古代文学会 6月例会(第714回)(2019年6月1日(土) 午後2時より5時まで、共立女子大学 神田一ツ橋キャンパス 本館 823教室)
Tweet研究会情報です。
●公式サイトはこちら
http://kodaibungakukai.org/
--------------------
日時 2019年6月1日(土) 午後2時より5時まで
場所
共立女子大学 神田一ツ橋キャンパス 本館 823教室
東京都千代田区一ツ橋2-2-1
東京メトロ「神保町」駅下車 A8出口から徒歩1分
https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/access/
発表 三品泰子 氏
題目 国覓ぎの発話行為の対話性――人麻呂の吉野従駕歌から――
要旨
国覓ぎ神話の型に則って詠まれる人麻呂の吉野従駕歌は、第一長歌で名付けを二回行っている。巡行神の位置にいる大君が「激つ河内」に向かって「清き河内」だと発話し御心を吉しとしたのが吉野の地名起源になっていることと、「水激つ
滝の都」と都を名付けることである。この二回の名付けは、第二長歌で大君が「激つ河内」に高殿を立てて国見すること、反歌で「激つ河内」に船出することに対応する。これらの表現は従来、大君が異界の霊威が最も強く発現する場所までも制圧し超越者となったことを讃えたものだと言われてきた。しかし、歌を詠むことが叙述や描写などではなく、相手に向けて働きかけるものだと考えるなら、歌の言葉が向かう相手は大君側の人々なのだろうか。そうした領有する側だけで閉じられた言語空間の見方では、なぜ領有する前だけでなく領有した後までも「水激つ
滝の都」(第一長歌末尾)や「激つ河内」(第二長歌の反歌)と呼び続けるのかがわからない。そもそも「水激つ
滝の都」とは、「激つ」場所を都と化したということなのか。都が「激つ」ものと化したということではないのだろうか。激っている都(「滝(たき・たぎ)」も「たぎつ」の名詞)だと歌で呼ぶのは、激つ側からの声も入っているのではないだろうか。大君側からだけでなく異界側からの視点も読みとる必要があるのではないだろうか。
司会 遠藤耕太郎 氏