「千手観音の「手」のゆくえ 『大悲千禄本(だいひのせんろくほん)』(黄表紙)」を期間限定全文公開○長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信)

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長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信)より、「千手観音の「手」のゆくえ 『大悲千禄本(だいひのせんろくほん)』(黄表紙)」を期間限定全文公開いたします。

なお本書の詳細は以下です。書影をクリックして、詳細をご確認ください。

●2019.5月刊行
文学通信
長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信)
ISBN978-4-909658-13-5
C0095
A5判・並製・カバー装・552頁
定価:本体3,200円(税別)

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千手観音の「手」のゆくえ
『大悲千禄本(だいひのせんろくほん)』(黄表紙)

図版入りのものは、こちらからPDFでご覧頂けます!


 イエスとブッダが休暇を得て下界に降り立ち、現代の東京のアパートで二人暮らしをする。そんな奇想天外な設定のマンガ『聖☆おにいさん』が人気を集めている(中村光、講談社)。作中に登場するイエスとブッダはTシャツとジーンズを身に着け、一見すると普通の青年のようだが、ブッダの頭は螺髪、イエスにいたっては長髪に荊の冠をつけており、カジュアルな服装と髪型のちぐはぐさが笑いを誘う。もとよりこのマンガの面白さはそうした外見的なことばかりではない。イエスとブッダといういわゆる「聖なるもの」が人間同様に振る舞おうとしながら、その言動におのずと「聖なるもの」としての本質がにじみ出てしまう、その滑稽さがとことん表現されるところにこのマンガの真骨頂がある。
 このように「聖なるもの」が卑俗な世界にあそぶ情景をおもしろく描くという発想は、すでに江戸時代の戯作に見られるものであった。例えば天明元年(一七八一)に出版された『当世大通仏開帳』(芝全交作、北尾重政画)は、地蔵菩薩・蛸薬師・寝釈迦が品川の遊郭で遊ぶ様子をえがいた黄表紙である。孔子・老子・釈迦の廓遊びをえがいた宝暦七年(一七五七)刊行の洒落本『聖遊廓』(作者未詳)も、これに通じるものと言えよう。
 「滑稽神仏もの」とでも呼ぶべきこうした戯作の中で、指折りの秀作と言ってよいのが天明五年(一七八五)刊行の黄表紙『大悲千禄本』(芝全交作、北尾政演画)である。書名は「大根の千六本」(大根の千切り)の洒落であり、「大悲」は衆生を苦しみから救う仏や菩薩の慈悲のことである。一体どんな内容なのか、まずはそのあらすじを紹介しよう。

【あらすじ】
 千手観音も不景気には勝てず、千本ある自らの手を損料貸し(有料で品物を貸し出す商売)に供することにする。面の皮屋千兵衛という山師(投機的な商売をする者)がこれを請け負い、手一本を一両として、千両と引き換えに観音の手を切り離す[図1]。料金を定めて貸し出しを始めると、薩摩守忠度(平忠度、一の谷の戦で右腕を切られた武将)、茨木童子(渡辺綱に羅生門で片腕を切られた鬼神)、人形芝居の捕り手の人形(両手がない)、手管(客をだます技術)のない遊女、無筆(字の書けない人)など、いろいろな意味で「手」のない人々が店につめかける[図2]。
 人々はそれぞれ手を借りていくが、なかなか思うようにはいかない。毛のない腕は使えないと、茨木童子は借りてきた手に毛をつけてもらう。薩摩守忠度はうっかり左手を借りてしまい、得意の和歌を書いても文字が反転してしまう。手管のない遊女は借りた手で客をだますが、時間を区切った損料借りのため、客の相手をしている途中で手の返却を求められる。無筆は借りてきた手で手紙や証文を書くが、千手観音の手ゆえ書ける字が梵字ばかりで役に立たず、このまま返すのも損だと爪に火をともしたりする。
 そうした中、千手観音のもとに田村丸(坂上田村麻呂)がやってくる。鈴鹿山の鬼神を退治せよとの勅命を受けたため、千手観音の手を借りたいという。千手観音は千兵衛と相談し、貸し出した手を集めるが、戻って来た手はどれも様子がおかしい。遊女に貸した手は客への心中立てで切ったのか小指がなく、塩屋に貸した手は塩からくなり、紺屋に貸した手は青くなっている。下女に貸した手はぬかみそ臭くなり、飴屋に貸した手はねばねばしている[図3]。
 ともあれ千手観音は集めた手を田村丸に貸し出す。田村丸は大望成就の暁には損料をつけて千本の手をお返しすると約束し、鬼神退治に向かう。

