有島武郎研究会:第75回全国大会(2024年6月15日(土)12:00〜、新宿歴史博物館 講堂およびオンライン)※要申し込み

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
https://arishimaken.hatenablog.jp/entry/2024/04/16/175931
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※詳細は上記サイトをご確認ください。

===プログラム===

開会の辞(12:00) 

《研究発表》12:05〜13:05
『カインの末裔』と『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
大野南淀

有島武郎と田中義麿の交流―新資料・田中義麿日記『未央手記』から―
中村建

10分休憩

《特集 有島武郎と近代出版メディアの隆盛》13:15~15:45
 (司会)荒木優太
【報告】13:15~14:35

有島武郎個人雑誌『泉』と左翼的ネットワーク
石井花奈

有島武郎と山田まがね、玉置真吉、草間京平の三人について
内田真木

『泉』と『文藝春秋』のあいだ――有島武郎と菊池寛
掛野剛史

14:35~14:45 休憩・質問募集

【討議】14:45〜15:45

閉会の辞(15:45) 

事務局連絡
総会(15:50)

○研究発表

大野南淀「『カインの末裔』と『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』」
 『カインの末裔』を外国文学との関わりにおいて読むのであれば、アメリカ滞在時に親しみ、帰国後に翻訳することとなるウォルト・ホイットマンの『草の葉』がまずもって思い起こされるだろう。実際、有島がホイットマンを称揚する際に見出す「ローファー」像を仁右衛門に見出すことは可能で、既に先行研究が示す通りである。仁右衛門は地主と小作人の社会関係の中で、地主にも小作人組合にも与しない。松川農場を妻と後にする彼らの姿は、「ローファー」と「随伴者」という「自由の中に住む人間の可能性」(「ワルト・ホヰットマン」)と解されることになるだろう。換言するならば、松川農場に入った「瞬間」に「失われた」「自然さ」が回復したということである。だが、もちろんあらゆる制度に属さず、あらゆる言説の外部に措定した「自然」に自己の本質を見出すには、有島武郎はロマン主義から十分すぎるほど隔たっている。先行研究が同時に示す通り、中編の結末は楽天的なものでもない。有島のテクストは安直なロマン主義のみならず自然主義や社会科学に還元されるものでないと考える本発表は、「外部」に措定した「自然」がいかに再度、言説構造と内部関係を生じせしめるかを考察するに、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』に着目したい。『ブリュメール』との直接的な影響関係は実証できないものの、アメリカ滞在時に社会科学に接近した「宣言一つ」の書き手はマルクスを「観念の眼」としてのみ距離を取って評価しており、その距離の淵源はマルクスの農村批判への批判と推しうる。解放することとなる狩太農場の所有者でもあった小説家にとってルイ・ボナパルトの支持母体としての農村批判は度外視できなかったはずであり(無論、ルイ・ボナパルトを肯定しているわけではないが)、それは社会学的問題(セルフメイドマン的松川農場の地主と、労働の主体ではなく土地に地代で束縛される小作人をめぐる関係)としての農村擁護のみならず、『カインの末裔』における主体の在り方、有島が理念とする彼独特の普遍主義への理解をも深めうる。というのも、有島の普遍主義はマルクス主義やキリスト教などの普遍主義からの「逸脱」「残余」を「再普遍化」しようとしたものであり、逆説的かつ必然的に、差異の中で「反普遍主義」をも含むからだ。こうした視座から本発表はなるべく具体的細部に着目しつつ、両テクストの再評価を試みたい。

中村建「有島武郎と田中義麿の交流―新資料・田中義麿日記『未央手記』から―」
 東北帝国大学農科大学教員時代の有島武郎については、一九〇九年から一九一五年頃までのまとまった日記が現存せず、その間の足跡を辿るには書簡のほか周辺人物による回想録などの記述を参照するほかなかった。具体的には、大学の同僚であった吹田順助『旅人の夜の歌―自伝―』(一九五九・一、講談社)や、学生であった鈴木限三『白堊校舎の新しきころ』(一九七〇・一〇、新樹社)、このほか田中義麿の追悼文「或る時代の有島さん」(『文化生活』一九二三・九)などが夙に知られている。田中と有島の関係については佐々木さよ「『宣言』論―自然科学との関連から―」(『文芸と批評』七(一)、一九九〇・四)などで言及されるのみで、『有島武郎事典』(二〇一〇・一二、勉誠出版)でも田中は立項されていない。
 日本における遺伝学の第一人者である田中義麿(一八八四~一九七二)は東北帝大農科大学を卒業後、同大助手、助教授、留学を経て九州帝国大学教授となった。札幌時代には遺伝学の講読会や、日本初の大学における遺伝学の講義を行っていた。その生涯に亙る日記を初めとする関係資料が二〇一七年~一八年に遺族から北海道大学大学文書館に寄贈された。この日記のうち一九〇三年~一九一六年のものが『未央手記』五冊として製本されており、山本美穂子「田中義麿日記「未央手記」をめぐって(一)―日露戦争下における札幌農学校予修科の学生生活」(『北海道大学大学文書館年報』一七、二〇二二・三)が検討を行っている。同日記には、田中の札幌農学校や改編後の東北帝大農科大学での学生・教員としての生活、読書内容に加えて、有島武郎との交流に関する記述も多く、大学教員時代の有島の姿を垣間見ることができる。
 本発表では、『未央手記』から窺える、有島と田中の宗教・思想・芸術に関する会話・議論、吹田順助、足助素一、武者小路実篤らも交えた面会、有島による田中の英語論文の校正といった両者の交流の実態を明らかにするとともに、その意義を示したい。

