02『相馬の金さん』と江戸っ子|【連載】江戸が東京に変わるとき――松廼家露八(まつのやろはち)の場合(目時美穂)

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文学通信

02 『相馬の金さん』と江戸っ子

 前回、松廼家露八こと土肥庄次郎は勝利に寄与するために彰義隊に加わったのではないかといった。だが、決戦と目していた上野で敗れてのちも、彼の戊辰戦争は終わらない。敗北ののちさらに、飯能の振武軍とともに戦い、ふたたび敗れて、江戸に舞いもどり品川の榎本艦隊に合流して、行けるところまで行こうとする。まさに不撓不屈。その間、弟たちはひとり、またひとりと櫛歯が欠けるように脱落していき、最後まで行動をともにできたのは長弟の八十三郎だけだった。

 なにが庄次郎にそこまでさせたのか。そこで、岡本綺堂の彰義隊にかかわる戯曲『相馬の金さん』(昭和2年作)をとりあげたい。この相馬の金さんの心情が、戦場に向かった露八の気持ちを代弁しているように感じるからだ。

 相馬金次郎は家禄百俵の御家人である。まじめにしていればそれなりに暮らせる禄高だが、始終遊蕩にふけっているため金がない。悪友の石澤寅之助とつるんで、質屋に出向き、刀箱にあらかじめ蛇を隠しておき、家宝の刀を質草にするが、家督者以外が目にすると蛇に変じてしまうので、品をあらためずに金を貸してほしいと言い張る。質屋はそれはできないと強引に箱をあけるが、箱からでてきたのは蛇である。金次郎は、家宝を蛇にしたと質屋をゆすり、ゆすり取った10両を協力者の石澤と山分けにして飲み代にするような人間である。けっきょく、この行状が上司の耳に達し、隠居させられてしまった。

 それが、慶応4年4月のある日、馴染みの店で酒を呑んでいて、「官軍」の兵士と口論になり、鉄扇で額を割られた。そのとき、勃如として彰義隊に加わることを決意し、弟を連れて上野に入ってしまう。弟に告げたその理由は、「おれがこれから上野へ駈け込まうといふのは、主人の為でもねえ、忠義のためでもねえ、この金さんの腹の蟲が納まらねえからだ。田舎侍が錦切れを嵩にきて、大手をふつてお江戸のまん中へ乗込んで来やあがつて、わが物顔にのさばり返つてゐる。それぢやあ江戸つ子が納まらねえ、第一にこの金さんが納まらねえ」(『綺堂戯曲集』第13巻)からなのである。

 こうして彰義隊に参加した金次郎だが、戦闘中足に二発の銃弾を受け、弟に助けられながら敗走、根岸の御形の松まできたところで、彼を案じて戦場に駆けつけた恋人の常磐津の師匠文字若と悪友の石澤寅之助に会う。しかし、恋人と友人の顔を見ても生き延びようという考えはわかず、これ以上の逃亡は不可能とすっぱりあきらめ、石澤に介錯をたのんで腹を切って死んでしまう。

 三田村鳶魚「相馬の金さん」(『三田村鳶魚全集』15巻)によると、相馬の金さんの本名は戸村福松といって、御広敷添番をつとめる御家人であっという。御広敷添番といえば、元治元年から父の跡を継いで御広敷添番となった中山共古の同僚である。

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東宝京都映画『相馬の金さん』
金さん役の海江田譲二と常磐津文字若役の月宮乙女。
(『キネマ旬報』651号、昭和13年7月21日より転載)
『相馬の金さん』は昭和8年にも寛寿郎プロから山本松男監督で映画化されている。主演は嵐寛寿郎、文字若は淡路千夜子。


