「「日本共産党」の古典的意義 」「藤原俊成の古典意識―生き、活動する原点にあるものとは」を期間限定全文公開○前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)

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前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。酷暑記念です。

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前田雅之
『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』
ISBN978-4-909658-00-5
C0095
四六判・上製・336頁
定価:本体3,200円(税別)

●本書の詳細はこちらから。絶賛発売中です。
https://bungaku-report.com/blog/2018/05/post-167.html

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「日本共産党」の古典的意義

1―日本人にとって思想やイデオロギーは倫理に他ならない

 今村均(一八八六~一九六八、陸軍大将)の佐倉連隊長時代(一九三二~三三年)、連隊に所属する兵士が師範学校在校時にストライキを起こして退学された廉で陸軍刑務所に収監されるという事件があった。この兵士は共産党とは無関係であったし、共産党も、この時期となると、検挙と転向で統一的な活動などできていない。しかも、入営前の事案で禁錮二年はひどすぎる話だが、それほど陸軍は「アカ」=共産党を警戒していたのだろう。その時、今村は、刑務所に赴いて、部下のために、一冊の本を差し入れている。それは倉田百三(一八九一〜一九四三)の『出家とその弟子』(一九一六年)と『絶対的生活』(一九三〇年)であった。このうち『出家とその弟子』は大ベストセラーではあったが、既に刊行から十五年以上経っている。今村がこの本を選んだ理由は分からないけれども、『歎異抄』に基づき悪人正機説を前面に出したストーリーが悩める一時期左翼がかった兵士を正気にさせるものと認識されていたのだろうか。たとえば、こんな台詞はどうだろうか。

唯円 世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。
親鸞 「若さ」のつくり出す間違いがたくさんあるね。それがだんだんと眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つ事もできないのだ。
唯円 私には人生はたのしい事や悲しい事のいっぱいある不思議な、幕の向こうの国のような気がいたします。
親鸞 そうだろうとも。   
(新潮文庫)

 加えて、親鸞(一一七三〜一二六二)が放蕩に明け暮れた善鸞(生没年未詳)を臨終間際に許したように、兵士も許される存在であることを示唆したかったのかもしれない。
 今村は、陸軍士官学校に中学から進学した組(彼の学年〈十九期〉だけ陸軍幼年学校出身者がおらず、全員中学組だった。これは今村にとっては幸いだっただろう)に属するが、裁判官であった父の突然の死によって一橋大予科や旧制高校受験を諦め、授業料のかからない陸士に入学したとはいえ、マルクス主義他反体制的思想に共感をもったことは一度としてなかっただろう。だから、この手の書物を与えて、別の選択肢を示すのではなく、再度じっくりと我身と向き合えと言いたかったのではないか。その後、兵士は無事、原隊に復帰した。
 日本共産党の問題をめぐって、妙なところから筆を起こしたのは、他でもない。日本における左翼のみならず右翼まで含んだ思想やイデオロギーのもつ意味合いをまずは押さえておきたかったからである。
 それは何か。日本人にとって思想やイデオロギーとは、論理や理念ではなく、倫理に他ならないということである。倫理だから立派だとか下らないと言うのではない。倫理だから、より一層面倒だと言いたいのである。それは、宗教や信仰に近い頑なな心性をもっているからである。
 適例が浮かばないので、私の体験談で代替させよう。私が以前勤めていた職場のトップは、それほど知られた存在ではなかったが、東大法学部卒、東大社会科学研究所の元所長という、いわゆる学者エリートであった。そして、紛れもない左翼であった。人間的には申し分のないいい人であって、私とはなぜかうまが合い、よく話をした。一度、意地の悪い質問をしたことがあった。
 
先生はどうして左翼になられたのですか、ひょっとして貧しい人たちが気の毒だったからでは?