○特集

岡望「発表趣旨」
 有島武郎と雑誌との関わりを考えていくと、まず考えられるのはやはり『白樺』である。白樺派の一人と目される有島とその関係性については、有島武郎研究でも焦点を当てられることが多く、この有島武郎研究会でも数多くの特集が組まれてきた。その結果、生まれた成果も多大であるが、今回の特集ではもう一歩踏み込んで、近代出版メディアの領域にまで展開する。雑誌だけではなく、出版メディアとしたのは新聞や同人誌、機関誌などを含めた多数の媒体にわたって対象にしたいからである。大正期の出版メディアの成熟と共に、それを通した有島の新たな一面を見つけていくことを本特集の目的としたい。
 有島のメディアとの関わりを考えていくと、まず単純に投稿媒体として活用されたことが挙げられるだろう。例えば『白樺』は言うまでもなく、『カインの末裔』は『新小説』に、病気のため中絶したものの『生れ出づる悩み』は『大阪毎日新聞』に連載したことなどである。媒体として注目することがまず考えられる。
 また、論争の場としてメディアが活用されたことも興味深い。「宣言一つ」論争を考えてみると、「宣言一つ」が『改造』に投稿された直後、文壇から数々の反論が飛んだこともあったが、『改造』でそれらの反論の一部がまとめられたこともあった。「宣言一つ」論争は『改造』というメディアを通して形成されてきたところもある。このように文壇との接点として考えることもできよう。
 そして、有島自身が個人雑誌『泉』を創刊したことも取り上げられる。創刊の経緯として、雑誌や新聞の期日に迫られるのが不満であったということもあり、有島の出版メディアそのものの考えを色濃く残している。
 今回の特集は対象とする領域が極めて広範ではあるが、様々な分野と接合しているメディアという性質上、取り上げられる題材は様々な広がりを見せるものだと期待できる。この点で有島研究の新しいアプローチができればと思い、今回の特集に取り組んだ。 

石井花奈「有島武郎個人雑誌『泉』と左翼的ネットワーク」
 本研究は、有島武郎個人雑誌『泉』というメディアの全体像の呈示を目指すと共に、その出版元である叢文閣を中心に形成されていた人的ネットワークに迫ることで、文学史・出版史・社会運動史の結節点として『泉』および叢文閣を位置づけようとする試みである。本発表をその第一歩としたい。既出論文の内容と一部重複することを、あらかじめお断りする。
 足助素一が設立した叢文閣は一九一八年に創業、足助が一九三〇年に没して以後は妻・たつが引継ぎ、少なくとも一九三四年頃までは存続していたことが確認できる。事業としては有島専属の出版社として出発し、白樺派同人やその周辺作家たちの文芸書を手掛けながら、山川均『社会主義者の社会観』(一九一九年一一月)を皮切りに左翼物出版事業へと展開していった。叢文閣の経営期間は、プロレタリア文化運動の盛衰とぴったり重なっているが、その実態はいまだ詳らかでない。『泉』第一巻第二号(一九二二年一一月)末尾にある「出版部のこと」には、佐々木孝丸、村松正俊、平林初之輔、小牧近江、藤森成吉、秋田雨雀らが叢文閣の運営に関与する運びとなった旨の記載がある。一瞥して明らかなように、いずれも『種蒔く人』同人である。したがって叢文閣を中心に形成された人的ネットワークに迫ることは、プロレタリア文化運動の、特に初期の動向に光を当てる作業でもある。
 叢文閣における左翼物出版事業の初期段階を支えていたのは主として有島の著作、特に『泉』であったと推測される。もともと『有島武郎著作集』という特異な出版形態を好んだ有島だが、これと『泉』との大きな違いは定期刊行物という点にある。生活改造以後の有島が、自身の「仕事」や「労働」について度々言及していたことは改めて注目されてよい。月に一度のペースで一定の分量の著作を仕上げることは、それまでの作家生活とは異なる「労働」的生活リズムをつくり出すからである。その収益が叢文閣の事業を支え、ひいては左翼物の発刊・流通を支える--―このような循環の様相を見極めることに本発表の眼目を置きたい。

