俳文学会東京研究例会:第477回(2025年4月26日(土)午後2時30分~午後5時、江東区芭蕉記念館会議室)

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研究会情報です。
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俳文学会東京研究例会:第477回

日時:4月26日(土)午後2時30分~午後5時
場所:江東区芭蕉記念館会議室

【研究発表】

○早乙女牧人氏「「されどこは我が知る所に非ず」――子規が批判した幹雄の神社」
かつて深川にあった芭蕉神社は、正岡子規ら日本派によって月並俳人と位置付けられ、とくに舌鋒鋭く批判された三森幹雄らの手によって建てられた神社である。本発表では、子規の芭蕉崇拝への批判と、幹雄がなぜ芭蕉を祖神として崇拝し、芭蕉神社を建てるまでに至ったか。その足跡をたどる。この点で、従来の研究を超えた真新しさは本発表にない。しかし、子規が『病牀六尺』で存在を示しながら、これまで確認されてこなかった芭蕉神社への寄附金を募る印刷物がある。その刷物に自分の名が「補助員」として掲載された子規は、病牀から「されどこは我が知る所に非ず」と強く訴えた。本発表が示し得る唯一の新しさは、この刷物を紹介しつつ発表する点にある。

○玉城司氏「元禄三年十一月十四日付曲水宛芭蕉書簡(写し)―桃印と寿貞をめぐって―」
田中善信氏は、元禄三年十一月十四日付曲水宛芭蕉書簡(写し)を、まったくの偽簡と判定された。一方、今榮藏氏は芭蕉真蹟書簡と認定され、この書簡から桃印が京橋弓町の石丸見桃に仕える商人だった故に、一句も俳諧が遺っていないことが実証された、と考えられた。
本発表では、この書簡を真蹟書簡として読むことを提案して、同年六年四月二十九日付荊口宛の芭蕉書簡と同年七月に執筆した「閉関之説」と『野ざらし紀行』(成立年に諸説あり)の素堂跋文(孤屋本・清書絵巻子本)を一連のものとして合わせて読みたい。  
すると「色は君子のにくむところにして」から始まる「閉関之説」に桃印と寿貞が密通・駆け落ちしたことの「苦悩と自責の念」を読む田中氏説の傍証となり得ると思う。