アルバイト日誌「「高校に古典は本当に必要なのか」シンポジウムに参加してみて」#高校に古典は必要か #こてほん(2020.6.12、れい)

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

 こんにちは!れいです。

 先日、「高校に古典は本当に必要なのか」オンラインシンポジウムにフロア参加させていただきました。まず、本当に素晴らしかったです。高校生がこんな企画を開催してくれるなんて、まして当初予定していなかったオンラインという環境で慣れないこともあったかと思いますが、とても意義のある会だったと思います。

 このシンポジウムの感想を言う前に...私は、理系文系に分かれない高校に通っていたため、進路に迷い数学Ⅲも古典の選択授業も履修しました。結局日本文学の道を選んだのですが、文系、特に文学や歴史、理系では物理が一番好きだった私にとって、すべて欠けることのできない大切な学びだったのです。だから、どれが必要かなどと考えたこともなかったのです。あるべくして当然と、考えていました。

 感想というより自分の意見に近いと思いますが、古典教育は必要だと思います。これは多分、私が理系の道に進んでも同じことを思ったはずです。もともと私は古典が苦手でした。文法を知らないと読めない、読解に時間がかかる...。この私が初めて古典をもっと学んでみようと思ったきっかけが、「言葉」というものが、いかに私たちの営みの中で重要な位置を占めているかということに、気が付いたからです。私は高校生の時に自由な話題で発表してよいという機会があり、その時に私は、このようにお話ししました。

(前略)私たちは感情を伝える手段を多く持っていますが、その中でも一番身近なものは「言葉」ではないでしょうか。最近、私は言葉で思いを伝えることに限界を感じた瞬間がありました。抱える葛藤や苦しみを言葉で表しても相手には伝わらず、人から受ける言葉によって私の心は傷ついてしまった。私はその時に初めて孤独を感じました。(後略)

 言葉は、私たちの先人たちが時間をかけて得た力であり、そして言葉を記述する行為は、日本語では『万葉集』などに見られるように工夫の上に成り立っているのです。古典を学ばないということは、自分たちが得てきたものを自ら手放すことになると思います(これはツベタナ先生もおっしゃっていたことです)。

 議題に挙がっていたこと...原文で読む必要性に関して、私は必要だと思います。高校生のディベートにて、否定派の方が言葉は変化する旨を指摘されていましたが、言葉は確かに変化するものです。(否定派の方のご意見もよく理解しているつもりですが)ただむしろ古典を通して、その流動性を知る必要があるのではないかと個人的には思います。今の私たちが、言葉が色々な過程を経た上にあること、今の言葉が絶対的ではないと学ぶことは、まさに肯定派の先生がおっしゃっていた「生きる力」に繋がるのでしょうし、言葉の大切さを私たちが認識できなくなった時、私たちは簡単に言葉で人を傷つけてしまう、そのように思うのです。そしてこれも肯定派の先生方のご意見に沿う形になりますが、古典の言葉の旋律、ハーモニーは現代語訳だけでは知ることができない、強く思います。

 そして現代語訳について...これは日本文学を専攻して初めて知ったことですが、想像以上にまず古典本文に揺れがあるということです。その上で整定し、現代語訳にする過程で(高校生の方がここを的確についてましたが)多くの人の意見や解釈が入るのは当然のことです。解釈には100%の正解はないですし、これを考えることが古典教育にとっての大きな学びに繋がるのだと思います。

 最後に古典教育について...最後の生徒さんのお言葉に胸を突かれる思いでいます。古典教育において大きな課題は、「読む」行為だけの世界から脱却することではないかと思います。「文法は読むためのもの」と私の高校の先生がおっしゃっていましたが、文法というツールを使い読む、その先の「考える」という行為に古典の醍醐味があるのではないでしょうか。私自身の古典、古典教育への理解や学びが足りないことも、今回痛感しました。

 他にも「論理」など色々な問題が議題に挙がっていましたが、とりあえず私の思うことは一通りお話しできたのではないかと思います。先述しましたが、私はどの教科も大切にされるべきだと感じます。それは、世の中は想像以上に複雑で、色々な理論や解釈が混沌としていて、多様性を持っていることを知るという側面もあると思います。

 次は先生方...?というご意見が多数ですが、大学生も議論してみたいと強く感じています。