 この失礼千万な、かつ、人の内面をからかうような問いに対して、先生はあっさりと答えられた。

その通りございます、

と。その後、先生の若い頃のご論文は、講座派の影響が大きいですね、という問いについては、

いや、労農派からの影響もありますよ、

とお答えになったのだ。私はこの問答を通じて、二つの未知の事実を知ったのである。一つは、「先生」にとって左翼思想とは上から目線ではあるものの貧民救済への切実な願いから発したものであること、もう一つは、さすがにエリートであるから、講座派(日本資本主義において、天皇制国家の絶対主義的性格や地主―小作の半封建的性格を強調したマルクス主義のグループ。日本共産党に近い)か労農派(日本資本主義において、講座派に対して、近代的、ブルジョア的性格を強調したマルクス主義のグループ。戦後の日本社会党に近い)かといった党派的な選択肢は存在せず、使えるものは何でも使うという実にプラクティカルな態度によって左翼の方法論と付き合っていたという二つである。両者は一見矛盾するようだが、「先生」の中では全く矛盾はなかったはずである。一等大事な動機は、鼻持ちならぬ上から目線とはいえ、貧しい人たちに対する同情・憐憫と一体化した社会的な倫理である。その後に続く具体的な方法論についてはケース・バイ・ケースで使い分ければそれでよいと考えていたということだ。その上で、自分の展開する論がどう転んでも左翼の枠組みを超えることはないという見通しもあったのではないか。
 「先生」のようなエリートではない、通常の左翼は、動機と方法論が一体化し、党派性が前景化している人がままいた(し今もいる)だろうが、ここで大事なことは、左翼とは思想ではなくて、何よりも倫理だということである。むろん、右翼も倫理である。但し、こちらときては理屈など言わないから(なぜ貧民が発生するかといった問題をめぐる体系的な議論など)、倫理即行動となりやすく、通常のインテリからは忌避の対象となる場合が多い(戦時中、右翼になった講座派の平野義太郎〈一八九七〜一九八〇〉などもいたけれども)。他方、「先生」の場合は、周囲で目にしたり、耳にしたりする貧しい人たちのことを知って、なんとかしてあげたいと思い、そこから左翼思想に親近感を抱いたのであり、左翼思想に染まっている人を少なくとも右翼思想や無思想人間に比べて、倫理的に立派な人間、ヒューマニズム溢れる信頼に足る人間であると信じていたと思われる。とはいえ、さすがに天下のエリートであったから、東大法学部内ではどちらかと言えば右に位置した法制史家の石井良助(一九〇七〜九三)に対しても、どんな立場の人間の意見にも耳を傾ける人だった実に好意的な評価を与えていた(実際そうだったのだろうが、思想で人を評価しないということである)。つまり、こうした柔軟な、通常の言い方によれば、リベラルな思考をできる人間でも、左翼とは何よりも倫理だったということである。
 かつてストライキを起こした兵士を真人間にするために差し入れされた書物が『出家とその弟子』であったことは、左翼とは一切無関係だった今村にとっても、思想とは倫理だということが実のところ分かっていたのではないか。宗教戯曲と言うよりも人生を考える対話劇である本作品も読者の倫理にぐさりと食い込み、改めて自己なるものを考え直す縁となりうるのである。
 してみると、日本共産党を支えてきたのも、共産党なるものに対する倫理的シンパシーからまだ逃れきっていない人たちだったのではあるまいか。その意味で、利害が優先する自民党・民進党(当時)支持者(これも色々いるが)と比べて、より信仰共同体に近い存在となるだろう。正反対の立場にある宗教団体を背景に持つ与党・公明党と存外どころかかなり近い性格をもっているのである。