内田真木「有島武郎と山田まがね、玉置真吉、草間京平の三人について」
 有島武郎と絵葉書作家山田まがね、ダンス王玉置真吉、孔聖・謄写印刷の神様草間京平との関係について報告したい。
山田まがねは絵はがき作家であり、「あきれるばかりに多作な作家である。それだけの人気作家だったはずだが、経歴等まったく不明。」(林宏樹編『ニッポンのろまん絵葉書』、グラフィック社、二〇〇四年、三六二頁)と評される人物である。管見では、まがねの事跡を示す資料は見当たらず、まがねに宛てた有島の書簡はまがねの事跡を示す唯一の資料であるかもしれないのである。
 玉置真吉は社交ダンスの普及に尽力した人物として知られているが、一方で、メロディー社を創立し、浅草オペラの「楽譜」を絵葉書して売り出していた。有島と玉置との交際を示す資料は見当たらないのだが、玉置の生涯には有島との接点が数多く認められる。玉置がキリスト教信者であったこと、沖野岩三郎や大石誠之助等と親しく交わり、大逆事件の被疑者となった経験があること、同郷の西村伊作の要請により文化学院創設の実務を担っていたこと、有島の義妹章との交流があったことなどである。
 草間京平は足助素一の叢文閣で働いていたことが縁で有島の知遇を得る。草間は有島宛に送られた同人誌の下読みをし、謄写版印刷の改良を思い立つのである。草間が黒船工房(一九二三年)を創設する時、有島は創設資金として百五十円を草間に贈与したというのである。
 まがねの「絵葉書」、玉置の「楽譜」、草間の「謄写版印刷」はメディア発展史ではどのように位置づけられるのだろうか。「絵葉書」「楽譜」「謄写版印刷」に共通するのは安価であること、取り扱いが簡便であること、それ故、庶民よって大量に利用されていたことなどが挙げられる。
 戦前までの「絵葉書」は題材や形式が多様であり、発行元も、個人から政府機関まで多岐にわたっていた。また、発行数も大量であり、まがね個人に限っても、約四〇〇の新しい絵葉書を考案していたのである。
 「楽譜」についても、メロディー社からは、一九一六年から一九二一年までに、約一〇〇の新譜が刊行されている。また、「謄写版印刷」の場合も、用具の入手が容易であり、素人でも六〇〇~八〇〇枚の印刷ができる。「絵葉書」や「楽譜」は昭和初期には衰退するが、「謄写版印刷」は、戦後も、定期刊行物や同人誌、学校の印刷教材などに用いられていた。
近代メディア先進国アメリカの留学経験があり、海外情報に通じた人脈を持ち、自家用の電話機を備え、高価な油絵の掛かった応接室でレコードに耳を傾け、息子たちと活動写真に興じていた有島が示したまがねや草間への関心と厚遇の意味を検討したいと考えている。

掛野剛史「『泉』と『文藝春秋』のあいだ――有島武郎と菊池寛」
 有島武郎が『泉』を創刊したのは一九二二年一〇月。菊池寛が『文藝春秋』を創刊したのは一九二三年一月。有島と菊池という作家の存在からいえば、そしてそれぞれ雑誌の行く末を知っている現在の目から見れば、二つの雑誌はまったく異なるもののように映るが、当時の出版状況に置いてみると、創刊時期の近接ということ以外に、二誌の存在は意外に近い距離にあったはずだろう。
 「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼ねなしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅ/\してゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。」
 よく知られる『文藝春秋』の「創刊の辞」をここに改めて読むと、有島の「私は毎月雑誌新聞の類に何かを書かねばならなくされる。それが常によい気持ちを以てばかりではない。(略)而して遂に自分一人の雑誌を出して見ようといふ決心に到達した」という「「泉」を創刊するにあたつて」の内容と重なる点が浮かび上がって興味深い。だがあまり紹介されないが、菊池は編集後記にあたる個所では「『局外』と云ふ、高畠素之君一派の雑誌を見てゐると、つひあんな手軽な雑誌を出して見たくなつたが、愈々出して見ると、やつぱり手軽には行かなかつた。」とも書いていた。『局外』は『泉』と同じ一九二二年一〇月創刊の雑誌である。菊池は『局外』に何を見たのだろうか。
 本発表では、菊池の念頭にあった『局外』を『泉』と『文藝春秋』の間に置き、文壇や出版を巡る状況の中で両誌を考えてみたい。そこから有島と菊池という二人の作家の問題についても、あわせて考えることができればと思う。