アルバイト日誌「感覚的な鋭さ」(2022.8.10、れい)

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 先日、好きな女優さんがテレビにゲスト出演していました。その番組は、ゲストの人が脚本を組み立て、出演者何人かで演技をするというものなのですが、出演者に伝えられるのは最初の設定のみで、脚本の展開はゲストの人以外は知らないまま、アドリブで演技をします。すなわち、ゲストの人は自分の考えた展開に上手く繋がるように演技をしなければならないし、反対に出演者は、たとえ予想外な流れでもゲストの人の演技に対応しなければならない、ということです。

 以下、女優さんが考えた脚本を大まかに説明します。親友4人での旅行の最後の夜→(本当はこの間に会話や展開を挟むのですが、割愛します)→実は、その人演じる女性とその他の人は親友ではなく、孤独に感じていた女性がレンタルをした友達だった→(ここにカバンを出すという演技があるのですが)みんなカバンにお揃いのひもがついていた→それは小さい頃、みんな一緒に孤児院で作ったもので、久しぶりの再会だと喜ぶ

 結末直前まではこのような流れでした。この展開だと感動話で終わりますよね。しかし、ここで終わらないのが、この脚本の怖いところであり、また魅力でもあります。

 皆で感動した後、突然その女優さんが狂気じみた笑いをします。そしてなんと、最後に、実はそれもレンタル友達のサービスの一つなのだと明かして(「レンタルして良かった」というような趣旨のセリフでした)、幕が閉じるのです。私は、ブラックすぎる、と背筋が凍ったのと同時に、その方の底力と構成力の高さ、一方でその緻密さを演技には出さず流れるように展開を転がしていく感覚的な鋭さに感動しました。

 その女優さんは若い頃から、狂気さと妖艶さ、一方で孤高かつ瑞々しいものも持っていて、私は、その澄み冴えた演技や文章の虜です。今回の番組の脚本や演技も(良い意味で)「やっぱり!」と感じたのですが、最後のブラックさというのは、隠してはいても誰もが持っているものではないかと私は思うのです。無自覚でふっと覗かせる本音のような感じに近いのではないか、と。そういう言葉にできない部分を言葉や体の動きにたち現わせるのは、そう簡単にできることではないと思います。

 そしてまた、私には、そういう感覚的なところが備わっていないとも痛感します。言葉の選び方であったり、「読ませる」文章を書くということ、痛みや憎しみ、辛さというマイナスの部分も表面的ではない表現ができること...、それは本を読むことや多くの経験が必要なのでしょうが、そういうものを、学問だけにとどまらず一生かけて育てていきたいです。そして、女優さんのある種の鋭利さを久しぶりに感じて、私も、物事を捉える「鋭さ」を持った人間でいたいと、改めて感じました。