2―「日本共産党」、その不寛容の伝統と根拠

 Monarchie(=monarchy)が「君主制」ではなく、「天皇制」と訳され、さらに「絶対主義的天皇制」と巨大化させられたばかりか、大地主・独占資本とも一体化し、打倒の対象となったのは、いわゆるコミンテルンの三二年テーゼ(ソ連の共産党本部=コミンテルンが日本共産党に向けて出した指示命令文書)においてであった。戦前・戦後の共産党の世界観は、ほぼこれに従っている。いわゆる講座派的世界観である。その意味で、戦後、アメリカべったりの自民党を批判する資格は共産党にはない。
 だが、そうではない人もいた。その一人が、近時、辻井喬(一九二七〜二〇一三)が『風の生涯』という伝記小説で描いた、戦後、財界四天王、フジサンケイグループの総帥となった元共産党員水野成夫(一八九九~一九七二)である。水野は、「天皇制」を肯定していたために、一九二八年三・一五の一斉検挙で逮捕された後、転向第一号となり、詩人浅野晃(一九〇一〜一九九〇)と共に、二九年に天皇制下の共産主義運動を標榜して、「日本共産党労働者派」を設立した(その後、ぽしゃり、水野は翻訳家から財界人に変貌していく)。水野の転向は、三二年テーゼ以前のことであるから、二七年テーゼも含めて、コミンテルンに盲従する共産党指導部に根源的な違和感があったのだろう。違和感の正体は、「天皇制」ということばが、単なる社会科学・歴史学用語ではなく、政治スローガンであったことではないだろうか。つまり、そこには「打倒すべき」(天皇制)という目標が予め含意されていたのである。もっと言ってしまえば、そのような目標は日本の国制・国体にそぐわないと水野には映ったのである。「先生」同様の倫理をもって共産主義者たらんとしながら、他方、天皇制度に対しても倫理的な親和感を捨てきれなかった水野の矛盾は、共産党に巣くう信仰共同体とは無縁であり、戦前の良識的インテリの達成点を示していよう(浅野晃はその後戦争賛美詩人となったが、水野はそれには荷担せず、戦後徹底的に批判された浅野の面倒を見た。立派である)。
 共産党時代、水野の兄貴分に当たる福本和夫(一八九四~一九八三)は、一時期、「過程が過程する」といった言い回しに典型的な独自の難解極まる福本イズムで共産党員・シンパ(とりわけ若手)の圧倒的支持を得た。だが、二七年テーゼで批判されて共産党内の地位を失い、水野と同様に三・一五で逮捕され、こちらは不転向を貫いたのが祟って、一九四二(昭和十七)年まで獄中にあった。若い頃、独英仏三カ国に留学し、かの地で左翼文献をすべて原語(福本に拠れば、ドイツのハイパーインフレのおかげで、大量の書物が恐ろしいまでの廉価で購入できたとのこと)で読み、レベルはともかく、借り物、翻訳ではなく、自分のことばでマルクス主義を語り論じたはじめてのマルクス主義者であった。だが、その福本にしてもコミンテルン権威の前にはいとも簡単に葬り去られてしまうのである(むろん、福本自身は自伝で語っているように、コミンテルンに負けた自覚はない)。福本は水野と異なり、戦後も共産主義者であることを捨てなかったが(やっていたのは捕鯨史・からくり史をはじめとする日本ルネッサンス史論だったとはいえ)、この手のオリジナル溢れる魅力的な人間をコミンテルンの意向だけで日本共産党は追放したのである。上位の組織に従順であり、かつ、かつての仲間であれ同志であれ、一旦敵対すると排除し、それのみならず、徹底的に批判を加える体質は今も継続していると思われるが、こうした体質がどこから生まれているのかと考えると、おそらく答は、非合法下の政党という性格が出発点からあったためではないだろうか。
 つまり、政府からは敵対され、弾圧される対象であるが、それ故に、倫理と使命感は人一倍強い革命政党、否、秘密結社に近いということである。しかも、コミンテルンという絶対無謬の「神」までいるのである。最終的な判断はコミンテルンが決めるから、それに逆らう人間はいとも簡単に排除してしまう。戦後、公認政党になってからは、コミンテルンからは独立したと言っているが、今度は内部でさんざん揉めた末に宮本独裁体制になっただけのことである。宮本顕治(一九〇八〜二〇〇七)がコミンテルンの代わりに「神」として君臨した。その余光が現在の体制だろう。ということは、非合法時代に作られた体質から逃れきっていないということである。それはこれこそ共産党なるもののアイデンティティーだからだろう。故に一定の力を持つかもしれないが、得体の知れない雰囲気もなくならないので、おのずと限界がある。一部の領域(たとえば、歴史学会など)には進出しても、キリスト教系の学校(小中高大)がほとんど信者を増やさなかったように、共産党系の歴史学者が書いたものもさして国民の歴史観に影響を与えていない。但し、歴史学のために弁護すると、今日、共産党と同じことを言っている共産党系歴史学研究者はほとんどいない。実証と方法で実質マルクス主義歴史学は過去のものとなっている。だが、共産党と完全に縁を切った歴史学者(多くは老研究者)もそれほどいない。やはり若き日の倫理(それに加えて深い感動)と様々な人間関係のしがらみが今も彼らを拘束するのだろうか。その一途さをおそらく彼らは、自己と共産党との間に存在する深刻な諸矛盾を覆い隠して、プライドとしていると思われる。

