坂口安吾研究会:第43回研究集会(中原中也の会との合同開催)(2024年9月7日(土)14:10~、かめ福オンプレイス(山口市湯田温泉)+オンライン配信)

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
https://angokenkyu.fc2.net/blog-entry-33.html
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※詳細は上記サイトをご確認ください。

◇期日:2024年9月7日(土) 

◇会場:かめ福オンプレイス(山口市湯田温泉)
〒753-0056 山口市湯田温泉4-5-2

参加費:500円(事前申込不要・先着順)

※オンライン配信あり
(詳細は後日掲示いたします)

◇テーマ:昭和文学と同人誌──坂口安吾と中原中也
 昭和初年代、多くの同人誌が創刊された。坂口安吾と中原中也もやはり、その時期に同人誌を舞台として文学の世界にあらわれた作家たちである。
 安吾はアテネ・フランセの友人たちと「言葉」を創刊して「木枯の酒倉から」を発表、後継誌「青い馬」(二〇一九年に三人社より復刻版が刊行)には「風博士」「黒谷村」「FARCEに就て」などを執筆している。「風博士」を激賞した牧野信一が主宰する「文科」は同人誌ではないが、同誌を介して小林秀雄、河上徹太郎、青山二郎らと出会った。かつてアテネ・フランセに通ったことのある中原中也は河上らと創刊した「白痴群」に精力的に詩を発表、同誌廃刊後は雌伏状態になるが、一九三三年に創刊された「紀元」創刊を機にふたたび文学活動が活潑になる。安吾は「紀元」同人ではなかったものの、同誌との関わりは深い。
 同人誌での活動やそこで出会った人々が、安吾と中也、ふたりの作家にどのような影響を与えたのか。そのことを、ふたりの接点に必ずしもこだわらず、昭和文学の問題として考えたい。

◎講演:町田康(作家)「抑揚と跳躍」14:10~15:10

「抑揚でジャンプ」
 中原中也の事について話すに当たってその予告文をこれから書きますが、それについて今(七月五日)、漠然と考えていることと、開催当日(九月)までの間にまた考えが変わって別の話になるかも知れません。しかし、それは表面上のことで、根底のところではそれらは繋がっているので安心してください。といって皆様方におかれては別にそんなことを不安に思っていないのかも知れません。不安なのはむしろ此方なのでしょうよ。という、しょうよ、というのは私は山頭火の口調を真似ているのですが、そうした場合、関係ない山頭火の話をするな、という方もおらっしゃることでしょう。でもけっこう関係がありまして、山頭火は中原家と付き合いがあった。それを私は中原中也記念館の「山頭火と湯田温泉」という企画展の案内頁を見て知りました。中也の弟・呉郎と仲が良かったそうです。私が知っているのはそれだけですので、その話はいたしません。ではなにの話をするのかというと、調子、ということについて話をするのだと思います。前に、「坂口安吾と中原中也」というテーマで文章を書いたことがあって、その際、上昇することと下降すること、描くことと唄うこと、について考えたのですが、それから始まって、唄い調子、ということは今は滅せられて余りありませんが、短歌、と言って歌の字が付いていること、それから多くの人が歌詞付きの楽曲を自作してこれを自演していること、など含めて、抑揚による跳躍ということを中也がどれほどやっていたのか。ということをこれから考えて話そうかと思いおります。俺は何も知らないので、知ってることを話すことが出来ず、その都度のライブになってしまいますので、すみませんが予告はこんなことでお許しくだされ。

