第5回 江戸の古典術~人々はいかにして引き継いだか?~|【連載】江戸の勉強術(古畑侑亮)

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第5回
江戸の古典術
~人々はいかにして引き継いだか?~


■嫌われる古典の授業

皆さんは、古典と言えば何が思い浮かびますか?

中高の国語の授業で習った『源氏物語』や『枕草子』、『徒然草』を思い出す方が多いでしょうか。

それでは、古典の授業は好きでしたか?

正直に言えば嫌いだった、苦痛だったという方が多いのではないでしょうか。むしろ、あんな意味のわからない古い言葉を覚えて、いったい何の役に立つのだろうかと疑問に感じている方も少なくないようです。

教育現場においても古典を学ぶ時間や機会はどんどん少なくなっています。それでは、いっそ無駄な古典の授業などやめて、もっと役立つ事務的・実務的な文章だけを教えればよいのでしょうか?

■消費される古典のコンテンツ力

一方で、学校の外に目を向けると、少し異なった風景が見えてきます。

『源氏物語』を中心に、とくにサブカルチャーの世界において古典は商品化され、消費の対象となっているのです。たとえば、大和和紀(わき)が『源氏物語』を漫画化した『あさきゆめみし』(1979年~1993年)は、2021年11月時点でシリーズ累計発行部数1800万部を突破し、最近でもNHKの大河ドラマで「光る君へ」(2024年)が放送されたことで関連イベントや書籍の出版が相次ぎました。「光る君へ」による滋賀県内への経済波及効果が年間で131億円にのぼったとの試算もあります。古典のコンテンツとしての影響力は、メディアや観光においてはむしろ注目されているのではないでしょうか。

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❶廬山寺(ろざんじ/京都市上京区北之辺町/筆者撮影)
2024年2月4日に京都に住む知人の案内で訪れた。紫式部の邸宅址として注目され、大河ドラマを見て足を運んだ方も多かったのではないか。

■休み時間に読んだ『田舎源氏』

話は平成の時代に遡りますが、中学生の頃、私は古典にハマっていました。しかし、原文を読むのは難しく、『源氏物語』は瀬戸内寂聴さんの訳で読みました。高貴で雅な世界になんとか近づこうと、傍らに『源氏物語絵巻』の本などを広げながらひと夏をかけて読んだのが思い出に残っています。読後の達成感はあったものの、刺激的な現代のメディアからすると少し物足りなさを感じましたし、何より原文ではないという点に隔靴搔痒(かっかそうよう)の感が否めませんでした。

それよりも親近感をもって読んだのが、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』でした(タイトルが長いので以下『田舎源氏』と略します)。大正4年(1915)に有朋堂文庫として刊行された『田舎源氏』が地元の図書館に所蔵されていて、それを借り出して読んだのでした。中学生の頭でいったいどこまで理解できていたのかわかりませんが、くずし字はすべて活字に起こされ、(描線は少し潰れているものの)だいたいの挿絵は掲載されていたため、絵を頼りに読み進めることができました。人物の髪形や服装が江戸の風俗で描かれていたこともあり、小さい頃から江戸が大好きだった私は、学校でも休み時間にひとり夢中になって読んでいました。

私は相当変わった中学生だったわけですが、『田舎源氏』とはいったいどのような作品だったのでしょうか? ストーリーを思い出してみたいと思います。

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❷柳亭種彦『偐紫田舎源氏』二編上(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2605025/1/3

主人公の光氏(みつうじ)と藤の方が『源氏物語』を模した衝立越しに描かれる。他の登場人物も富微(とし)の前--弘微殿(こきでん)の女御、藤の方--藤壺の女御、双葉の上--葵の上、空衣--空蝉、黄昏--夕顔というように、もとの『源氏物語』の人物名を彷彿させるものになっている。

■江戸っ子が描く室町の「光る君へ」

『田舎源氏』は、江戸生まれの旗本にして戯作者の柳亭種彦(1783~1842)が『源氏物語』のパロディに挑戦した長編小説です。版元は、鶴屋喜右衛門。文政12年(1829)から天保13年(1842)にかけて全38編が刊行されました。

舞台設定は、室町時代の足利将軍家。光君に擬せられた主人公の足利光氏(みつうじ)が、政争の渦中に紛失したお家の重宝の探索と謀反人の誅滅に活躍する筋立てとなっています。

