専門知と民主主義を考える――行き過ぎた相対主義の中でーー『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波書店)刊行記念イベントから
Tweet2023年9月30日、ジュンク堂書店池袋本店で開催された『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波書店)刊行記念イベントでは、著者の小野寺拓也さん、田野大輔さん、そして『土偶を読むを読む』(文学通信)編著者の望月昭秀さんが登壇。
行き過ぎた相対主義の中で専門家はどのような役割を果たしていくのか.....「社会に開かれた「専門知」とは?」をテーマに語り合ったイベントを一部抜粋してお届けいたします。
※この記事ではX(旧Twitter)を「Twitter」と呼びます。
「ナチス」と「縄文」のきっかけ
小野寺:簡単に自己紹介をします。『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の著者の小野寺です。
田野:共著者の田野です。よろしくお願いします。
望月:『土偶を読むを読む』の編著者の望月です。よろしくお願いします。
小野寺:今回、この2冊を基にですが、なぜ作ったのか、そういう話は端折りまして。私たちの本は、要するにネット上ではびこる「ナチスは良いこともした?」のような、そういう俗説に対して具体的に反論していくという、そういう本でして。一方、『土偶を読むを読む』のほうは。
望月:『土偶を読む』(晶文社)という本が出たっていうのはまず前提としてあります。それがすごく売れて、いろんな賞も取ってしまったので。これまでの研究史や研究者や学芸員への取材などで検証して、そんなことはないですよと、全然違いますよということを言いつつ、土偶研究って、今こんな様子ですという話と。かつ、専門知を軽視する姿勢は......。
田野:皆目、見当違い。
望月:皆目、見当違いですよね、という本です。
小野寺:ナチスと縄文、ものすごくとっぴな組み合わせですが、望月さんは私たちの本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んで、どういうことを思われましたか。
望月:刊行前に『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の「はじめに」が公開されて、それを読んでみたらすごく面白かった。もしかして『土偶を読むを読む』と重なる部分があるかなと思い、刊行後に早速買って読んで、やはりいいな、と僭越ながら思いまして。Twitterで「勝手に連帯を感じております」と呟いたら、田野さんが。
田野:それを拾ったんです。
望月:そうです。そこで「私も連帯を感じています」とお返事いただき、両思いだったという。
田野:そうですね。
望月:そこからとんとん拍子でイベントやりましょうと。
田野:『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』が刊行されて、もう3カ月ぐらい経ちますが(2023年9月30日時点)、刊行直後からTwitter上でエゴサをして、感想、批判、肯定、いろいろな反応を自分で探して、間違ったこと、あるいは読んでいないのにタイトルだけ見て反発している人を引用リツイートして、「まず読んでください」と。「『はじめに』は岩波のホームページで無料で読めますから、まずこれを読んでください」というふうなやりとりを続けています。これを「モグラ叩き」と呼んでいますが、その中で望月さんのツイートが目に留まりまして、ここに両思いの人がいると。ジュンク堂さんからイベントのお話をいただいたときに、せっかくトークイベントをやるんだったら、分野は全然違うけれども、共通した問題意識を持っている方とぜひお話がしたいと考えまして、このような企画になりました。
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専門知と民主主義の相性
小野寺:いきなり本題に入りますが、結局専門知というものと民主主義というものが非常に相性は悪いという、そこが根本の問題だと私は思っていまして。対等な参加者たちが、みんなで対話を繰り広げるというのが民主主義ですよね。ですから、誰かが特権的な立場で物を言ったら、それは民主主義ではないわけですけれども。一方で、学問や専門知は、狭い空間で研究者同士が切磋琢磨して、学会などで業績を積んで認められていく、卓越性というものが前提としてあるわけです。
ですが、研究者が「いや、それは違います」とか「それは間違っています」と社会に対して言うと、相手の話にも一理があるよねとか、そういうふうに受け止めて話をしていく「民主主義的」なやり方と根本的に違う。専門家が「ここからここまでの議論はあり得るけど、これ以上はない」ときちんと知見を社会に提供しているからこそ、社会というのは一定の幅を持って認識が共有できているはずなのですが、そういう知識人が果たしている役割は、あまり尊重されなくて。
権威主義的で、上から目線で、民主主義的ではない。研究者が何かを発言するとそのように受け止められてしまう、そこが事の難しさと思います。まず望月さんから、この問題についてどう思うか、ご意見伺いたいのですが。