3―日本の伝統から生まれた「日本共産党」

 それでは、共産党的構えは近代日本特有のものか。答は否である。
 室町・戦国期を見渡して、最大の富をもち、かつ、動員力では戦国大名クラスであった在野権力は本願寺(一向宗)である。但し、一般的なイメージとは裏腹に、本願寺は、同じ真宗の高田派とは甚だしく対立し戦争に及ぶけれども、真宗以外の宗派や大名とはうまくやっていく能力をもったしたたかで柔軟な教団でもあった。本願寺の資金で即位後二十一年めにして漸く即位礼を挙行しえた天皇(後柏原天皇)もいたくらいである。他方、信長との間で十年以上に及ぶ本願寺戦争を繰り広げたように、一揆における最大勢力でもあった。その時、蓮如(一四一五〜九九)の子蓮淳(一四六四〜一五五〇)の書状に「一念ニたすからむとする其御恩の難有さニハ、一世の身命をすてんハ、物の数ニあらず」とあるように、命のことよりも「信を得て「仏」になるという救済の是非こそ重要」(金龍静〈一九四九〜〉『一向一揆論』、吉川弘文館)だという教えは、門徒を一揆に引き込み、果敢な戦いに向かわせる動因になったことは間違いないだろう。
 真宗他派との壮絶な戦い、内部の異端を見つけ出し直ちに排除していく姿勢、そして、「仏」になるためには命を捨ててもよいとする構え、こうした「一向」性=排他性をもつ集団は、実は、前近代日本にも存在したのであり、その流れは、思想は異なるものの、幕末の水戸天狗党、さらには、西南戦争の薩軍にまで脈々と受けつがれていった。こうしてみると、日本共産党もかかる日本の伝統から生まれ出たと見做してもよいのではないか。そこに、日本共産党の古典的な意義がある。
 だが、真宗が宗教界のトップに立ったのは、江戸期以降、大人しい体制宗教になってからのことである。日本共産党は身に染みついた古典的な構えを今後捨てることはあるのだろうか。おそらく無理であると思われる。