◎パネルディスカッション「同人誌『紀元』の空間」15:25~17:00
パネリスト:大原祐治・佐藤元紀
司会:吉田恵里

大原祐治
「文脈/人脈(コンテクスト)としての「演劇」――坂口安吾と中原中也の交点」

 坂口安吾と中原中也の邂逅は、雑誌『紀元』に即して語られてきた。この雑誌は安吾の文学的出発の場となった雑誌『言葉』『青い馬』の主要メンバーが中心となって創刊されたものであり、安吾自身は同人として名を連ねることこそしなかったものの、その活動には関わりを持ち続けた。中也は『紀元』創刊時に合流したメンバーの一人であり、創刊当初から約一年ほどのあいだ同人として名を連ね、同人を脱退した後も寄稿は続けた。
 中也の『紀元』への関わりは安吾の誘いに応じたものであり、二人を引き合わせる位置にいたのが『中原中也の手紙』の著者として知られる安原喜弘であることはよく知られているが、この関係が単なる偶発的な人脈上のつながりにとどまるものではなく、「演劇」という鍵語によってつながれたものであったということは、改めて留意されてよいだろう。
 成城高校在籍時から演劇に関心を示していた安原に宛てた書簡(一九三三年七月二〇日付)の中で中也は、『紀元』同人の中には「戯曲」であれば「テアトル・コメディ」にも「わたりをつけられるといふ人」がいることを記し、同じく演劇に関心を持つ旧知の富永次郎をも『紀元』に勧誘しようという意志を示していた。ここで言及された『紀元』同人とは、戦後に至るまで安吾との交友関係を続けた若園清太郎のことである。
 やがて新進気鋭のバルザック研究者として知られることとなる若園は当時、金杉惇郎と長岡輝子の主宰する劇団「テアトル・コメディ」の機関誌で、戯曲の翻訳を連載していた。若園の回想記『わが坂口安吾』によれば、『紀元』の同人会は西銀座にあった喫茶店「きゅうぺる」の二階を借りて開催していたが、その場所を使ったのは自らも関与していた「テアトル・コメディ」が「本読みケイコ場」として使っていた縁によるという。そもそも、野口孝一『銀座カフェー興亡史』に詳述されているように、築地小劇場にもほど近いこの店は、新派や新劇の関係者の溜まり場としても知られる場所であった。
 『紀元』の下地にあたる部分にかくも「演劇」という要素が流れ込んでいることを意識するならば、安吾と中也それぞれの文学的営為の見え方はどのように変わりうるだろうか。まず、両者にはタイミングこそ異なるものの、それぞれ「麓」(安吾、一九三四年)、「夢」(中也、一九二四年)という戯曲の試みがあるという共通点がある。さらに安吾においては、その文学的出発におけるマニフェストともいうべき「FARCEに就て」が、まさに「ファルス」(笑劇)という演劇用語を用いて語られていたという事実もある。両者はそれぞれ、小説/詩という自らの領分から踏み出しながら何を試みようとしたのか。いや、そもそも、小説や詩といったジャンルは、彼らにとってどれほど自明のものとしてあったのか、と問うべきか。若き文学者たちの集う同人雑誌が、既存の文学、既存のジャンル意識に対する境界侵犯の出発点となっていく様相について確認できればと考えている。

佐藤元紀
「中原中也とヴェルレーヌ――『紀元』における呪われた詩人」

 中原中也が『紀元』と関わった時期は二冊のランボオの翻訳詩集刊行と重なる。『紀元』が創刊された昭和八年に『ランボオ詩集《学校時代の詩》』(十二月)が当初の『紀元』出版元であった三笠書房から刊行され、未刊となった建設社版『ランボオ全集』を挟んで、昭和十一年に山本書店より『ランボオ詩抄』(六月)が刊行された。それに合わせるかのように、『紀元』誌面では中原によるランボオの韻文詩や書簡の翻訳が掲載されている。
 坂口安吾が「いはば彼のこの時代は少年詩人的な好奇心がすばらしく旺盛であるだけである。感覚も平凡であるし神経はむしろ鈍い」(「神童でなかつたラムボオの詩 中原中也訳『学校時代の詩』に就て」『椎の木』昭和九年三月)と評した『ランボオ詩集《学校時代の詩》』の詩篇とは径庭があるが、昭和八年には後期散文詩の「カシスの川」(十一月)の翻訳が掲載されている。昭和十一年には「涙」(五月)、「感動」(六月)、「夕べの辞」(七月)の翻訳が掲載され、「編輯後記」(七月)にて「毎号を飾つた中也さんのランボオ訳詩は、近々の内に「ランボオ詩抄」として山本書店の文庫の中に収録されることゝなつた」と紹介された。こうした中原の訳業に併せて、その晩年となった昭和十二年に野田書房版『ランボオ詩集』(九月)が刊行された影響もあり、各誌では中原にランボオを重ね見る追悼文が散見される。
 しかし、かねてより『紀元』では中原にヴェルレーヌが透かし見られてきた。文圃堂書店から『山羊の歌』(昭和九年十二月)が刊行されて間もなく、「希くば、中也君の詩が、フランスに於けるヴエルレエヌの詩の如く、洗濯婆さんにまでも口遊ばれんことの一日の早きを!」(「中也君の態度」『紀元』昭和一〇年二月)と若園清太郎が言及している。また、三笠書房と袂を分かった昭和九年から長らく編集を担った隠岐和一は、「ヴエルレーヌと中原中也は、所詮、二つのものではなかつたのであらう」と評した上で、中原訳ヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン――Les Poètes mauditsより――」を引き合いに出して「いかに中原中也が、この文章のもつ精神に心惹かれてゐたかは、これだけでも解るやうな気がするのである」(「詩人の運命」『紀元』昭和十二年十一月)とその追悼文で回想している。『紀元』におけるこれらの言説が意味するところは何か。
 今回は『紀元』とその周辺とを射程とすることで、中原とヴェルレーヌというコンテクストを改めて問うてみたい。

◇坂口安吾研究会総会 17:10~17:40

※18時より懇親会を予定しています。詳細については後日掲示いたします。