物語は、歌舞伎でいう「東山」の世界に『源氏物語』の名場面を織り交ぜながら進んでいきます。山名宗全の藤の方への恋慕、光氏と藤の方の不義密通の偽装、宝剣の盗難事件などは、『源氏物語』にはない要素です。ちなみに、山名宗全は史実では足利義政の嫡子義尚を支持し、応仁の乱で西軍を率いる戦国武将です。

女性との交渉なども絡ませていますが、それは目的を遂行するためのカモフラージュというのがミソです。主人公の不義密通の話など、教室では恥ずかしくてとても読めなかったでしょう。中学時代の私は世間知らずで、最後には正義が勝つと信じていましたので、時代劇の「水戸黄門」あるいは曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』よろしく勧善懲悪の世界が痛快だったのだと思います。

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❸柳亭種彦『偐紫田舎源氏』二編上(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2605025/1/11

腰元の杉生(すぎばえ)と白糸が葵の枝を足利義正(8代将軍・足利義政がモデル)に献上しようと争う場面。ふたりのセリフにも「車」に関わる言葉が散りばめられている。これは、『源氏物語』葵の巻において葵の上の車と六条御息所の車が場所取り合戦をする「車争い」の場面のパロディである。

■教養としての『源氏物語』

『田舎源氏』は、シリーズの完結を前にして天保の改革で絶版処分を受けたものの、明治の世まで読み継がれる一大ロングセラーとなります。理由としては、➀人気浮世絵師だった歌川国貞が挿絵を描いたこと、➁大奥の女中方を筆頭とするファンの存在、➂『源氏物語』を知りたいという読者の欲求などが挙げられるでしょうか。

とくに3つ目は重要です。約200年の平和の間に古典教養がより広い下の階層まで広がっていったというのもあると思いますし、その結果『源氏物語』を知らなければ大人として恥ずかしいくらいに、常識となっていったのではないでしょうか。

しかし、『源氏物語』は全54帖の長大なストーリー。なかなか全巻は読み切れない人も多かったようです。12帖目の須磨(すま)の巻までで挫折した人をからかって「須磨源氏」なんていう言葉も生まれました。そして、「須磨源氏」となってしまった人や、読む時間はないけれど内容だけは教養として知っておきたいという人のための「あらすじ本」もたくさん出回っていました。そのような状況の中で、江戸っ子になじみ深い世界観のもとにリメイクされた『田舎源氏』は、歓迎されることとなったのです。

■『徒然草』は、いつ古典となったのか?

「日本三大古典文学」として『源氏物語』や『枕草子』とともに並べられるのが、『徒然草』です。現代では随筆文学あるいは「隠者文学」として知られていますが、実は中世の写本は、ほとんど遺されていません。同時代にはほとんど知られていない、読まれていなかった作品だったのです。

それでは、『徒然草』はいつ頃から読まれるようになったのでしょうか?

それは、実は江戸時代からです。世界で一番美しい本といわれる「嵯峨本(さがぼん)」の出版事業の中で見い出され、出版されたことがきっかけでした。嵯峨本は、江戸初期の豪商にして書家の角倉素庵(そあん/1632~1571)の主導で京の嵯峨野で作られました。美しい装訂と料紙、そして格調ある書体を木活字によって実現させたプレミア本です。ちなみに、国立情報学研究所の北本朝展さんらが開発した「そあん(soan)」(https://codh.rois.ac.jp/soan/)を使えば、誰でも簡単に嵯峨本の活字をデジタル組版できます。ぜひお試しを!

■読まれる『徒然草』

嵯峨本以来、注釈書も含めて非常に多くの種類の『徒然草』が江戸時代を通じて出版されました。それでは、どのような人々が『徒然草』を読んでいたのでしょうか?

大坂周辺の村々における読者の実態を調査した横田冬彦さんは、庄屋さんや商人、お医者さんの蔵書に、かなりの程度『徒然草』やその注釈書が含まれていることを発見しました。そして、元禄から享保にかけて(1688~1736)勤勉・倹約・正直・孝行といった〈通俗道徳〉を学ぶための書物として『徒然草』が盛んに読まれ、その講釈も行われていたことを明らかにしたのです。

■フェイクニュースに惑わされるな!