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藤原俊成の古典意識――生き、活動する原点にあるものとは

1―一人歩きした俊成の言葉

 藤原俊成(一一一四〜一二〇四。「としなり」とも)という歌人がいる。俊成の息子はかの藤原定家(「さだいえ」とも)であり、鎌倉時代から南北朝を通じて勅撰集を編纂してきた二条家・京極家という和歌の家の祖に当たる人物である。
 俊成の功績として、まず挙げるべきは『千載和歌集』の撰者であり、次に、中世を代表する歌論書である『古来風躰抄』の執筆、そして、『六百番歌合』の判者(左右どちらの歌が優れているか判定する役)といった歌壇での活躍(四十の歌合判詞を執筆)となるだろうか。とにかく、当代一の歌人として圧倒的な尊敬と権威をもっていた人物であった。『詞花集』以来、勅撰集に入集した和歌は、計四一八首だから、中世を通じて息子の定家と並んで最も重んじられた歌人である。本人の家集として出家直後の六十五歳ごろにまとめた『長秋詠藻』(四七九首)がある。当時にしては例外的な長命である九十一歳でなくなったので、実際に詠んだ歌の数はかなりのものに昇ったと予想される。
 さて、俊成は『源氏物語』について、きわめて印象的な言葉を残していた。それは『六百番歌合』にある以下の言葉である。

 冬上十三番 枯野 左勝 女房(藤原良経)

   見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに

 右 隆信

   霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ

右方申云、「草の原」聞きよからず。左方申云、右ノ歌古めかし。
 判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右ノ方人、「草の原」難申之条、尤うたたある事にや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其ノ上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也。右、心詞、悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左ノ歌、宜。勝と申べし。 (新大系)

「判云」以下が俊成の言葉(判詞)である。この二つの歌は、「枯野」という題で詠まれている。どちらがよいかを判定するのが判者たる俊成の仕事となる。結論は、女房(歌合では高貴な主催者の場合身分を隠して「女房」と記されることが多い)とされる藤原良経(一一六九〜一二〇六)の「見し秋を」歌の勝ちとなった。通常、院・天皇をはじめとする高貴な人(この場合は「女房」と記される良経)は歌合では勝つことになっているから、この結果にそれほどの驚きはないが、問題は勝った理由である。俊成は判詞で藤原良経詠の「草の原」にひどく反応しているのだ。
 まず、「左の歌(藤原良経詠)は、「何に残さん草の原」と言っている、これは艶(優美)でございます」と讃めている。そして、判詞の前に「草の原聞きよからず」(「草の原」は聞きにくい、あまり聞いたことがない)とした「右方」の難陳(双方の方人がそれぞれ相手の歌を批判したり評価したりすること)に対して、「「右方」の人が「草の原」を非難するのは間違っている。紫式部は歌人以上に物語を書く能力が優れている。加えて、『源氏物語』「花宴」の巻はとくに優美なものである。ああ、『源氏物語』を読まない歌人は遺恨(遺憾・残念、もっと言えば駄目だくらいの意味)のことだ」と嘆くのである。
 はじめてこれを読んだ人は、どうしてここで唐突に『源氏物語』が出てきたのか、不思議に思ったに違いない。種明かしをすれば、『源氏物語』「花宴」巻にこのような歌があるのだ。

   女
  (朧月夜)
   うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ   
  (新編全集。以下も同じ)

