神話「学」入門〈第2回・「神話」の固定と変容が意味するもの〉(南郷晃子)|『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』刊行記念リレーエッセイ

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さまざまな地域・時代・分野から神話を徹底的に論じた書、『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』。本書の出版を記念して、編者3人によるリレーエッセイを、週1回のペースで配信いたします。テーマは【神話「学」入門】。神話を学ぶことの面白さを感じとっていただければと思います。


神話「学」入門
〈第2回・「神話」の固定と変容が意味するもの〉

著・南郷晃子

■神話は人々の営みと切り離せない

 神話はしばしば古代からの連続性、つまり不変性が強調され期待されるものである。しかし伝承は古代性を帯びた、不変性を持ったものに「なる」のである。そこには、社会的、時代的背景がある。神話とは何かという問いに向かい合うためには、それを不変のものにする背景ごと、つまり物語とともに生きる人の営みごと、考えていく必要がある。

 この夏、父の骨の一部を納めに、奄美大島に行ってきた。墓の前には珊瑚が散らばっていた。珊瑚に乱反射する経を聴きながら、幼い頃墓の前には骨があると思い込んでいたことを不意に思い出した。その思い込みは、奄美のこの景色から来たものであり、珊瑚を骨と見誤っていたのだ。

 奄美大島は2021年7月、徳之島、沖縄北部および西表島とともに世界自然文化遺産に登録された。奄美の自然に対する意識が高まるとともに、奄美の生活文化にもこれまで以上に光が当たっている。集合文化施設である奄美パークには「ネリヤ・カナヤ」についてのコーナーができていた。ネリヤ・カナヤは海の向こうの他界のことであり、そこから神が訪れる。ニライ・カナイと重ね合わされるものである。一方で、奄美大島における他界は「ナルコ・テルコ」もよく知られる。そこからくるナルコ神・テルコ神を旧暦二月に迎え入れ、四月に送る神事は「ウムケ」「オーホリ」と呼ばれる。展示される上で、特にネリヤ・カナヤがピックアップされたことに興味を惹かれる。提示される情報はシンプルでわかりやすい。

 このようにコーナー化されたのには、他界から訪れる来訪神に注目が集まっていることも無関係ではないだろう。ユネスコ無形文化遺産に登録された「来訪神:仮面・仮装の神々」(https://bunka.nii.ac.jp/special_content/ilink3)には宮古島の海の向こうから訪れる神、パーントゥが含まれた。大きな枠組みの中での、ネリヤ・カナヤの位置付けがあり、価値の再確認と人々への広報が行われている。

■観光資源化する妖怪「ケンムン」

 また、前回の訪問から数年がたっていたが「ケンムン」が以前よりも存在感を増していた。ケンムンは奄美では最もポピュラーな妖怪であり、ガジュマルの樹のもとに棲む、河童によく似た妖怪、とされる。手足が長く毛が生えており、頭には皿がある。お土産屋さんにはガジュマルの下で遊ぶケンムンのイラスト付きTシャツが売られ、手足の長い毛の生えたぬいぐるみも置かれていた。

 しかし登山修『奄美民俗の研究』(南島叢書75、海風社、1996年)はケンムンの憑いている木として「ホウグィ(アコウ・クワ科)」を第一に挙げる。ガジュマルと一見似た木だが、別の木である。またケンムンの話は一様ではなく、とり憑かれたのではないかと怯える高校生の話が記憶にある。あるいは手元にある本には、加計呂麻島のこととして、ケンムンと格闘をした人が「ケンムンがわっと泣いたら、何千、何万のケンムンが集まってくる」ため泣かせるまではせずに帰った、という話がみえる(下野敏見『奄美、吐噶喇の伝統文化 祭りとノロ、生活』株式会社南方新社、2005年)。

 一括りにできないケンムン像は、それが生活の中にある、生きる物語であったことを示していよう。そして近年の商品化は、ケンムンイメージの画一化・単純化を促すことになるだろう。

 しかし、このような文化の固定を一概に批判することはできない。変化の激しい今日にあって、固定され得たということは、喪失を免れたということにほかならない。そしてそもそも目に見えぬものの世界は、もっと粘り強くしたたかだ。長い時間においてはまた次の変化が訪れる。塗り固められたかのようでいながらも、神話は呼吸を続ける。展示されるネリヤ・カナヤも、イラスト化されるケンムンも、今のわたしたちの生き方を反映したひとつの貴重な受容の形であり、生きる神話の在り方なのだ。

■受容する人間の在り方に応じて変化する神話を考える

 『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか』のテーマのひとつは、神話の可塑性であった。神話が変化するというだけの話ではない。受容する人間の在り方に応じた可塑性を持つものとして、神話は理解されるのである。マヤの「神話」とされる「ポポル・ヴフ」が宣教師の手により記され、本来のマヤの豊穣な神話世界をどれほど削ぎ落としていたとしても、それは西洋世界の娯楽では終わらない。「マヤ」のアイデンティティとして、語り直される(第14章、第15章)。

 神話はしばしば不変性が喧伝される。けれども古代より変わらない、聖なるものとしての「我が神話」を詠う人間、その人間は時代によって変わる。どの地域にとって聖なる物語なのかという、地理的範囲も変わる。神話は人間の営みとともにある。わたしたちは神話を問うことを通じ、聖なるものを求める人間の生き方、在り方を問うのである。

 ――ただし注意しなくてはならない。聖なるものへの欲求は、しばしば大きな暴力性を潜ませている。

 それにしても、分骨とはなんだろう。理論立てようとするとわけがわからなくなる。分骨をしたおかげで、奄美に住む古い友人や親族が父に会いに来られるようになった。では骨に魂が宿るのか、骨を納める場所が分けられると魂も分割されるのか。もしかすると死者は骨を拠点にテレポートできるのか。生活の中で思い描く見えない世界のイメージは、いい加減で自在で、ちょうどいい。

●本書の詳細は以下より

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清川祥恵・南郷晃子・植朗子編
『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』
(文学通信)
ISBN978-4-909658-85-2 C0014
A5判・並製・368頁
定価:本体2,800円(税別)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-85-2.html