望月:『土偶を読むを読む』の最後の章で、民俗学の菅豊さんに専門知をテーマに寄稿していただきました。パブリック・アーケオロジーという学問の説明もしていただいています。やはり、いろんな立場の人が、一つの考古学のものに対して多彩な意見を出すということは、それは社会とのつながりにおいて否定するものではないと思います。例えば、一つの遺跡があったとしたら、その地域がもともと持っていたものだし、それをどう捉えるかっていうのは、ある程度オープンにしてもいいじゃないか。だけど、そこに専門家はいないといけない。学問的に見解が正しいもの、正しくないものというのは分けられるはずなので。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』もそうですが、TwitterをはじめとするSNS、これを言論空間と言っていいのか分からないですが、そこでは専門家不在でいろんな話や説が広まっていく状況がなぜかできあがっていて。だから田野先生が、従来専門家不在であった場所に対して突っ込んでいくのは、すごく面白い現象というか。
田野:でも、やっぱり反発されますよね。ブロックされたりもします。専門家と一般の方、その分け方もどうかという議論はありますけど、そういうふうに分けると、専門家は長いこと研究しているので、やっぱり知識量は違うわけですよね。
望月:全然違いますからね。
田野:それで、今回の本もそうですが、一般社会に対しては「これがファイナルアンサーです」といった感じで教える側に立つわけです。だから、一般社会とは垂直的な関係なんです。だけど、対話を重視する民主主義の原理というのは水平なので、そういう専門家の垂直的な立場は相性が悪い。この点、望月さんは水平的な場で一般の人が意見を言ってもいいけれど、そこに専門家もいたほうがいいというご意見なわけですよね。
望月:はい、そうですね。
田野:私の考えは少し違ってますね。私もNHKの歴史番組にときどき出演しているんですが、スタジオトークは芸能人2人と専門家1人という構成が多い。それで、ナチスについてのVTRを見た後にみんなが意見を述べるんですが、すべての意見が対等に扱われます。芸能人の当意即妙な発言と、私が専門家の立場から慎重に言葉を選んで述べる見解とが等価になるわけです。
望月:声の大きさ勝負になったり。
田野:話のうまさはありますね。そうなると、「いや、それでいいの?」と思ってしまいます。だから、そこはちょっと違うと思うんです。
望月: SNSだと、そこに専門家がいないと、『土偶を読むを読む』でも書かれていますが、「知」の「知外法権」状態というか。そういった場がどんどん広がっていくので、応急処置でも専門家はいたほうがいいんじゃないかなと、私は思うんですけど。
田野:もちろん、私が番組の出演を承諾するのは、専門家がいないともっとやばいだろうっていう思いがあるからですが......。
望月:もっとやばいです。
田野:だから、そんなに出たくなくても出るわけです。でも、やはり番組に出演してみると、そこで芸能人が言う「ゲッベルスって何かうそくさいよね」みたいな、すごく素朴な感想に対して、「いやそう単純な話じゃないです」といった専門家の見解が対等に扱われていいのかとは思ってしまいますね。
望月:でも対等には扱われないと思いますけどね、扱われていたかもしれないですけど。
田野:そうですかね。でも、だいたいインパクト勝負になってますね......。
望月:専門家は専門家なので。
小野寺:そこが教育の問題でもすごく深刻で。最近、「Shared Authority」と言って、「共有された権威」という話が議論されることが多くて。教員というのは権威ではなくて対等な存在で、生徒と対等に議論して自分も考えを発展させていく、そういう存在であるべきみたいな、そういうことがよく言われるようになっています。確かに、自分の家族の歴史を語り起こすときや自分の町の歴史を語り起こすときに、自分の町や家族についてはその人たち自身が知っているわけだから、そういう人にもShared Authorityがあるといった議論は、100パーセント賛成なんですけど。
でも、例えば「ナチスは良いこともしたよね」みたいな思いつきを授業で言って、それがもし教員に刺さるコメントだったら、それが権威の一つ、Shared Authorityの一つだみたいな議論になっているケースがままあって、それはすごく危ないというか。それは、ちゃんと階層を分けなきゃいけないでしょうと。
田野:それと、小野寺さんが「はじめに」で書いていることですが、最近の高校の授業では、歴史総合と言って、生徒一人一人に資料を見せて、自分の考えを言わせることが重視されるようになっているんです。そのことをちょっと危惧している面もあって。
ヒトラーが子どもを可愛がっている写真、あれも資料ですよね。あれを見せて、生徒に「どう思いますか?」と聞いたら、表情を見て「良い人そう」とか「ヒトラーって怖い人だと思っていたけど、実は良い人なんじゃないか」とか、そういう思いつきの意見が出てくる可能性が非常に高いですよね。それをそのまま、いろいろある意見の中の一つとして、ランク付けせずに尊重していいのかという。研究者としては、「ちょっとそれ、尊重するのはやばいんじゃないの?」と思うことがあります。
望月:この『土偶を読むを読む』では、やはりそれを言いたくて。研究者やこれまでの研究って積み重ねもあるし、すごいんだよっていうのが、まず言いたいことの一つではあったんです。
小野寺:でもそれを、研究者ではない望月さんが言うから良いのであって、我々が「研究者はすごい」と言ったら、もうただの自画自賛で権威主義の権化みたいになるから、それを誰が言うかが、すごく難しい問題ではある。
望月:でも、俗説の広まり方は速いというか。
小野寺:確かに。
望月:今、人文界隈でも問題提起されていると思うのですが、人文が遅い、遅いというか、まとまった文章で出版される工程に時間がかかるので、YouTubeやTwitterで、真偽問わず、面白いと思われたものが一気に広まったりするのは......。
