「教材を結びつける方法」(第4章2)を期間限定全文公開○古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

間もなく刊行の、古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。刊行までの間、少しずつ小出しにしていきます。期間限定です!

※なお、現在まで以下を期間限定で公開中です。ぜひご一読下さい。
https://bungaku-report.com/blog/cat32/

-------

7月中旬刊行予定です。

9784909658012_b.jpg

古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)
ISBN978-4-909658-01-2
C1037
A5判・並製・320頁
定価:本体2,700円(税別)

●本書の詳細はこちらから。予約受け付け中!
https://bungaku-report.com/blog/2018/06/post-185.html

-------

「教材を結びつける方法」

 授業で中心となる教材を扱った後に、あるいは途中に、そこに何らかの形で関連した教材を読むことがあります。教科書の中にあればそれを用いますが、多くは授業者がどこかで出会ったものです。私は読書をしながら、「これはあの教材と合わせると面白いかもしれない」とひらめいたら、コピーをとったりPDFで保存をしておいたり打ち込んだりして、いつでも使えるようにしています。
 新聞記事も何かの論説文が有益ですが、読者の投稿記事については明確な意見が多様にあるので、これも参考にして使うことがあります。今はデータベース化されているものもありますから、複数の新聞社の記事が検索できます。授業に関わるキーワードを打ち込んで、その情報を収集しておくと後々使えることがあります。また、読者の記事についていえば、たとえばAmazonのブックレビューを活用してみるとよいかもしれません。
 場合によっては授業者自身が教材同士に関連があると思っていたことを裏切って、生徒たちが別の関連を見出すこともあります。明確な関連や関係をもとに差し出していくことも必要ですが、やや緩いつながりしかないものをあえて差し出して、そこで2つないしそれ以上のテキストをどのように結びつけていくかというのも1つの挑戦的な授業だといえます。なぜなら、これは生徒の力を信頼し、授業者の想定を大きく超えた出来事が起きるかもしれず、しかもそうした出来事には未知の可能性が十分にあり、それに対して授業者がどのように対応できるのかが問われるからです。
 また、副教材、補助教材だけではなく、既に読んだことのある教材と関連させていくことも効果的であるように感じています。一度出会ったことのある教材と結びつけていくことを積極的に試みていくことは悪くはないように思います。
 たとえば、高校2年生で学ぶことの多い夏目漱石の「こころ」と中学1年生が学ぶことの多いヘルマン=ヘッセの「少年の日の思い出」。この2つは語りの構造が似ています。
 「こころ」は教科書では「先生と遺書」の抜粋ですが、冒頭は

  私はその人を常に先生と呼んでいた。

となっており、この小説の語り手は「先生」ではありません。しかし、「先生と遺書」の場面では、「私」は「先生」です。語り手も「先生」です。
 また、「少年の日の思い出」も、冒頭部分は

  客は、夕方の散歩から帰って、私の書斎で、私のそばに腰掛けていた。

とあり、語り手の「私」は「客」ではなく、やってきた「客」がエーミールとの出来事を語るというものです。これらを簡略な構造にすると次の通りです。これは、時系列に物語を整理したともいえます。

P115.jpg

 真ん中のA、Bの「私」は「先生」なり「客」から受け取った「物語」を語り直しているわけです。もちろん、そのためには「私」は「先生」や「客」の語りをしっかりと受け止めていく必要がありますが、「こころ」を授業で行う時には、最後に「なぜ「私」は「先生」の物語を語り直したのか」という問いを立てています。もちろん、この問いは「少年の日の思い出」でも有効です。「なぜ「私」は「客」の物語を語り直したのか」という風にです。このようなことを私は「リツイートの意味」という言葉で表現しています。私はTwitterをしているのですが、誰かのあるTweet(つぶやき)をこちらで再度つぶやき直す行為が「リツイート」です。誰かのつぶやきに被せてコメントを付すこともできますが、ただただリツイートをすることもあります。この意味は何なのでしょう。このことは「こころ」や「少年の日の思い出」についても考えることができると思います。
 さらに、そもそも「「先生」はなぜ「私」に語ったのか」、「「客」はなぜ「私」に語ったのか」という問いも立てられます。すなわち、ある種のトラウマや誰にも語ってはこなかった/こられなかった出来事を「この人(「私」)になら託すことができる」という問題について考えるためです。また、これは「山月記」で李徴が袁傪に語れた人物だったこととも併せて考えてみるのも面白いでしょう(実際には他の人間も聞いていますが)。▶注27
 他にも、このような構造を持っている教科書教材はありますし、教科書外のテキストでも多く見つかることでしょう。複数の似通った物語の構造を捉えていく学習があってもいいのではないかと思っています。
 当然のことながら、古典教材でも同じことができます。たとえば、『伊勢物語』の「初冠」は『源氏物語』の「若紫」で初めて源氏が少女(後の紫の上)を見つけた設定に影響を与えています。この場合、カリキュラムにも関わりますが、テキストが別のテキストに影響を与えていることがはっきりとわかる場合には、その内容を教える順番は考慮されてもいいと思います。

※注は本書でご確認下さい。