読書があると考えるのは、人が一人で生きている、生きていけると考えることと等しい。だがそれは傲慢な思い込みにすぎない。孤独な一人の読書さえも、それを支える無数の要素によって成り立ち、支えられている。パンデミックによって、人と人、国と国とが切り離され、閉ざされていく今日の状況に、あらためてこのことを痛感させられる。改訂作業をしているさなか、自身がかつて訪れ、読書について調べ、教え、話し合ったニューヨークやローマ、サンパウロの街は、感染症の流行でその変わり果てた姿が連日のように報道されていた。新宿にある自身の務める大学キャンパスもまた閉鎖され、学生達とはもうしばらく直接会う機会さえもつことができない。

 切り離された都市や国どうしの、あるいは人どうしの結びつきをこれから再び取り戻していくことは、想像を越えるほど大変な道のりとなるに違いない。自分と違う読者が、こことは異なる読書の営みが、私たちのまわりにはある。本書でくり返しとりあげてきたのは、自身が慣れ親しんでいる読書の形や場が、唯一でも当然でも標準でもないということである。こことは違う読書、今とは違う読者を想像して、そこにむけてほんの一歩ふみだしてみること。そのことが、この困難な道を開いていく一歩になればと思う。