 この歌がでてくる直前には、光源氏が朧月夜内侍に「なほ名のりしたまへ。いかで聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」(やはり名乗りなさい、お名乗りにならないなら、どうしてご様子を伺うことができますか。といっても、このまま終わってしまうとは、あなたもお考えではないでしょうが)と語りかける場面がある。簡単に言えば、源氏は朧月夜内侍を口説いているのである。それを受けての朧月夜内侍の歌であることをまずは押さえておきたい。
 女は、源氏の誘惑に対して、このように、歌で応える。つらい身のままで世の中からふいと消えてしまったら、あなたは、私が名乗らなくても、私が葬られている草の原までお訪ねになることはないでしょうね、と。
 この歌の直後、地の文では「と言ふさま、艶になまめきたり」(と言う様子が、優美でやさしい感じである)」とある。
 女の歌は、恋のはじまりの段階によく出てくるタイプの歌である。男に対して、あなたって、あたしのことを本気で好きなわけではないでしょう、と相手の本心を捜る意図がこの歌にはあるからだ。それにしては、女の歌の内容は、死ぬなどと表現的にややオーバーなのだが、『源氏物語』の地の文では、「艶」であると讃められてもいる。当意即妙な受け答えがよしとされたのかもしれない。
 ここで、俊成の判詞に戻ると、「花宴」巻には、たしかに「艶に」という言葉があった。俊成は、良経の歌を「艶」と讃め、『源氏物語』「花宴」は「殊に艶」であると言っている。それはこの場面を指すと見てよいだろう。つまり、俊成は、良経の歌から『源氏物語』「花宴」のこの箇所を思い起こして、おそらく良経も同様にこの場面から「見し秋を」歌を詠んだに違いない、と考えたのだ。それから一歩進んで、「『源氏物語』を読まない歌人は駄目だ」というように、基本的教養としての『源氏物語』が知らない歌人を批判する言葉が出てくるのである。
 以来、俊成のこの言葉は一人歩きをして、歌人であるなら、『源氏物語』の素養が不可欠であると思われるに至っている。だが、歌を詠んだ当人である良経は、本当に『源氏物語』から「見し秋を」歌を詠んだのだろうか。まずは、この歌を解釈することから始めてみたい。

  見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに

 歌の内容は、見た秋をいったい何に残したらよいのだろう。花が咲いていた草の原もまるっきり変わってしまった野辺の景色のなかで、というものだ。花が咲き誇っていた草の原も「枯野」の題通りに、今ではすっかり枯れ果てている。だから、かつて見た秋の美しい風景はどこにも残っていないと言うのである。
 この歌と『源氏物語』「花宴」の「うき身世に」の歌とでは、「草の原」が共通するが、強いて言えば、「ひとつに変る」と「やがて消えなば」と意味的に近いことは言えるかもしれないが、和歌の達人である良経であっても、『源氏物語』の「うき身世に」歌から、「見し秋を」歌を思いつくことはかなり大変なことだろうし、仮にできたとしても、想像を絶する飛躍を要したことだと想像されよう。
 とすれば、良経が何に拠ってこの歌を詠んだのだろうか。ちょっと困ってしまうが、『源氏物語』の影響下で生まれた『狭衣物語』巻二冒頭にある歌に目を向けると、別の視界が開けてくる。

  尋ぬべき草の原さへ霜枯れて誰に問はまし道芝の露   
  (旧大系本)

 「尋ぬべき」歌は「草の原」「問はまし」とあるから、『源氏物語』「うき身世に」歌から想起されて詠まれたものだろう。しかし、大きな違いもある。それは「霜枯れて」という言葉が『狭衣物語』の歌にはあることだ。そして、この「霜枯れて」が良経詠と深くつながっていくことに気づいただろうか。
 私は、良経は、『源氏物語』よりも、『狭衣物語』の「尋ぬべき」歌を見て、「見し秋を」歌を詠んだと推測している。その理由は、やはり「霜枯れて」という言葉である。これが歌の題である「枯野」とそのままつながっていくからだ。
 となると、俊成はどうして『源氏物語』をこの歌の本歌と言ったのか、という新たな問題が出てくることになる。俊成が『狭衣物語』の歌に気がつかなかったというのが一等わかりやすい答えだが、これではおもしろくない。「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と高らかに言い切っている俊成の態度から、私は俊成の別の狙いを考えてみたい。

