概要紹介●『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)より期間限定全文公開

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堀 新・井上泰至編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)より、概要紹介を期間限定全文公開いたします。

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●本書の詳細はこちらから
文学通信
堀 新・井上泰至編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)
ISBN978-4-909658-31-9 C0021
A5判・並製・400頁
定価:本体2,700円(税別)

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本書の読み方

本書『信長徹底解読』は14のトピックを立て、「実像編」は歴史学の側から、「虚像編」は文学の側から、それぞれ成果を持ち寄り論じる構成となっています。14のトピックで捉えきれない部分は、歴史学側から5つのコラムで補っています。本書に登場する作品は、おおむね付録「信長関連作品目録」「信長関連演劇作品初演年表」で一覧にしています。適宜ご覧いただければと思います。

概要紹介

第1章 若き日の信長と織田一族【実像編】では亡き父・信秀から織田家を引き継いだ若き信長と、彼を取り巻く一族の様子に焦点を当て、織田家のなかで信長が孤立した原因はどこにあったのか、その状況をいかに打開したかを探ります。【虚像編】では牛一『信長公記』、甫庵『信長記』、遠山信春『総見記』を中心に読み比べながら、若き日の信長の文芸的展開を考察し、近世期の読み物において史実はいかに虚構化されていったのかをたどります。

○コラム 太田牛一と『信長公記』では信長に仕えた太田牛一によって書かれ、史料的価値が高いとされる『信長公記』。本書でもたびたび引用されるこの史料の構成・成り立ち・主だった写本について紹介します。

第2章 今川義元と桶狭間の戦い【実像編】では合戦の背景と経緯を概観し、両軍の布陣や地理を手がかりとしながら、桶狭間の戦いに迫ります。信長軍の劇的な勝利をもたらしたものは果たして何だったのか、どこまでが計算されたものでどこからが偶然だったのか。合戦の実像を跡づけます。【虚像編】では桶狭間において信長軍に勝利をもたらしたとされ、近年史実ではないとされている「迂回奇襲説」がいつから登場したものなのか、そして近世・近代を通じていかに流布したのかを考察します。

第3章 美濃攻め【実像編】では信長や斎藤道三らによって残された書状、花押の形状や変化に注目しつつ、二人の出会いから美濃攻めにおける詳しい動向、さらには攻略の原動力を探ります。【虚像編】では秀吉の墨俣一夜城の築城などによって印象づけられる美濃攻めの「伝説」が、近世の信長記物・太閤記物を通してどのように描かれてきたのかを明らかにしつつ、信長と美濃の地、そして道三との関係がいかに語られてきたかを考えます。

第4章 堺と茶の湯【実像編】では天下人である信長が、なぜ喫茶行為であり、遊芸にすぎない茶の湯を重視したのか、堺のまちと商人との関わりを検討しつつ、戦国・織豊期における茶の湯の歴史を堺の歴史と絡めて論じます。【虚像編】では今や京都のイメージが強い茶の湯について、当時の堺での盛り上がりを振り返り、織田家と茶の湯のかかわり、さらには信長の茶会でのふるまいが茶人らにどのように記録され受けとめられたのかを見ていきます。

第5章 信長と室町幕府【実像編】では信長による傀儡との見方がされてきた室町幕府将軍の足利義昭について、近年の研究動向をふまえて、単なる傀儡説にはおさまりきらない両者の関係を再考します。【虚像編】ではこの関係性の描かれ方の変遷を、牛一『信長公記』、甫庵『信長記』、『総見記』を通覧しながらたどり、義昭を利用し、国内を手中に収めようとする信長像の萌芽を見出していきます。

○コラム 信長とフロイスではイエズス会宣教師のルイス・フロイスの目に映った信長のさまざまな姿、その出会いから数々にわたる面会を、織田政権とイエズス会の蜜月を象徴するエピソードをまじえて紹介します。

第6章 元亀の争乱【実像編】では信長の生涯でもっとも苦境に立たされたといわれる元亀の争乱にスポットライトを当て、反信長勢力との抗争の発端・長期化・終息の経緯を考察し、それぞれの要因について明らかにしていきます。【虚像編】では『新撰信長記』と『増補信長記』の争乱記事を確認し、両書を受けて江戸中期に書かれた遠山信春『総見記』において何が増補され、増補によって何がもたらされたのか、時代背景とともに検討します。

第7章 本願寺と一向一揆【実像編】ではそもそもなぜ信長と本願寺は互いを敵対視するようになったのか、衝突に至るまでの経緯をたどり直しつつ、必ずしも一枚岩ではなかった本願寺と一揆側の実態を探ります。【虚像編】ではこの衝突において無名の百姓たちが本願寺側の主役に躍り出る点に着目し、信長記物が一揆の様子をどのように捉えてきたのか、歴史叙述の主役が統治する側から統治される側に移る過程を見つめます。

