望月昭秀編『土偶を読むを読む』より、「はじめに」を公開

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望月昭秀編『土偶を読むを読む』より、「はじめに」を公開します。ぜひご一読ください。

●本書の詳細は以下より
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望月昭秀編『土偶を読むを読む』(文学通信)
ISBN978-4-86766-006-5 C0021
四六判・上製・432頁
定価:本体2,000円(税別)

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はじめに

著・ 望月昭秀

 もしかしたら少し深刻なことなのかもしれない。

 2021年4月24日に晶文社から出版された『土偶を読む』という書籍が評判だ。出版から2年近く経ちそれでもなお売れ行きは好調のようだ。

 発売当日に合わせて同日の2021年4月24日土曜日のNHK総合「おはよう日本」の「土曜特集」(関東甲信越のみの放映、約10分ほどの枠)で、縄文時代の土偶の新しい説として紹介され、考古学者で土偶研究者、文化庁の主任文化財調査官の原田昌幸さんより「従来の考古学になかった発想で新たな学問形態の提案」というコメントが寄せられた。さらに、JBpressというオンラインメディアで当該書籍を一部抜粋・再編集された記事「『土偶の正体』がついに解明」も同日にアップ、それがTwitterなどのSNSで、綺麗にバズり(アカウント「ヤギの人」によるツイートが約11000リツイート、24000いいね)、多くの人の注目を集めた。ほぼ新人である(著作としては2冊目)著者の新刊が発売日当日のNHKの朝の番組で大きく取り上げられ、オンラインメディアでも特集が組まれることは異例だと言える。

 その上で各界の著名人が当該書を後押しする。養老孟司氏、鹿島茂氏、いとうせいこう氏、中島岳志氏、松岡正剛氏などなど。それに追随するかのように『土偶を読む』を推薦する(有名無名に関わらず)多くの人たちがあらわれる。

 付随するようにテレビ、ラジオ、雑誌、ネット配信番組、さまざまなメディアでも「植物像だった!」(角川武蔵野ミュージアム)や「土偶の謎を解いた」(『文藝春秋』2022年3月号)として取り上げられる。当該書は発売から3日で大幅な増刷。3週間で3刷、2ヶ月で4刷、半年で6刷と順調に部数を増やし、重版された帯には当然のように「養老孟司先生推薦」のコピーが踊ることになる。さらに同書の一般的な評価を決定づけたのは2021年サントリー学芸賞の受賞だ。同賞は、「広く社会と文化を考える、独創的で優れた研究・評論を行う個人を顕彰」する賞で、1979年に設立され、さまざまな分野の学術書を対象にし、多くの研究者が受賞を喜ぶ賞でもある。そしてサントリー学芸賞に勝るとも劣らない「賞」。誰もが羨む「みうらじゅん賞」をも受賞し2021年を締め括る。

 また、2022年4月には『土偶を読む』のビジュアル版とも言うべき子ども向けに再編集された『土偶を読む図鑑』が小学館より出版された。『土偶を読む図鑑』は、2022年5月には全国学校図書館協議会選定図書となり、多くの小中学校の図書館に公に推薦される。『土偶を読む』の次回作もまた準備されているとの話だ。

はたして本当に土偶の正体は解明されたのか?

 では何が深刻なのだろうか。

 実は世間一般の評価と対照的に、『土偶を読む』は考古学界ではほとんど評価されていない。それはなぜなのか、本書ではその非対称な評価の理由と、『土偶を読む』で主張される「土偶の正体」、それに至る論証を検証する。

 検証は、あくまでも事実ベースで進めていきたいと思う。単純なファクトチェックだけでなく、角度を変えた視点からの検証や比較できる説も紹介する。当然、新しい視点や発見、説得力のある指摘があれば正しく評価したい。

 「何もかもわからない縄文時代で事実?」と思う人もいるかもしれない。確かに縄文時代を生きた人はすでにこの世界には存在せず、語り継ぐ人も見当たらない遠い遠い昔の時代の話だ。しかし、遺跡には縄文人の使ったさまざまな道具や、彼、彼女らの暮らした痕跡が大量に残されている。モノとして動かしようのない事象や、そこから導き出される合理的な推論は一般の方が思うよりも遥かに多く蓄積されている。それらを紹介する機会としてもこの場を借りたいと思う。

 『土偶を読む』で目から鱗を落としてしまった人は、もう一度その落とした鱗を探してもらうことになる。実は肯定的なことはこの先とても少ない。それでもかすんだ目をこすり、本書を読み進めてほしい。

 『土偶を読む』のような自由な発想の本を否定してはいけないと考える人もいる。想像することや、従来の考え方に囚われない自由な着想を否定してしまったら、考古学に限らず世界はつまらないものになってしまう。それはもちろん筆者の本意ではない。土器や土偶を見て、あーでもない、こーでもない、と、想像を膨らませるのも縄文時代の楽しみ方の一つだ。しかし、現在の資料や事実に基づかない想像は、いくら楽しくても「妄想」でしかない。研究成果を世に問う時、裏付けは必要で、想像を何かいっぱしの形にするためにはいつかはその着想を現実に着床させなければならない。

 もし誰かの想像がたんぽぽの種だとして、風に吹かれ空を舞っていたとしても、いつかは事実という地面に降り根を張り水や栄養を吸収しなければ芽を出すことはない。それは、クリであってもトチであっても同じことだ。

 『土偶を読む』の検証は、たとえれば雪かきに近い作業だ。本書を読み終える頃には少しだけその道が歩きやすくなっていることを願う。

 雪かきは重労働だ。しかし誰かがやらねばならない。

編者によるメッセージ
『土偶を読むを読む』という書籍を出します。 - 縄文ZINE_note
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