【見どころ】
 前述の通り、書名の「大悲千禄本」は「大根の千六本」(大根の千切り)の洒落である。大根を千六本に切るように、千手観音の千本の手は切られてばらばらになり、「手」を求める人々に貸し出された。無料で貸し出されたのであれば、観音の手はまさに人々を救う慈悲(大悲)の象徴となっただろう。しかし作中では、手は損料貸しの商品として扱われている。このように「聖なるもの」であるはずの千手観音が損料貸しという人間くさい商売に加担するという設定が、この作品のおもしろさの核心をなしている。
 「手」ということばが持つ多様な意味を浮き彫りにする筋立ても秀逸である。「手」は肩から先の部分を意味するばかりでなく、労働力、腕前、筆跡といった意味ももある。作中では千手観音の手を借りに来る人々の目的や手の用途が個々に描かれ、「手」の多義性が実感できるようになっている。
 また、手を借りに来る人々が実にさまざまで、千手観音が手を貸し出すという非現実的な情景にさらに荒唐無稽な味わいを加えている点も笑いを誘う。図2を見るとわかるように、店に集まった人々は遊女や無筆といった江戸の市井の人々だけではなく、人形芝居の捕り手の人形、茨木童子、平安時代末期の武将である薩摩守忠度など、人間でないものや時代違いの人物もまじっている。それらが一つの座敷に顔を並べているのが何ともおかしい。ちなみに薩摩守忠度(平忠度)は『平家物語』の「忠度都落」の話で知られる平家の武将であり、歌人としても有名だった。借りてきた手で和歌を書くという作中の場面は、こうした薩摩守忠度のイメージに基づいているのである。
 さて、黄表紙はほぼすべての紙面に挿絵がある。『大悲千禄本』の挿絵は描写の細かさが見どころで、北尾政演(戯作者としての名は山東京伝)の画力がいかんなく発揮されている。図1は面の皮屋千兵衛が千手観音の後ろに立って観音の手を切り落とす様子を描いたものだが、煙管をくわえたまま作業をしている千兵衛は何となくいい加減な感じで、山師らしい雰囲気を漂わせている(手前で木づちを持っているのは手代のてれめんてい兵衛)。
 図2は店の前に並んだ履物に注目してほしい。きちんとそろえてある草履もあれば、片方がひっくり返っている草履もある。下駄もあれば沓もある。どの履物がどの客の持ち物なのか、想像するのも楽しい。
 図3は手を失った千手観音の傍らで田村丸が煙管をふかし、その手前で面の皮屋千兵衛とてれめんてい兵衛が戻って来た手をあらめている場面である。手をもたない千手観音の見た目はもはや「千手」観音ではなく、白衣観音のように見える。平安時代の人物である田村丸が煙草をふかすのも、時代違いのおかしさがある。ちなみに田村丸が「手」の大口の借り手として登場するのは、坂上田村麻呂が千手観音の加護を受けて鈴鹿山の敵を滅ぼしたという、謡曲「田村」を通じて知られていた説話を踏まえているからである。

【もっと深く─「手」の物語】
 千手観音の千本の手は、「手」を求める人間たちによってさまざまな目的のために使われた後、再び千手観音のもとに戻り、最後はまとめて田村丸に貸し出される。『大悲千禄本』の真の主人公は「手」であるということもできよう。
 幕切れでは、田村丸が観音から借りた千本の手を自らの背中に負い、観音に別れを告げる[図4]。
(観音)「そんならナニ田村丸どの、鬼神を首尾よく退治めされたなら、損料をつけて千本の手を、九ツの鐘を合図に待つているよ。」
田「ゆふにやおよぶ。大望成就してうへで、両に八本の損料をもつて、手を千本お返し申さん」
クハン(観音)「なに、それまでは田村どの」
田「観音様」
両人「さらばア」
手手てん〳〵〳〵〳〵〳〵
てゝてゝてゝ手手手手手手手手手手手手手手手手手
ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて
「ハテ此ての字がめの字だと、薬師どのへ進ぜたい」
(丸カッコは引用者による補足)
この幕切れの場面は、全体に芝居がかった書き方になっている。千手観音と田村丸の掛け合いのせりふは歌舞伎のせりふ回しを思わせ、「手手てん〳〵〳〵〳〵〳〵」という箇所は歌舞伎や浄瑠璃で使われる三味線の音を連想させる。何より強烈な印象を残すのは「てててて......」と続く「て」の字である。千手観音の「手」の物語は、文字通り「て」尽くしで終わるのであった。
 『大悲千禄本』は、現代のページの数え方で言えばわずか十ページしかない、きわめて短い物語である。そのなかに「手」をめぐるたくさんのエピソードが詰め込まれている。それらは読んでいるうちに肩の力が抜けるような、独特ののんびりした雰囲気をもっている。
 なかでも茨木童子・薩摩守忠度・田村丸は、既存の物語におけるかれらのイメージを滑稽にくつがえす形で造形されていると言えよう。茨木童子は鬼の姿をしてはいるが、その容貌には愛嬌すら感じられる。忠度には悲壮感のかけらもない。田村丸は大まじめだが、観音との会話の話題が主に損料のこと、という落差が笑いを誘う。
 物語を背負った有名なキャラクターを別の新たな物語に登場させることで、驚きや笑い、感動を生み出す。『大悲千禄本』には、パロディーや二次創作の本質を見ることができよう。

【テキスト・読書案内】
 『大悲千禄本』は『黄表紙 洒落本集』(日本古典文学大系59、岩波書店、一九五八年)と『江戸の戯作絵本(二)全盛期黄表紙集』(教養文庫、社会思想社、一九八一年)に注釈付きの影印・翻刻が収録されている。「滑稽神仏もの」として例示した『聖遊廓』は『洒落本大成』第二巻(中央公論社、一九七八年)に、『当世大通仏買帳』は『江戸の戯作絵本 続巻一』(教養文庫、社会思想社、一九八四年)に収録されている。

 (佐藤至子)