第1回 江戸の図書館術~人々はいかにして本を手に入れたか?~|【連載】江戸の勉強術(古畑侑亮) 

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第1回
江戸の図書館術
~人々はいかにして本を手に入れたか?~


■コロナ禍の図書館から 

 私たちにとって図書館は、小説を借りたり、ちょっとした調べ物をしたり、本にアクセスするために欠かせない存在です。それだけでなく、講演会を聴きにいったり、ワークショップを開催したりと様々な活動の場ともなっています。

 しかし、令和2年(2020)の春、緊急事態宣言が出され、ほとんどの図書館が休館(あるいは限定開館)となりました。ちょうど博士論文の執筆を始めていた私は、必要な本や資料が入手できなくなったことに、当惑せざるを得ませんでした。

 それから2年以上が経過した現在、公共図書館の運営は平常に戻りつつあります。しかし、大学図書館や専門図書館などではコロナ対策のために利用を関係者に限定しているところが多く、とくに大学や研究所に籍を持たない在野研究者や地域の方にとっては図書館が使いづらい状況が続いています。

 コロナ禍が長引く今だからこそ、図書館がなかった頃のことを考えてみる価値はありそうです。そこで第1回は、「江戸の図書館術」について取り上げてみたいと思います。

■近代につくられた図書館

 現代の私たちにとって図書館は当たり前のものとなっていますが、日本においてそれはいつから始まったのでしょうか?

 日本に初めて図書館を紹介したのは、「西洋諸国ノ都府ニハ文庫アリ『ビブリオテーキ』ト云フ」と記した福沢諭吉の『西洋事情』であるとされています。慶応2年(1866)に刊行された本書を読んだ江戸の人々や、明治にかけて海外に渡った日本人は、実際の「ビブリオテーキ」なる施設に驚かされ、その重要性を認識していくようになります。

 そして、建白書の提出を受け、明治5年(1872)に湯島旧聖堂内の大講堂に書籍館(しょじゃくかん)が建てられたのが図書館のはじまりとされます。このように、図書館は明治以降につくられた近代的な制度のひとつであり、江戸時代までは図書館という施設は存在しなかったのです。

 それでは、図書館ができる以前、人々はどうやって本を手に入れていたのでしょうか?
 
■貸本屋の来る風景

 方法のひとつは、貸本屋を呼ぶです。貸本屋は、うずたかく積み上げた本を背負い、得意先を1軒1軒まわって本を貸し出していました。

 ベストセラー作家・為永春水の人情本『春色辰巳園(しゅんしょくたつみのその)』は、やさ男・丹次郎をめぐる深川の羽織芸者・米八と仇吉(あだきち)の恋のかけひきを描いた小説ですが、病床にあった仇吉を慰めるため、米八が貸本屋から本を借りて読み聞かせをしようとする場面があります。

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❶ 為永春水『春色辰巳園』4編中(提供:国会図書館デジタルコレクション)

 所へ丁度貸本の荷を背負いたりし若者、これ桜川の甚吉なり。
米「ヲヤ甚吉さん、久しぶりだの。何ぞ新版が有なら貸りようじやァねへか
甚「ヘイそれは有難、
 ト格子をあけて荷を下ろし、(中略)トいひながら、貞操婦女八賢誌(ていそうおんなはっけんし)といふ絵入読本をいだし、
甚「これが評判のいゝ新版でございます
米「そふかへ、だれが作だへ、
 ト作者の名をよみ、兒(かお)をしかめ、
米「イヤ〳〵私やア、この狂訓亭[為永春水]といふ作者はどふも嫌ひだヨ、楚満人と名号(いつた)時分から見るけれど、どふも面白いのはすくないものヲ、
甚「イヱ〳〵それはみんな弟子や素人の作たのへ、楚満人が名ばかり書たのでございます。この[貞操婦女]八賢誌をマア御覧まし。
 米八はこれをかり外にもいろ〳〵かりて、
米「仇さん、夜伽をしながら本を読で聞かせるヨ

 米八は軒先を通りかかった貸本屋を呼び止め、新刊書を尋ねています。これに対し貸本屋の甚吉は『南総里見八犬伝』のパロディ本である『貞操婦女八賢誌』を取出します。そして、米八が「面白いのはすくない」として嫌う為永春水の作品を、それは師匠の名前を借りて弟子たちが書いているからだと弁護しています。

