古代文学会:古代文学会9月例会(第776回)(2024年9月7日(土)14:00~17:00、共立女子大学 神田一ツ橋キャンパス 本館403講義室+オンライン(Zoom))※要申し込み

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研究会情報です。

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※詳細は上記サイトをご確認ください。

発表者 : 佐藤 陽 氏

題目 : 親の皮を被った異人 ―『常陸国風土記』筑波郡条の考察―

要旨 :『常陸国風土記』筑波郡条の福慈・筑波訪問譚は所謂「大歳の客」の話型を有するが、類型とは大きく異なる点がある。本発表ではまず歓待者/拒絶者の双方が来訪者に対して丁重な態度を取ることに着目し、二神が最初から来訪者の正体を知っていたはずだということを指摘する。当該説話は「大歳の客」の話型を有するにもかかわらず「神のやつし→聖なる顕現」という重要なプロットを持たないということであり、このことは、来訪者を「正体不明の異人」から「既知の尊属」とする大きな改変の加えられたことを示唆するだろう。解文というテキストの性格と同時代における政治思想を踏まえれば、この改変は孝の思想によって動機づけられていると考えうる。『常陸国風土記』に採録されるまでの何れかの時点で、当該説話は親に対する奉仕を主眼とする孝子説話に仕立て上げられたのである。
 ただし、「大歳の客」型の説話に馴染んだ受容者にとって、「正体不明の異人」という来訪者の印象を払拭することは困難であろう。この話型にとって「神のやつし→聖なる顕現」というプロットはなくてはならないものであったからである。したがって、当該説話における来訪者は異人と肉親との間で揺れる曖昧な存在にならざるを得ない。親密であると同時に疎ましい「神祖尊」という曖昧な存在をどのように捉えるべきか。
 そのことを考えるに当たり、本発表では中国の孝子説話における理不尽な親の類型を参照する。律令官人の目に触れたであろう中国の孝子説話を概観すると、自己犠牲的な奉仕によって親の課する無理難題を乗り越える孝子の姿がしばしば描かれる。悪意の有無はあるにせよ、親の欲求が理不尽であればあるほど子の孝行が際立つのである。尋常ではない孝子ぶりに天が感応して奇跡を生じさせる、というのが孝子説話におけるお定まりのパターンなのだが、この枠組みは「大歳の客」の話型と概ね一致する。敬意の対象となる既知の尊属でありながら理不尽な振る舞いにおよび、なおかつそれを乗り越えた者には祝福を与えるという神祖尊のちぐはぐさは、孝子説話における「親」と「天」の役割を神祖尊が兼ねているのだと考えればよく理解されるはずである。

(司会:西澤 一光 氏)