第8章 長篠の戦い【実像編】では武田氏を撃破したといわれてきた効果的な鉄砲術、いわゆる「三段撃ち」が近年ほぼ否定されている研究史をふりかえりつつ、戦いに至るまでの経緯や両軍の判断の分かれ目といった論点を整理します。【虚像編】では同じく織田軍の鉄砲を用いた新戦術を取り上げ、この定説がどのように生まれ、明治の陸海軍の参謀本部や徳富蘇峰にまで普及した様子をたどりながら検証します。

○コラム 長篠合戦図屏風では信長が関わるいくさを描いたこの合戦図屏風のそれぞれの所在一覧を示しつつ、その構図や制作にあたって参考とした文献や政治的な背景を紹介します。

第9章 中国攻め(摂津播磨を含む)【実像編】では登用した秀吉の活躍によって進んだ中国地方への領土拡大が、実際には数々の失敗が重なり、戦線が危機に瀕していた状況であったことを見ていき、その要因を探ります。【虚像編】では複数の信長記物に描かれたこの当時の合戦について見ていきながら、秀吉の活躍がどのように記され、どのような描写が簡略化されたかに注目し、信長伝説における中国攻めの位置づけを再考します。

○コラム 洛中洛外図屏風と安土図屏風では京都市中と郊外、そして信長の居城とその城下町が描かれた二つの屏風を取り上げ、それぞれの屏風に込められた思いと、信長の所有から離れた作品がたどった道のりを紹介します。

第10章 信長の城【実像編】では信長が生まれた勝幡城から近世城郭の嚆矢とされる安土城にいたるまで、近年の発掘調査によって明らかになった成果と照らし合わせつつ、信長がほぼ一〇年間隔で居城を移した理由とそこから見える権力のあり方について考察します。【虚像編】では数多くの城の名で彩られた信長の物語がいかに描かれてきたか、清須城と安土城を中心に、後世の随筆や名所図会などに記されたその姿を読み解いていきます。

第11章 信長と女性【実像編】では信長の母土田御前や妹お市をはじめ、信長とゆかりが深く、重要な役割を果たした女性たちとそれぞれの印象的なエピソードを、残された数少ない史料を掘り起こして紹介します。【虚像編】では信長をめぐる物語に数多く登場する濃姫に焦点をあて、本能寺の変において信長と最期まで闘う勇婦としての虚像が生まれるまでの経緯と受容の様相を明らかにします。

第12章 信長と天皇・朝廷【実像編】では時代状況に応じて二転三転する信長と天皇・朝廷の関係に関する学説をふりかえりつつ、牛一『信長公記』の「不正確さ」、さらには朝廷勢力が残した文書を検討しつつ、双方の実感を浮き彫りにします。【虚像編】では第二次世界大戦のさなかに連載された吉川英治『新書太閤記』から出発し、徳富蘇峰、頼山陽、本居宣長、新井白石らの著述を紹介しながら、「勤皇家」信長像の淵源にさかのぼります。

第13章 武田攻め(長篠以降)【実像編】では武田攻めの契機となった長篠合戦をふりかえりつつ、その七年後に甲斐国・武田家を滅ぼすにいたるまでの両陣営の動向を詳しくたどり、信長の東国支配実現までの経過を追います。【虚像編】では牛一『信長公記』、甫庵『信長記』におけるこれらの記述を読み解きながら、勝者の側から事態がどのように描かれたのかを考察し、さらに武田方の軍書『甲陽軍鑑』からの視点にも触れます。

第14章 明智光秀と本能寺の変【実像編】では光秀の出自から武将としての飛躍、そして本能寺での反逆から山崎合戦での敗北までの動きを追い、近年明らかになった彼と国衆たちとのやりとりを丹念に読み解くことでその実像を浮かび上がらせます。【虚像編】では日本史の転換点ともいえる本能寺の変を起こした光秀の動機と信長との関係性が、江戸時代の軍記類や演劇にどのように描かれたかを概観し、当時の人々が事件をどうとらえたかを探ります。

○コラム 信長の肖像画では約三〇点ある信長の肖像画のうち、制作年代が明らかな四点を取り上げ、描かれた容貌や服装が示すものとそれぞれの共通点を中心に紹介します。

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編者による各章扉文

1章 若き日の信長と織田一族
信長の場合、実像も虚像も『信長公記』から出発する。そこでは、信長は「大うつけ」で家臣の信望はないが、舅斎藤道三の援助はあった。たとえば、家老平手政秀の切腹は、史学では「離反」と受け取られているようだが、文学では忠告のための自死とされる。道三との会見における信長の異様な風体も、史学では軍事的合理性と派手好みから解釈されるが、文学では、道三を油断させる計略に過ぎず、対面の時には正装に早変わりしている。江戸時代、信長の「異常さ」は基本的に認めてられていない。信長は実人生でも、孤独であったようだが、一般の考え方からかけ離れるこの人物は、解釈する側の人間観・社会観を照らし出す「鏡」となっているのだった。

