井上泰至・堀 新「歴史と文学の共謀――五十五年の夢、五十年の夢」●『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)より期間限定全文公開

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堀 新・井上泰至編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)より、井上泰至・堀 新「歴史と文学の共謀――五十五年の夢、五十年の夢」を期間限定全文公開いたします。

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●本書の詳細はこちらから
文学通信
堀 新・井上泰至編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)
ISBN978-4-909658-31-9 C0021
A5判・並製・400頁
定価:本体2,700円(税別)

本書の概要紹介はこちらです!
https://bungaku-report.com/blog/2020/07/post-785.html
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歴史と文学の共謀――五十五年の夢、五十年の夢


井上泰至・堀 新


■歴史小説家・小泉三申の「明智光秀」像
 小泉三申という歴史小説家の走りがいた。本名は策太郎、南伊豆の漁村に生まれ、新聞人として出発した頃は、思想的立場を超えて、幸徳秋水らと交わり、やがて相場師として名を馳せ、政治家となってからは政友会系に属し、政界の仕掛け人となった。プロレタリア作家として出発した林房雄を転向させたことでも知られ、林は民族派として戦中・戦後活動し、三島由紀夫の兄貴分の役割を演じていくこととなる。三申のその転変自体、興味を惹かれるが、明治三十年、三申二十五歳の時、史伝のシリーズ物の一つとして『明智光秀』を書いた。

 歴史小説のジャンルが形成されていない時代のことで、「史伝」と名付けて売り出されてはいるが、三申にとっては生活のための仕事でもあったろう。江戸の軍記物『明智軍記』を大方はなぞっている。ただし、三申のこの仕事が、昨秋岩波文庫の一冊に連なって刊行されたのは、時好に投じた為ばかりではない、と思う。

 主殺しの烙印を押され続けてきた光秀を、家臣思いで、教養があって、忍耐強い善人として捉える流れは、本書の本能寺の変の虚像編に詳しくあるように、江戸の、特に演劇からある。ハイブロウな漢文史書の世界では、儒教の忠義の観念から悪逆の汚名を背負わせてきたのとは対照的なこの水脈が、明治になると漢文訓読体の史伝にすくい取られていったわけである。こうした「善人」光秀への百八十度の転換は、司馬遼太郎の『国盗り物語』まで引き継がれてゆくから、三申の存在はその転機として重要な役割を果たしていたことになる。しかし、それだけではない。

 三申の光秀像を決定づけたのは、『明智軍記』に伝える、光秀遺作の詩偈である。

  逆順二門無し 大道心源に徹す
  五十五年の夢覚め来テ 一元に帰す

 三申は、最後にこれを引いて、本能寺の変は光秀の正当防衛であり、モラルで光秀を批判するなら、主君の天下を簒奪した秀吉・家康はどうなるのか、と結んでいる。今歴史家で、この詩偈を、また光秀の正当防衛説を相手にする人はいないだろう。にもかかわらず、三申は、史学にも通じる重要な視点をもたらしてくれている。

■史学と文学の視点から見えてくるもの

 彼の見方は、倫理の枠に囚われていない。戦国は弱肉強食の、君臣・親子・兄弟でも殺し合う「暗黒時代」である一方で、実力のある者は、実力行使で人の上に立つ時代でもあった、というものである。平時の、あるいは今日の観点から自由になることではじめて、光秀の真価が見えてくる、と。このあたりの、水際立った現実感覚に、三申が文学者になど収まりきらず、現実の世界に打って出て、「賭け」をして歩く、その原点を見る思いがする。彼が描いた光秀の行動について実否の究明よりも、戦国当時の感覚に沿って見ようとする、この一点において、史学と文学は高い結びつきを得るのである。

 そういう目で見ると、本書の実像編は、後世の視点を問い直し、当時の視点を再現することに注力を置いている点で、三申と変わりない。また、三申のような視点に立って虚像編を読むと、虚像はそれが作られた当時の意識の反映であると同時に、史実に「必然」を見ようとした結果の産物であることが見えてくる。例えば、編者二人が担当する、信長と天皇の関係などが象徴的だ。信長は天皇を利用したから悪だ、いや天皇に忠誠を尽くしていたから善だ、いや天皇をも簒奪しようとしていたから進んでいた、といった後世の価値観による、変に合理的必然性を持たせた裁断には注意が必要だ。むしろ、信長と天皇はお互いに利用しあう関係にあって、その中でどのような綱引きがあったのか、に焦点を当てる見方こそ、現実的で生産的な議論となることが、実像・虚像双方を読むことで見えてくる。

 今日の視点や価値から史実を判断し、推論していく危うさは、虚像によって照らされる。

■「敦盛」の演出に見る信長像/戦国の精神
 ここにもう一つ例を挙げよう。信長が桶狭間に向かう折、「敦盛」を舞ったという、有名な『信長公記』首巻の一節である。鷲津・丸根両砦も今川軍に攻略されつつある急報を受けてのことである。

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせよと仰せられ、御物具めされ、たちながら御食をまいり、御甲をめし候て御出陣なさる。

 こう牛一は鮮やかに、信長は伸るか反るかの決戦に先頭切って駆け出した、と書き残している。本書の桶狭間の実像編では、信長に周到な情報収集などあったのではなく、戦国武士の強い気性がなさしめた、感情にまかせた突撃であり、幾つかの偶然が重なって今川義元を倒すことができたとする。今信長が本当に「敦盛」を舞ったか、その実否は問わない。コラムにあるように、『信長公記』首巻は本編と違って「随筆」的な色が濃いから、脚色の可能性も頭の隅には置いておくべきだ。

 問題はそれより、信長が舞った「敦盛」は、「舞(幸若舞)」であって、「謡(能)」ではなかったという点である。今年の大河ドラマ「麒麟がくる」を例外として、近年のドラマで、信長は必ず「敦盛」を荘重な「謡」で舞うが、これは大佛次郎の新歌舞伎「若き日の信長」(昭和二十七年十月初演)での演出が決定的だった。当時海老蔵だった十一代目市川団十郎を念頭に置いた宛て書きで、後に市川雷蔵を始め映画やテレビドラマにもなり、定着しているが、信長が悠長にも見える「謡」を舞っていたというのは、作られた「伝統」に過ぎない。様式化した近代以降の史劇としての新歌舞伎には、「謡」の重々しさこそが必要だったのである。

 信長が舞ったとされる「幸若舞」は、今YouTubeで観ることができるが、そこからは群舞・合唱そして、強く舞台を踏む、力感とスピードのある芸であったことが見て取れる。どうせはかない命ならと討って出るのに、「謡」の悠長なリズムではいけない。そういう目で『信長公記』首巻を読み直してみると、信長は普段から、「敦盛」しか舞わなかったと伝え、他方織田方を血祭にあげて、初戦の勝利に沸いている今川方は、連れて来た能役者にであろうか、再三「緩々と」「謡」を舞わせていたと記す。信長の「幸若舞」と今川の「謡」の対比には、やはり脚色の匂いも付きまとうが、今問題はそこにはない。

 明日をも知れぬ戦国の世で、ただ不安に慄くことこそは負けを意味する。命を相対化して軽々と大博打を打ってみせる戦国の精神こそ、今我々は一番理解しにくくなっているのかも知れない。そのことに気づかせてくれる点で、史学と文学は「共謀」が可能なのである。