アルバイト日誌「「実感」」(2022.9.9、れい)

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 夏休み、友人と遠出した時のこと。「れいちゃん(友人にはいつもこう呼ばれています)といると、自分がいかにスマホに依存しているか分かる」と言われました。

 私も例えば食後ぼーっとSNSを開いてしまうことはしばしばあるのですが、外出時は見たことのない風景や人の様子を眺めるのが好きなので、確かに他の人よりは画面に向かっている時間が短いような気がします。友人は私のそんな様子を見て上のように言ったのだと思います。

 簡単に写真を撮り、それをシェアできるようになった今、自宅にいても遥か遠くの地の様子を容易に知れますし、レビューを見れば、その料理を食べていなくても大概の味は想像できるようになりました。このような状況に対して、決して悪いと思ってはいませんし、むしろ私も便利なツールに頼る生活をしています。コロナで長く外に出られなかった時は、画面の中で世界の広さを感じることができましたし、レビューを見て下調べした方が、実際にそのお店に訪れた時食べたいものを違えることなく選べる、といったようなことです。けれども一方で、このような時代だからこそ、五感で味わう「実感」というものを大事にしたいとも思っています。

 冒頭で書いた、「見たことのない風景や人の様子を眺める」というのも私にとって何かしらの「実感」の一つです。確かにその景色は過去に写真で見たことがあっても、その天気や風、人の流れは、その時限りのもので、それをその場で感じられるのも私だけ。そういう偶然なるもの、その瞬間を画面の中に囚われて掴み損ねてはもったいない!といつも思うのです。また、撮った写真も、その風景を見たという実感、料理の味や食感という、刻まれた記憶があった上で見返すからこそ面白いのではないでしょうか。そういう感覚なしに、写真や動画で撮ったものだけが残るというのは、あまりに空虚なことだと感じてしまいます。

 旅行の帰り道、新幹線に乗りもう少しで東京に着くという時、ふと窓の外を眺めていたらサンライズの車体が見えました(※サンライズは、日本で唯一定期運行している寝台特急です)。写真や動画で見たことはあるのでその形は充分に分かっていたのですが、実物を見て思わず嬉しくなりました。そういう感情って理屈抜きなのですよね。

 実は私は「実感」という言葉をよく使ってしまうということを自覚していて、長らく他の言葉に置き換えたいと思っていました。しかし、友人の言葉に、私は「実感」という語を好んでいるというより、「実感する」という感情を軸にしているのだと初めて意識しました。もう少し細かな感情を伝えられるように言葉を工夫したいところですが、これからも「実感」を好んで使ってしまうような気がしています。