上代文学会:秋季大会シンポジウム(2024年11月9日(土)13:00~17:00、駒澤大学三号館(種月館)二〇五教室、+オンライン(Zoom))※オンライン参加のみ要申し込み
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●公式サイトはこちら
https://jodaibungakukai.org/07_autumn.html
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※詳細は上記サイトをご確認ください。
日 時 二〇二四(令和六)年十一月九日(土) 午後一時~五時
会 場 駒澤大学三号館(種月館)二〇五教室
Zoomを使用したオンライン参加もできます。オンライン参加を希望される会員の方は案内状の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
対面でご参加の方はお申し込み不要です。当日会場で発表資料をお渡しいたします。
※今後のコロナ感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。
神話のことば・歌のことば――音やイメージの類同をめぐって――
神話のことばと歌のことばには共通するコードがあるように思われる。それは類同する音やイメージが表現生成の導因となる、ということである。たとえば、西郷信綱は『古事記』において水蛭子が葦船で流されるのは「不良」の子、つまり悪しき子であるからだとした(『古事記注釈』)。アシという音(シニフィアン)を介して「不良→アシ→葦」という連鎖が生成し、それが不良の子を葦船で流すというストーリー展開として表れたというのである。これは歌で言えば、「アシ」が掛詞として一首の眼目になりつつ歌ができるのと同じである(そのような歌が存在するかどうかはわからないが)。つまり、二つの語の音が同じであることは神話でも歌でも表現を生成させる導因となる。そのような事例は多く指摘できるだろう。
また、鈴木日出男は、『万葉集』巻4・502番歌・柿本人麻呂「夏野行く 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや」について、上二句の序詞と下三句の本旨をつなぐ掛詞「つか」(指をひろげた時の人差し指と小指の間の短い長さ/時間の短さ)を導く「夏野行く 牡鹿」のイメージは詠歌主体の「重苦しい恋の情を鮮明な映像」をかたどっており、そこに一首の眼目があると評した(「万葉和歌の心物対応構造」『古代和歌史論』)。こういうイメージの類同が神話の表現生成の導因になっている例も多くあるだろう。たとえば、佐佐木隆は三輪山型神話には「細くて長いものが狭い穴を貫く」というイメージがくり返されることを指摘している(『蛇神をめぐる伝承』)。
このように神話と歌に共通する表現のコードがあるという事実は文学の歴史を考える、それもできるだけ普遍的に考える際に重要なポイントではないだろうか。本シンポジウムでは、このような問題意識に基づき、神話のことばと歌のことばの共通するコードについて考えたい。
【参考文献】 猪股ときわ『異類になる』(森話社、二〇一六年) 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』(塙書房、二〇一六年)、『風土記文字表現研究』(汲古書院、二〇二四年) 尤海燕『古今和歌集と礼楽思想』(勉誠出版、二〇一三年年)、「『万葉集』四二九二番歌考――『崔禹錫食経」の利用を手がかりに――』(『古代文学』第六三号、二〇二四年)
パネリスト及び講演題目
神話的思考を喚起する歌―源氏物語と古事記と
東京都立大学教授 猪股 ときわ
『古事記』神統譜の文字表現
九州女子大学教授 奥田 俊博
『古事記』の「言向」と「礼」
華東師範大学教授 尤 海燕
(司会 和光大学教授 津田 博幸)