2章 今川義元と桶狭間の戦い
奇襲は、戦争劇のドラマだ。桶狭間もそう考えられてきた。小が大を倒す面白さ、意外な戦術等々。しかし、実際は偶然の産物であったらしい。幾つかの偶然の重なりが、結果としてドラマを生んでいく。それを謎解きしていくのは、奇襲の物語より面白い。そして、偶然の話が、やけに筋の通った奇襲のドラマに化けていく過程も。そうまでこの戦いが注目されるのは、信長の存在が天下に聞こえた最初だからでもあるが、倒された今川義元が、上洛して天下を輔弼するには、最有力の存在だったからである。

3章 美濃攻め
信長の天下取りのステップには、幾つかの段階がある。桶狭間はデビュー戦、岐阜攻めは上京への足掛かりであることは間違いない。ただし、信長の後の成功から逆照射して、岐阜での天下布武や麒麟のアイコンを過大評価するのは、危険かも知れない。秀吉までが、美濃で活躍したと話が膨らむくらいだ。一方、実力主義に見える信長が、舅斎藤道三の権威を使っていたらしいことは面白い。思えば彼は、尾張守護の斯波氏の権威も利用していた。信長をただ革命的で反権威的な人間を考えるのは、かなり危ういのである。

4章 堺と茶の湯
「おもてなし」とは、本来ゴージャスなものである。茶の湯文化の出発点である足利義政の隠居所、銀閣寺の立派さだけ見ても、それはたちまち了解できる。観月用に建てられた銀の光は、侘しさからほど遠い。足利将軍の凋落とともに、三好・松永・信長といった新しい権力者と、新しい茶人によって、茶道具を中心にブランド化が進んでゆく。成り上がりのイメージで語られる信長の「名物狩り」の実態や、父信秀からの名物蒐集、信長自身のおもてなしぶりを確認するにつけ、彼の文化理解力・発信力はなかなかのものだったようだ。茶の振る舞いは、権力の振る舞いの一面である。信長を成り上がりとだけ見ると、中世と近世は断絶してしまうが、実態はそう単純なものでもなかったのである。

5章 信長と室町幕府
将軍を利用して権力を握り、やがて将軍を追放して天下を取る。このような行動は、民主的な今日でこそ、そう違和感がないかもしれないが、江戸時代は現実に、足利同様の源氏将軍を名乗る徳川家の支配にあったのだから、こうした行為は大変な「悪逆」ということになる。信長との決裂が詳しく書かれず、信長が将軍への敬意を忘れなかったとばかり、江戸の軍記類で書かれるのは、このためである。さて、現実はどうであったか、と言えば、義昭にもかなりの落度はあったらしい。幕末からは、天皇の存在がこの問題に絡んで、別の解釈もされてゆくのだが。

6章 元亀の争乱
戦争の記述は、往々にして敗者に厳しい。敗北の責任を、主将の一人の「暗愚」に求め、残念ですねとわかりやすく語ってみせる。信長最大の危機であった「元亀の争乱」の場合、軍記ではみすみすチャンスを逃す朝倉義景の無能さによって説明される。実際は、信長と同盟を組んでいたはずの浅井長政の離反が、信長の説明不足によるものだったり、浅井・朝倉と信長の一旦の講和も主役は足利義昭であったりしたことがわかってきている。勅命を重く見、義昭を軽んじて来た従来の史学は、朝廷と信長の関係を重く見る幕末以降の史観に無意識に囚われていたものだったか。

7章 本願寺と一向一揆
大名同志の天下取りの戦さと違い、一向一揆と信長の戦いは、「民衆」と宗教勢力の位置づけの問題となる。そして戦争とはいつの時代もそうだが、目的の違いを互いに認識しないところから始まる。信長が考える新しい「支配」と、宗教勢力と結びついた一揆勢力の「寺内」の論理とは真っ向から対立するものだった。よって、信長によって始められた「支配」の完成期たる江戸時代の軍記では、一揆側の論理は全く否定され、その具体的な相貌は見えない。むしろ架空の軍師まで一揆側に設定して「支配」の論理に組み込んでいる。それが江戸の体制の解体期である十九世紀初頭、「民衆」の顔が見える読み物が生まれてくる。ここに新たな政治の形の兆しがあるのである。

8章 長篠の戦い
合戦史に華やかな記憶を残すこの戦だが、桶狭間同様、信長の成功は必然性より偶然性が高かった。ただし、機敏に戦局を判断した信長の成功は、有名な三段撃ちとは別の戦闘を焦点化する。やがて、徳川体制の安定化に伴い、この合戦の記憶に、譜代・旗本は自分の家の由緒を参入させたいという欲望が、記述を肥大化させてゆく。それは、信長を後景に追いやってしまう結果をもたらした。その中で、信長の戦争の革新性を焦点化させた「三段撃ち」の言説はどう形成されてきたのだろうか。