それでは、どのような講釈が行われていたのでしょうか?たとえば、宝暦2年(1752)に出版された静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)の『当世下手談義』巻4では、鵜殿退卜(うどのたいぼく)という人が徒然草講釈をしている場面が描かれています。そこで読み上げられたのは、第50段。同段には、伊勢国(現三重県)から女が鬼になって京都へ上ってきたという噂が広まり、京中がパニック状態に陥ったことが記されています。退トは、次に当時の事件や経験談に引き付けながらデマに踊らされる愚かさを説き、最終的にこのようなフェイクニュースに惑わされないようにという教訓に落とし込むのです。

❹静観房好阿『当世下手談義』巻四(国文学研究資料館所蔵).jpg
❹静観房好阿『当世下手談義』巻四(国文学研究資料館所蔵)https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005565/72?ln=ja
主に町人とおぼしき聴衆が描かれる。この講釈は少人数だが、談林俳諧を広めた岡西惟中(いちゅう)が天和2年(1682)に伊予(現愛媛県)に招かれ、寺院で講釈をしたときには、老若男女200余名が押し寄せたという。

■松永先生...‼ 新注で講釈がしたいです......

徒然草講釈は、いつ頃から始まったのでしょうか? その元祖ともいわれる松永貞徳(1571~1654)は、慶長8年(1603)頃のこととして「儒学・医学の若き人々」に『徒然草』を講釈してほしいと頼まれたエピソードを記しています。その読書会の会場で、後に儒学者として幕府に仕える林羅山(1583~1657)が「勉強のため、朱子の新注を講釈してみたい」と言ってきたので、「それは良きこと」と答えたそうです。

朱子学の大成者・朱熹(しゅき)が四書(『大学』『論語』『中庸』『孟子』)に施した注釈は「新注」と呼ばれていました。まだ若かった羅山たちは、旧世代の日本の儒学研究に飽き足りぬ思いを抱いており、新注をテキストとして新時代の研究を推進しようとしていたのです。それと同列に並べられたのが、『伊勢物語』や『源氏物話』ではなく、『徒然草』であったのは、大変興味深いことです。

当時『徒然草』を研究していた人たちの中には、中国由来の学問を研究している漢学者が多く、朱子学をベースとした現実主義・合理主義的な思弁に惹かれていました。彼らは自分たちの世界観や問題意識に近いものが『徒然草』に見られることに驚いたのです。

貞徳の回顧談を紹介した川平敏文さんは、「儒学・医学の若き人々」が意図したのは、彼らの新しい価値観、あるいは学問的方法で『徒然草』や『太平記』を読み直すことであり、それが江戸初期にかけての『徒然草』への関心の盛り上がりの背景にあったのだと考察しています。

■ビジュアルでわかる 『徒然草』

貞徳の講釈の手控えをもとにして慶安5年(1652)に刊行された注釈書が『慰草(なぐさみぐさ)』です。

実際に本書を開くと、多くの挿絵が入っていることに驚かされます。その数なんと157枚(!)これはもう絵が主体の「絵本」です。当時「慰み本」といえばすなわち「絵本」を指し、女性や子どもの「慰みのため」に書いたという表現は絵本の跋文の常套句でした。貞徳の注釈は、「絵本」のスタンスと体裁を取り入れたもので、知識がない人でも、絵からある程度その内容が推測できるような本を目指したのです。

❻松永貞徳『なくさみ草』巻二(1652)「第五十段」大意(国文学研究資料館所蔵).jpg
❺松永貞徳『なくさみ草』巻二(1652)「第五十段」大意(国文学研究資料館所蔵)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200016213/106?ln=ja
鬼女の噂がひとり歩きして、ついには争いにまで至ってしまった様を視覚的に描き出している。ついには「鬼の空言は、この感染症の前触れだったのだ」と言い出す始末。コロナ禍の中でのデマやフェイクニュースを思い出させるエピソードである。

■君たちはどう生きるか

各章段ごとに「大意」が付されていることも『慰草』の特徴です。その章段の内容をまとめることもあれば、類話として貞徳自身が見聞きした話を、ときに本文よりも紙幅を費やして記すこともあります。

たとえば第99段は、何ごとも豪華であることを好んだ堀川相国(しょうこく)が、役所に伝わる古い唐櫃を新調しようとして、庁務の故実を知る官僚たちから諫められた話です。それに続けて、「家督をうけとるへき人なとによく見せたき」と貞徳による文章が記され、近い時代では茶人として有名な古田織部(1544~1615)が、天下の名物を勝手に破壊して作り変えるという「あさましき事」をたびたび行ったという具体例を紹介します。そして、その頃も『徒然草』は世にもてはやされていたが、「大意」を読み聞かせる「読み手」がいなかったから織部のような人が出てきたのであろう、残念なことだとまとめています。

