『文藝年鑑2020』(新潮社、2020年7月)の高木和子氏「日本文学《古典》」について(岡田圭介)
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岡田圭介
毎年購入している『文藝年鑑2020』が届いて、楽しみにしている「概観」の部分を読んでいたら、『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』が取り上げられていたので、この評の在り方について述べておきたい。
【新学習指導要領および大学入試新テストにおける国語教育の改変について、二〇一九年にはいくつかの大型シンポジウムが行われた】ではじまる段落から、評は以下のように続く。
その一つは勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信、二〇一九年九月)という長い題名の本にまとめられている。理系の研究者の反対意見に抗して、古典文学の研究者が古典教育の必要性を説く仕立てであり、こうした議論を通して問題意識が多くの人に共有されることは望ましい。とはいえこの本は中身以前に、やたらと扇情的な表紙といい、パワーポイントの画面を取り込んだ紙面といい、およそ品がない。これで古典の魅力が伝わるのか、まことに心もとない限りだ。「中身以前」と評者が宣言し、それを「品がない」とする。「扇情的な表紙」だと思われたことは、感情的な問題であるので仕方がないだろう。ただ評者が本当にこの本をお読みになったかどうかわからないが、「はじめに」で、勝又氏により「本書はその様子を再現」するものである旨述べられている。なのでパワーポイントの画面も収録している。また「これで古典の魅力が伝わるのか、まことに心もとない限りだ」とされているが、本書は「古典の魅力」を伝えようとしたものではない。よくお読みいただきたかった。
段落を変えて評は以下のように続く。
古典の文章を読み、自己の内に取り込み、文化の深層に触れることは、その人の言葉や思考の錬磨に繫がる、だからこそ古典教育は欠かすことができない。理系であれ文系であれ、その国の古典を知ることは必須の教養である。日本の古典や伝統文化は海外でむしろ関心が高い。国際的に活躍する種族ほど、芸術や文化を自然な教養として身に着けているものだ。自国の文化を学ぶ意義を軽視するのは、敗戦後七十五年の日本が強いられた病なのだ。「中身以前」という評者の宣言のままのごとく、自説開陳に論述は移り終わった。
「敗戦後七十五年の日本が強いられた病」とは何か、疑問が浮かぶが、それはさておき、この評は「中身以前」の問題で「品がない」とこき下ろしたうえで(それは直接編者著者には向かっておらず、本の作り方に向けられている)、自説表明をして終わりにしているのはいかがなものか。取り上げるからには、本の中身について論じるべきであろう。研究者として怠慢であるといわざるを得ない。結局、タイトルが長いとか、扇情的な表紙とか、紙面に「品がない」としか言っていないのである。
『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』が問いかけたものは何だったんだろうか。
一つは、国文学研究者に内面化されている研究者目線の古典の在り方や考え方を丁寧に壊していき、他者との対話を促進することであったと思う。これからは国語教育の分野の人たちや、それ以外の一般の人とも対話をしていかなければならないだろう。要は考え方を変えるということ。そこに向けた活動を小社はこれからも行っていきたい。
反省点は、『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』自身が、賛成派のなかにもある種の分断を生み出しているかもしれないということである。そもそもこのテーマを議論することがおかしいという考え方ももちろん存在するのである。
最後に、このシンポのあと、2020年6月に開催された、シンポジウム「高校に古典は本当に必要なのか」も書籍化へ向けて動き出している。こちらも楽しみにお待ちいただきたい。
●発売中
勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信)
ISBN978-4-909658-16-6 C0095
A5判・並製・220頁
定価:本体1,800円(税別)