 貸本屋は、人情本の他にも洒落本や浮世絵などにしばしば描かれています。江戸の人々にとって、貸本屋の来る風景は、それだけ日常的なものとなっていたのでしょう。

■貸本屋という仲人

 戯作者の山東京伝(1761−1816)は、書物が版元から読者の手に渡るさまを嫁入りに例え、貸本屋の役割を端的に表現しています。

板元は親里なり。読でくださる御方様は壻君(むこぎみ)なり。貸本屋様はお媒介(なかうど)なり。(中略)貸本屋様方のお媒介口にて。かやう〳〵の娘がござる。顔かたちはいひぶんなし。心ばへはすこしおろかな生れなれど。其かはりには。舅姑(しうとしうとめ)のことばを背かず。壻君を大事にして。律儀一へん所帯形気(かたき)の娘でござる。先見合いをして見給へと。(山東京伝『双蝶記』1813)

 貸本屋は、版元が売りたい本を読者のもとへ届け、その魅力を伝えると同時に、読者の一番近くにいることから、その好みや要望を出版社である版元へ持ち帰る役割を果たしていました。版元と読者の間にあって、作品の普及・販売の面を担当する、まさに"仲人"的存在だったのです。

 このような江戸の貸本屋のあり方は、本棚を車に積んだ現代の移動図書館を彷彿させます。緊急事態宣言下、各地で公共図書館が閉館となる中、移動図書館も活動の制約を受けました。しかし、その後いち早く活動を再開し、図書館が利用できなくなってしまった人々に本を届けていました。

 また、蔵書数は公共図書館にかなわないものの、どこへでも行けて、災害時を含めて利用者のニーズに柔軟に応えられるという強みを持っています。移動図書館は、出版社や作家と提携することで江戸の貸本屋のような"仲人"的存在となる可能性を持っているのではないでしょうか。

■借りる本と買う本

 それでは、江戸の人々はどのような本を借りていたのでしょうか?

 長年、貸本屋の研究に取り組んできた長友千代治さんは、借りる本として、浮世草子、軍記、実録、読本、滑稽本、人情本、地誌、紀行、蘭学書などを挙げ、所蔵する本として四書五経[『論語』をはじめとした中国の古典]、歌書、実用書、節用集[生活便利帳]などを挙げています。

 また、幕末生まれの文豪・森鴎外(1862-1922)は、自らの読書経験を踏まえ、江戸の通人を題材とした史伝『細木香以(さいきこうい)』に次のように書いています。

わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈(おい)の如くに積み畳かさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本(かきほん)、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。(『森鴎外全集』6、筑摩書房、1996)

 鴎外の証言が正しければ、長友さんが挙げたジャンルの他に講釈のネタ本、そして、見聞や奇談を綴った随筆や、朝廷や武家の行事や制度、装束などについて記録した故実書もハイレベルな「貸本文学」として加えることができるでしょう。

 さらに、地域文化の研究をしている工藤航平さんは、村役人をはじめとした地域リーダーの家に遺された日記や貸本台帳を分析し、次のように考察しています。

実態は、実用的で何度も利用したり、手元に置いておきたい大部な書籍は購入する場合もあるが、一度きりで用の済む読本や人情本、実用的であるが直ぐに写本を作成することのできるもの、あえて筆子[読み書きを習う子ども]に写本をさせる意味のあるものは、わざわざ購入せずに貸本屋で済ませていた。
 つまり、さまざまな書籍の入手方法を場当たり的に利用していたのではなく、書籍環境が整備されるのを背景に、目的や用途に応じて入手方法を選択し、効率的に書物〈知〉の受容・活用を図っていたのである。(工藤航平『近世蔵書文化論 地域〈知〉の形成と社会』勉誠出版、2017年)

 今よりも本が貴重で高価だった時代、人々は借りる本と買う本とを使いわけ、主体的に書籍へアクセスしていたのです。これも"江戸の図書館術"と言えます。

■羽田八幡宮文庫の設立

 より現代の図書館に近いものとしては、文庫があります。最後に、「私設図書館」の先駆けとされる羽田八幡宮文庫(以下、羽田文庫)について紹介することで、地域の人々の協働による図書館術を探ってみたいと思います。