2―俊成の明確な古典意識の理由

 それは、『源氏物語』という古典を重視せよという俊成の強い主張である。『源氏物語』が古典、言い換えれば、皆が知っておかなくてはいけない権威のある書物となったのは、実はそう古いことではない。安元元年(一一七五)に三十八歳で亡くなった世尊寺伊行が『源氏釈』という注釈書を残しているが、これが『源氏物語』の最初の注釈書である。古典とは注釈のある本のことと、本書でも述べているが、『源氏物語』の成立がだいたい寛弘五年(一〇〇八)前後とされているから、最初の注釈が出るまで最低約一六〇年くらい経っている。つまり、その間は読まれることには読まれたが、注釈書が作られるほどは重視される本でも、権威のある本でもなかったということを示していると言ってよいだろう。
 ましてや、『源氏物語』から七十年前後経ってから成立した『狭衣物語』となると、読み物としては、かなり読まれて(当時、読むことは書き換えを含むから、書き換えられて)しまい、定家の時代には、基準となるテクスト(証本・定本)が作ることができなくなったほどだったというが(後藤康文〈一九五八〜〉『狭衣物語論考 【本文・和歌・物語史】』、笠間書院参照)、『狭衣物語』も決して上記で言う古典ではなかったのだ。
 だが、『源氏物語』の方は、俊成に至ると、彼は堂々と『源氏物語』を顕彰するようになる。つまり、「源氏見ざる歌よみ」云々の言葉は、言ってみれば、『源氏物語』古典化宣言ということになるだろう。
 この頃、俊成は別のところで、こんなことも言っていた。著名な俊成の代表歌に

  夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなりふか草の里 
 (古典ライブラリー『慈鎮和尚自歌合』)

という歌がある。この歌を俊成は、『慈鎮和尚自歌合』の中で、『伊勢物語』一二三段に基づいて詠んだことを告白している。
 それまで、古歌と言ったり、古物語などとぼやかして言うことはあったが、俊成になると、そうではなく、正しく『源氏物語』や『伊勢物語』と作品名を言うようになる。この違いは存外大きいのではないか。なぜなら、そこに、ぼんやりとした古典意識ではなく、はっきりとした明確な古典意識が窺われるからに他ならない。俊成は、『伊勢物語』・『源氏物語』は古典であり、今後和歌を作る上で一等大事な源泉である、だから、皆も勉強して己の素養とせよと言っているのだ。
 俊成の息子である定家は、『古今集』・『後撰集』・『拾遺集』という三代集のみならず、『伊勢物語』、『源氏物語』(青表紙本)の校訂本(定家本と言う)を作成した。他にも『更級日記』や三巻本『枕草子』の校訂本も作っているが(佐々木孝浩〈一九六二〜〉『日本古典書誌学論』、笠間書院参照)、そのなかで、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』の校訂本を作ったことは、父の意志を継いで、古典の核になる書物を整備し、これこそが読むべき古典的書物なのだと決めようとしたことを如実に示していよう。以後、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』(加えて『和漢朗詠集』)が日本の代表的な古典となっていったのである。
 してみると、古典というものは最初からあるわけではないのだ。俊成・定家のように権威のあるだれかが高らかに古典を重視せよ、これが古典だ、古典を知らないと駄目だと主張し、周囲の人がそれを受け入れることによって、古典が作られていくのである。俊成の行為は、その意味で画期的だった。日本において、古典と和歌によって、院・天皇の下に権力のある集団(公家・武家・寺家)が繋がれていく、即ち、古典的公共圏が生まれるのは、おそらく後嵯峨院の頃(一二五〇年前後)だと考えているが、その先駆けをしたのが、俊成であり、定家ということになるのである。
 最後に、どうして俊成は『源氏物語』『伊勢物語』を古典として仰げ、と叫んだのだろうか。おそらく、ある起源的書物を持たない限り、我々は漂流したままになって根無し草になってしまうという危機意識がそこにあったのではないか。俊成の生きた時代は、長く平和だった時代が終わり、保元・平治そして治承・寿永の内乱が勃発するという戦乱の時代でもあった。そのような激動の時代に生きるには、明確な基準がいる。それが古典ということになる。古典さえあれば、我々は過去と今をつなぐことができる。つまり、アイデンティティーを確保することができるのだ、と俊成は考えていたのだろう。俊成にとって、古典とは、生き、活動する原点にあるものだったのだ。
 読者にはなにか基準や寄る辺はあるのか、時折、自問していただきたい。