9章 中国攻め(摂津播磨を含む)
天下統一の志半ばで斃れる信長。その遺志を受け継ぐ秀吉。軍記類による記述は、この歴史の結論からさかのぼって記述を行いがちである。勢い秀吉が前面に出て信長の影は薄くなる。反信長勢力の影に足利義昭がいたという黒幕の顕在化も、事態を整理して語る後世の欲望によるものであろう。秀吉の残忍な殲滅戦も省略される。しかし、実際のところ、信長の戦略は、予想外の展開に、何度も変更を余儀なくされるものであった。歴史の現場にいるものに、ストーリーなどない。自分で立てた筋もまま期待通りにはいかない。しかし、後世の者は、ストーリーがあったはずだと考え、歴史の前兆に見えるものや、筋を阻む強敵の陰謀に飛びつく。史学と文学の関心の違いはここに明らかとなる。

10章 信長の城
城は戦国にロマンを求める者の、よすがである。そうした見方は江戸時代から既にあった。しばしば絵を伴う記録から信長の「志」や「栄華」を想像し、現実における喪失を埋め合わせるように、ここがその土地だったという碑文が刻まれる。語り部のような存在が出てくるのも面白い。史学ではそれよりも、信長がその地を選んだ政治的・軍事的・経済的意味合いが、発掘調査のデータを踏まえて検討されている。信長の城が当初から近世城郭の性格を持っていたこと、安土に関しては、武将の居住を意識しない、突出した権力である信長の居城としての性格が見て取れることも浮かび上がってきている。ただし、信長が活動したその場に立ってみることは、両者をつなぐ行為でもある。土地の「記憶」とはそういうものだから。

11章 信長と女性
戦国の女性たちには多様な役割があった。政略結婚により家と家をつなぐ役割、母として後継者の後ろ盾になる役割、家政や外交の補助をする役割等々。場合によっては、これらを一人で複数兼ねるケースもある。それに対して、武人の妻として、敗戦に殉じて戦い、亡くなっていくケースは、文芸でイメージが増幅する。その増幅の過程は、射程が長く、戦国に取材した文芸史そのものと言ってよい、拡がりと展開を見せている。それが斎藤道三の娘帰蝶であったという着地点は、道三の遺志を継ぐ信長や、主体的な女性像など、戦後の感覚の投影と見るべきなのだろうが、殉死に近い夫人の死については、信長の問題を超えてさらに追究されるべき背景があるようにも思われる。

12章 信長と天皇・朝廷
「権力」の掌握とは、強い力で敵を倒すことによるものだとだけ考えるのは、素朴に過ぎる。そんな危険な賭けを続けるよりも、人を信用させ納得させる心理的な効果を持つ「権威」を使って、地位を得、それから「権力」を発揮する方が現実的だ。信長と天皇との関係性についても、今までは信長の実力主義を過大評価しすぎていなかっただろうか? 信長・秀吉の時代は、「権力」が「権威」と一体化しながら、目標を海外にまで置いていく点にある。「権力」と「権威」が対抗するのではなく、補い合ってより強い「権力」を生む。天皇という日本独自の「権威」は、そのような問題を考える格好の対象なのである。

13章 武田攻め(長篠以降)
武田信玄の武将としての評価が、江戸期の兵学の主流だった甲州流軍学によって高まるほど、滅亡した勝頼は失敗者として、反面教師の役割を負わされる。実際には勝頼なりに合理的な対応もしていたのだが、兵学書や軍記では、奸臣の言葉に惑わされたイメージで語られてゆく。対する信長は、長篠以来勝利者として、英雄視される一方、恵林寺の焼き討ちなどその残忍さを強調する読み物も残る。信長は、本能寺の変の直前まで、英雄と悪逆者の二つの側面に分裂しながら、その統一を見ないのである。

14章 明智光秀と本能寺の変
本能寺の変の原因は、「謎」のままである。ただ、信長・信忠がわずかな供をつれて滞京した一瞬の隙を、光秀は逃さなかった。信忠も討ち取られたことで、織田政権の命脈は絶たれた。明智光秀はその時点まで大成功している。また、信長の苛烈な戦い方を、忠実に見習っていたのが光秀であったことも明らかになってきている。他方、文芸の世界では、この「謎」こそ重要な資源であった。特に演劇では忠義の人光秀と将軍家に対する謀反人信長とを対置して、不忠の人光秀のイメージを一八〇度転換する描き方まで生まれている。そして、このドラマを成り立たせている一因は、「英雄」と「悪逆者」という信長の分裂したイメージに負うところが多いと気付かされるのである。