❺松永貞徳『なくさみ草』巻三(1652)「第九十九段」大意(国文学研究資料館所蔵).jpg
❻松永貞徳『なくさみ草』巻3(1652)「第九十九段」大意(国文学研究資料館所蔵)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200016213/187?ln=ja
古田織部の事例の前には、「親祖父の作りおかれたる住居をかへ、相伝の道具をうりて新しき器物になし、天道にそむく事をしらぬものおほし」と記される。現代でも、見栄えや経済性を優先して、代々大切に守られてきた家財や文化財を作り変えたり、捨ててしてしまう人が少なくないのではないか。

どんなに優れた研究やよい本があっても、その内容や意義をわかりやすく教え、伝えられる人がいなければ、社会に受け入れられないのは、現代も同じです。貞徳はそのような啓蒙的な役割を果たす教育者の必要性を感じ、みずからその任にあたったのだとして、川平さんは徒然草講釈を次のように位置づけています。

女性や若い人々に対して、兼好が残してくれた知恵をどのようにきちんと伝えるか。その意味で徒然草講釈とは、『伊勢物語』や『源氏物語』といった古典の講釈とはまた別種の、生き方セミナーのような性格を備えていた。
(川平敏文『徒然草 無常観を超えた魅力』中央公論新社、2020年、33頁)

貞徳らは、私たちはどう生きればよいのかという、きわめて切実な課題を『徒然草』を使って説いていたのであり、それゆえに江戸の人々の心を捉えたのではないでしょうか。

■何を引き継ぎ、如何に生きるべきか?

2022年改訂の高等学校学習指導要領では、「急速なグローバル化が進展する」社会の中で「自らのアイデンティティーを見極め、我が国の一員としての責任と自覚を深める」ために、古典についての教養やそれを活用する能力が求められています。もちろん、アイデンティティの確立のために古典は欠かせませんが、そんな高尚なところへ持っていく前に、いろいろと使えるものがあるのではないでしょうか。

現代の日本では、「イノベーション」が叫ばれ、新規性ばかりが求められています。そのあおりを受けてか、研究の世界においても業績と"オリジナリティ"が常に問われています。しかし、まったく何もないところから新たなものを創り出すことはできません。むしろ既存のものに手を加えたり、つなぎ合わせたり、見方を変えたりするところから面白いものが生まれてくるのではないでしょうか。そういった場でこそ古典は、よい素材や発想を提供してくれそうです。

古典を学ぶ価値について思索した前田雅之さんによれば、世界は、古典・古典語をもつ国・地域とそうでない国・地域に分かれるそうです。前田さんは、それを〈宿命〉と表現していますが、せっかく古典の豊かな国に生れたのなら、その遺産を引き継がない手はありません。

日本は近代以降、古典を冷遇し続けてきましたが、今ならまだ間に合います。遺産を引き継がんとしたとき、江戸の人々の古典術は、その活かし方について多くのヒントを与えてくれるはずです。古典に携わる研究者もまだまだ発信方法を鍛えていかないといけませんし、その成果を子どもたちや社会へとしっかり伝えてくれる表現力豊かな教育者やジャーナリストを育てていく必要がありそうです。

ところで、会読する仲間や講釈してくれる先生はいつも周りにいるとは限りません。見つけられないときはどうすればよいのでしょうか?そのときは、自ら学ぶしかありません。次回は、江戸の人々の独学術をのぞいてみたいと思います!

■参考文献
柳亭種彦作・塚本哲三校『偐紫田舎源氏』上・下(有朋堂書店、1927年)
柳亭種彦作・鈴木重三校注『偐紫田舎源氏』上・中・下(岩波書店、1986年)
中子裕子「無足人の読書と文芸」(『奈良歴史研究』48、1998年)
横田冬彦「『徒然草』は江戸文学か?―書物史における読者の立場―」(『歴史評論』605、2000年)
川平敏文『徒然草の十七世紀 近世文芸思潮の形成』(岩波書店、2015年)
佐藤至子『江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち』(吉川弘文館、2017年)
前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信、2018年)
勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信、2019年)
長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信、2019年)
川平敏文『徒然草 無常観を超えた魅力』(中央公論新社、2020年)
小川剛生『徒然草をよみなおす』(筑摩書房、2020年)
ロバートキャンベル編著『日本古典と感染症』(KADOKAWA、2021年)
前田雅之『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』(光文社、2022年)
菱岡憲司『その悩み、古典が解決します。』(晶文社、2024年)
小山市立博物館編『江戸時代の本と読書』(小山市立博物館、2024年)
鈴木俊幸『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』(KADOKAWA、2025年)

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