 『江戸文化』(第3巻第4号)の「御広敷勤」には共古が同勤した人名と屋敷の場所(元治2年・慶応元年の「御役人武鑑」掲載とある)が記されているが、そのなかに「青山長者丸 戸村重太郎」という名がみえる。御広敷添番で戸村姓、さらに住まいは青山長者丸ということだから、彼が金さんのモデルにまちがいあるまい。金さんは素行に不埒なところがあって隠居させられてしまったというが、共古によると、御広敷添番は、慶応二年に大規模なリストラがおこなわれているから、素行・品行云々ではなくてそのリストラの影響をうけたのかもしれない。

 実録によると、金さんは上野では死なず、庄次郎とおなじく榎本艦隊に合流。庄次郎は咸臨丸に、金さんは美香保丸に乗った。出港してすぐ暴風雨にあって、咸臨丸は漂流してやがて清水に、美香保丸は千葉の銚子沖に座礁した。金さんは、陸に泳ぎわたる際に死亡したと鳶魚はいうが、いまも銚子にある上陸の際死亡した九人の名が刻まれた碑に戸村の名はない。陸にわたった美香保丸の生き残りは、ここで隊を解散し、それぞれ別個に行動しているから、その後の戸村の運命はわからない。もしかしたら、座礁以前に、海に転落して命を落としたのかもしれないし、銚子から江戸へもどる途中の無数の小競り合いのなかで戦死したのかもしれない。あるいは、戊辰戦争では死なずに、その後の世を生きたのかもしれない。

 それにしても、綺堂の戯曲の金さんの行動原理があまりに単純で、いまいち感情移入できない。おそるべき短絡さだ。

 この相馬の金さんこと戸村福松もそうだが、江戸で生まれ育った庶民も武士も、理解に苦しむほど「江戸っ子」であることに絶大な誇りを抱いている。

 子母沢寛の短編小説「玉瘤」に、彰義隊士花俣鉄太郎が新政府軍の残敵掃討にかかって、新政府軍の兵士に囲まれ、ずたずたに斬られて死ぬ場面がある。この時、花俣は敵に向かって「このいなかっぺえが」と罵って息絶える。「いなかもの」というのが、まさに絶命するその瞬間に、自分を殺す敵に投げつける最高の侮蔑の文句であったということだ。たしかに、当時は学問、文化、流行の発信地として江戸は進んでいたのだろう。とはいえ、江戸っ子というものに対するものすごい優等意識だ。これを読んだはじめは、こういうパーソナリティーの人物もいたのかと思ったが、ほかの事例をみてみても、どうやら江戸の侍(庶民も対して変わらないが)というものは、おおむね全般そういうものであったらしい。

 戊辰戦争を戦った江戸の武士のなかには、忠義とか、武士の意地よりも、田舎者にばかにされた。でかい顔をされた。ただそのことに腹を立てて戦った人もいたかもしれない。いや、意外に多かったかもしれない。

 岡本綺堂はいう。

金さんなる人物はいはゆる忠義のために死んだのではない。江戸つ子の一人として自家の意気と面目との為に死んだのであると云ふことは、出来るだけ詳しく説明して置いた。金さんは其当時の口癖になつてゐる「徳川家三百年来の御恩」などの為に死んだのではない。彼は自分のために死んだのである。(岡本綺堂『綺堂劇談』青蛙房、昭和31年)

 とはいえ、あまり江戸っ子を笠に着られると、鼻につく。綺堂の養嗣子、岡本経一によると、江戸を追想する作品を多く書きながらも綺堂自身は、やたらと江戸っ子ぶるいわゆる「反吐っこ」(岡本経一「岡本綺堂に就いて」岸井良衛編『江戸に就ての話』 光の友社、昭和30年)ではなかったというが、この相馬の金さんも、露八こと土肥庄次郎もまぎれもない「反吐っこ」である。

 天よりも高い江戸っ子の誇りを、「田舎者」に傷つけられた。彼らが、ひとつには江戸っ子の面目のために命をかけたことは間違いない。

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文学通信
目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』(文学通信)
ISBN978-4-86766-020-1 C0095
四六判・並製・376頁
定価:本体2,500円(税別)