田野:歴史もそうですね、「ゆっくり解説」とか。
望月:「ゆっくり解説」と言いつつ、速いんですよね。
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行き過ぎた相対主義の中で
小野寺:もう一つの質問ですが、最近思うのは、最終的に歴史意識の問題は、行き過ぎた価値相対主義の問題なのだろうなと思うことが多いわけです。確かに相対主義は、ある程度であれば社会を豊かにするし、支配的な価値観に対して、そうではない価値観を提示することで社会が複数化して強靱になると思うんですけど。でも今、私たちが直面しているのはそういうものではなくて、あらゆることが平場に引き下げられて「それって、あなたの意見ですよね」って、研究者の意見ですら言われてしまう、そういう現状があるわけです。だから、こういう行き過ぎた価値相対主義の中で、専門知っていうのがどういう役割を果たすべきなのか、それをお尋ねしたいんですけど。望月さん、お願いします。
望月:やはり専門家は、社会のアンカーのような、碇(いかり)のような役割を、その分野に関しては持っていないといけないんです。Twitterは言論空間として認めてしまって、学会だけが言論空間ではないと、専門家の皆さんも少しだけそのように認識していたほうが、もしかしたらいいのかもしれないと思うときはあります。
「土偶」はそこまで誰も傷つかないと思いますが、傷つく人もいることはいるんですけど、今、問題だと思っているのは、アイヌに対してのひどいヘイトスピーチが、Twitter内で増えていること。徐々に増えている。それはやっぱりちゃんと否定していかないと、アイヌの人たちが何か発信する度にヘイトがぶら下がってきたりするので、それはやはり人権問題、暴力なので。そういう深刻な分野に関しては、やはり専門家はちゃんと表に出てきて「モグラ叩き」でもしたほうがいいんではないかなと思うときもあって。専門家はやっぱり違うぞというのは、社会がそういうふうに思っていかないといけないので。
『土偶を読む』受賞時のサントリー学芸賞の選評で「「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず」と言われてしまいました。こういうところですら専門家がすごく軽くなってしまっていて、相対化がされてしまっている。この状況はやはりおかしいので、たとえ下品と言われても、気に入らないと言われてもどんどんやっていく、そういうフェーズに社会がもうなっているんじゃないかなと思っています。
田野:今、望月さんがすごく重要なことを言われていたと思うんですが、私の見るところ問題二つあります。一つは、今さっき小野寺さんがおっしゃっていた、あらゆる意見が等価、平場に引き下げられて、専門家の見解も一般人の思いつきの感想も対等に扱われるという点です。我々からすると、妥当性の高い意見と妥当性の低い意見はやっぱり明確にあるので。
望月:ありますよね。
田野:それは守らないといけないですし、そういう意味での相対主義には対処していかなければいけないというのが一つあります。
もう一つは、アイヌの問題を出されましたけど、人権とか、そういった道徳的な価値観とでも言うのか、ポリコレとでも言うのか、そういうものを守っていく必要です。これはナチスについても問題になっているのですが、ナチスは絶対悪だ、ナチスが悪いというのは、ほとんどの人におおむね共有されていると思うんですが、「ナチスは良いこともした」と言いたがる人は、ナチスを悪と決めつけること自体に反発してるんです。ナチスは悪い、犯罪的な体制だっていうことは学校でも教えられているし、公の場でナチスを肯定するようなことを言ったらクビが飛んだりするわけですが、「良いこともした」論者はそういった状況に反発してるので、そういう意味でも相対主義でもあるんです。
だから、その規範的な価値観を認めないというのは、それは非常に危険ですし、場合によっては、社会を解体させてしまうような破壊的な影響をもちえます。私たちの多くが、これは譲れないと考えているもの、社会を成り立たせてる根幹に関わる価値観も相対化しようとしてるわけですから、それに対してはわれわれ専門家としても「いや、それは違いますよ」と言わないといけないなと思っています。
望月:下品でも何でも、いや、やっていったほうがいいと思います。
小野寺:そうですね、価値相対主義が面白いと思うのは、人権やポリコレのような進むべき方向性、絶対的な価値観を否定するという点では、右派的、保守的なんですけど、一方で支配的な価値観に対抗する意味では、左派的な色彩を帯びることもあって。何が言いたいかって言うと、価値相対主義って右派とか左派とかイデオロギーではないんですよね、どっちにもはびこり得る、一歩間違えると本当に危険なもので。
で、私が行き過ぎた価値相対主義の何が危ないと思っているかと言うと、やっぱり人間って、ある程度以上の価値相対主義に耐えられなくなると思うんです。あれもあれ、これもこれっていうのは謙虚な態度に見えますけど、ある程度以上になると、人間そういう緊張に耐えられなくなって、ベタな考えとすごくくっつきやすくなる。ナショナリズムだったりとか、非常に保守的なジェンダー観だったりとか、そういうものと一直線でつながるところがあると思うんです。なので、価値相対主義と言うと謙虚に聞こえるけれど、そして、ある程度は社会を良くするけど、やはりこれ以上は駄目だといったことを、研究者は言わなきゃいけないんじゃないかなとも、私も思ったりします。