03 岡本綺堂の戯曲『東京の昔話』が描いたもの(1)|【連載】江戸が東京に変わるとき――松廼家露八(まつのやろはち)の場合(目時美穂)

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文学通信

03 江戸から明治の転換期『東京の昔話』(1)

 岡本綺堂には松廼家露八を主人公とした戯曲がある。

 『東京の昔話』と題されたその戯曲は、昭和7年9月1日に執筆に着手して15日擱筆。10月、歌舞伎座で舞台にかけられた。主演は、数々の綺堂作品の主役をつとめた二代目市川左団次。舞台美術は小村雪岱がうけもった。

 客の入りはどうだったのか、芝居の評価は高かったのかわからないが、昭和46年5月に再演されている。岡本綺堂はすでに物故していたので、弟子の岸井良衛が演出を担当し、舞台は、雪岱がのこした資料をもとに再現された。主演は十四代目守田勘弥である。

 この作品は、昭和7年、三十五区となった大東京市成立を祝うために書かれた。『昭和七年 吉例十月の大歌舞伎』に紹介されたあらすじには、「大東京実現に因みて明治初年の世相を語る」と紹介されている。昭和7年10月1日、これまでの十五区に、周辺の五郡八十二町村を改編して新たに二十区をもうけ、編入し、東京市は三十五区となった。この新大東京誕生の慶事に際し、そもそも東京がはじまったころ、半世紀前の東京の「昔話」をとりあげることにした、というわけだ。

 場面は慶応4年5月15日、上野戦争終結直後の、山谷堀今戸橋際の船宿梅屋。店先にいるあるじ善兵衛、帳場にすわる女将おせん、女中や船頭の耳には新政府軍による残兵掃討の銃声が聞こえている。

 山谷堀(現在は暗渠)は隅田川から三ノ輪方面へ通じる水路であり、吉原へかよう遊客が、浅草界隈から吉原の大門近くまで、贔屓の船宿から猪牙舟を仕立てて乗っていった。今戸橋は、隅田川から山谷堀にはいった最初の橋である。

 その船宿梅屋に、その日、ふたりの逃亡者が駆け込んでくる。ひとり目は、錦切れの留吉。もともとすりをなりわいとしていた留吉は、「官軍」の専横に腹をたて、新政府軍の兵士をみると、「官軍」のあかしとして肩に付けた錦切れを剥ぎ取っていたが、ついに気づかれて追われ、梅屋に逃げ込んだ。

 そして、その日、梅屋に逃げ込んできたもうひとりは、彰義隊の落ち武者。梅屋からは「湯嶋の殿さま」と敬われる常連のひとり、旗本の野井長次郎。土肥庄次郎(露八の本名)だ。

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二代目市川左団次の野井長次郎(『国立劇場』昭和46年5月より転載)

 この時の江戸庶民の感情は筋金入りの徳川贔屓である。梅屋出入りの幇間金八は、彰義隊の残兵を追う「官軍」の質問にこたえるふりをして煙に巻いてからかっている。心のうちでは、「どんな彰義隊だか知らねえが、隅田川の方角もわからねえ田舎者につかまってたまるものか」とののしっている。だいたい梅屋が、おなじみであった野井はともかく、錦切れの留吉までかくまったのは、「官軍」の錦切れを剥ぐという彼の行いを快としたからである。留吉は『戊辰物語』にも登場する実在の人物であるが、当時、留吉だけでなく、錦切れを剥いで抵抗の意志をあらわすものは、江戸中にいて、江戸っ子たちに喝采をもって受け入れられていた。明治初年に売られた「名誉新談」という錦絵にも彰義隊士の岡十兵衛という人が錦切れとりをしたことが書かれている。

 野井は、敵の追及を逃れるため、梅屋で町人姿に衣服をあらため、幇間の金八と錦切れの留吉と連れ立って遊客をよそおって吉原に潜伏した。そして、潜伏中、梅の家五八を名乗り、なしくずしに幇間になったようにみせながらも、本心では、ふたたび戦場に向かう機会をうかがっていた。

 しかし、友人の杉浦甚三郎を訪問した折、「江湖新聞」をみて、会津が落城まぢかであることを知る。生きる目的を失った野井は絶望して、上野の東照宮の前で腹を切って死のうとする。しかし、錦切れの留吉に、すんでのところで止められた。留吉は野井が杉浦甚三郎から、脇差しを購入した様子を見て、あやういものを感じひそかにあとをつけていたのである。

 このことがあってのち、気持ちがふっきれた野井は、頭を丸めて、本心から幇間になることを決意した。一方、錦切れの留吉は、巡邏の兵士に捕らえられる。連れ去られるところで終わるが、おそらく斬殺されたのだろう。

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船宿梅屋店先の舞台装置スケッチ(昭和46年再演時)

 『岡本綺堂戯曲選集 第8巻』の解説には、「露八のことは有名でありながら、その伝記はつまびらかでない。この劇に露八の名を用いず、五八としたのは、すべてが作者の空想よって成立っているからであろう」とあるが、上野を出て、千住方面に向かったが街道を固められていて突破できず、山谷堀の船宿(実際の露八の場合は船宿近江屋)に逃走の手助けをしてもらったあたり、偶然かも知れないが、不思議と事実に即している。

 岡本綺堂は、明治5年生まれで、吉原芸者をしていた女性を妻にした通人である(結婚は明治30年)。明治35年に幇間を引退するまで吉原ではたらいていた露八に実際に接していてもおかしくないし、その死後であっても、吉原には露八についての伝説が残っており、妻のお栄から話を聞くだけでも、その伝説を採取することができただろう。リアリティーという観点からしても、登場人物に実名をもちいて障りに思わないくらいの詳細な情報は得ることができたにちがいない。

 それに、そもそも、歴史に取材した戯曲を得意とした綺堂が、生涯の設定をかりた人物の実名をつかうことをはばかるとは思えない。明治40年上演の『維新前後』では奇兵隊の高杉晋作を高槻新作と変名を使って表現してはいるが、権力側の人間を描くのにいらざる介入を厭うて変名を使った可能性もある。が、昭和7年、すでに死去して30年以上をへた、いち幇間に名前を変える政治的配慮が必要とも思えない。それならばなぜ、主人公の名前を仮名にしたのか。

 ひとつ考えられることとしては、綺堂が表現したかったのは、露八ひとりの人生ではなかったということだ。岸井良衛は「芝居に出て来る野井長次郎は、露八という似たモデルはあるにしても、武士から町人に転向してゆく主人公は、とりもなおさず岡本先生のお父さんの血なのである」(「江戸ッ子の作家綺堂先生」『第四十一回=五月歌舞伎公演 国立劇場』昭和46年5月)といっている。

 綺堂の父、岡本敬之助は元御家人で、彰義隊に参加したのち、さらに故郷二本松(敬之助は二本松藩出身で幕臣の岡本家に養子に入った人)で新政府軍との戦闘に加わり、負傷し戦線を離脱した経験をもつ。綺堂が描きたかったのは、父であり、数多くいた幕臣たちの運命の典型であり、江戸・明治の転換期を生きた人間のひとつの典型なのだ。

 綺堂は、その典型たるひとりの男の運命を追うことによって、江戸が終わり、まさに東京がはじまった瞬間の町の、人々の、時代の空気を舞台に凝縮させたのだ。

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文学通信
目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』(文学通信)
ISBN978-4-86766-020-1 C0095
四六判・並製・376頁
定価:本体2,500円(税別)