 嘉永元年(1848)、三河国渥美郡吉田羽田村(現愛知県豊橋市)の羽田八幡宮の宮司であった羽田野敬雄(はだのたかお/1798―1882)は、文庫をつくって永く伝えたいとの友人の相談に対して、伊勢神宮の豊宮崎・林崎の両文庫にならって神社に置いたら永遠に伝わるだろうと提案しました。結局、言い出しっぺの敬雄の八幡宮に文庫を置くことになりました。

 しかし、文庫を建てるにはお金が必要です。敬雄らの呼びかけにより2ヶ月余りの間に187両3分(今のお金で約800万円)のお金が集まりましたが、出資者のほとんどは吉田の町人でした。これは今でいうクラウドファンディングとも言えるでしょう。その後の経営は敬雄ではなく、町の有力者であった町衆を主体とする講組織が担うことになります。背景には、幕末の社会不安と共に、地域社会の中の旦那衆たちの旺盛な知識欲と様々な人脈の広がりがあったと考えられます。

 当初の蔵書は、敬雄たち発起人20名が持ち寄った書籍だけだったのですが、敬雄がビラを作って広く寄附を募ったところ、町人だけでなく大名・幕臣まで幅広い層から本が送られてきました。中には、なんと水戸藩主・徳川斉昭など学問好きの殿様からの寄贈本もあり、ネットワークの広さと共に、彼らの試みがどれだけ注目されていたかがわかります。

 寄附に限らず、共同出資による購入という形も見られました。たとえば、中国の正史『二十一史』306 冊は幹事12人、同じく中国の歴史書『資治通鑑』148冊は吉田駅本町12人、中国の古典である経書の注釈を集めた叢書『十三経註疎』200冊は吉田駅の5人によって共同購入されました。

 このようにして個人での入手がなかなか難しい大部の本も着々と集めていき、慶応3年(1867)には蔵書が1万巻に達します。

■貸出箱の裏側

 注意しないといけないのは、蔵書の利用は基本的に館内閲覧のみであり、館外貸し出しは認められていなかったことです。しかし、羽田八幡宮には4つの貸出箱が遺されており、いずれも蓋の裏に次のように記されています。

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❷ 羽田文庫貸出用箱(羽田八幡宮蔵、写真提供:豊橋市中央図書館)

一 有志之輩書籍を借覧せんと思はゝ幹事に憑て証文を入れ一月を限り返納すべし
一 借書二部十巻に過べからす転借を許さす
破汚すべからす破汚又は紛失せは弁返すへし
一 たとひ他郷の人たりとも書見いたし度候はゝ廡下(のきした)に来りて閲るべし
       幹事等記

ここから、時期は未詳ですが、幹事を通して2部10巻、1ヶ月までの書籍の貸出しが許可されていたことがわかります。さらに特筆すべきは「他郷の者」でも閲覧を許すとしていることです。

 安政3年(1856)には、文庫の蔵書を読む専用スペースとして樟蔭学舎(しょういんがくしゃ)が建設されます。ここは、茶室や講義室としても利用されたそうで、著名な学者が来訪した折にはなんと講演会が開かれています(!)

 翌安政4年(1857)には、津和野(現島根県)の国学者・野々口(大国)隆正によって『古事記』『百人一首』などの講義が行われました。彼は、豊宮崎・林崎・熱田の文庫と並べて羽田文庫を挙げ、「この四所の文庫は、たれにともこゝろざしあつき人のゆきてみるにさしつかへなし」と、志がある人なら誰でも閲覧利用ができることを絶賛しています。

■地域図書館の先駆け

 愛知県を中心に地域の文化人の研究をされてきた田崎哲郎さんは、以上のような機能を持った羽田文庫を「市民的図書館の先駆」として位置付けられています。また、その蔵書の整理収納・出納のシステムを分析した藤井奈都子さんは、「近代的な公開図書館の先駆けと呼ぶにふさわしい」と評価されています。

 ただし、運営の主体は吉田の旦那衆たちだったことを忘れてはなりません。安政2年(1855)の安政大地震の際に羽田文庫では、被災者に食料を配ったり、災害対策パンフレットを発行するなど、地域の人々のための社会事業を行っています。国学者を研究している森瑞枝さんが指摘するように、羽田文庫は「吉田の人の、吉田の人による、吉田の人のための文庫」だったのであり、むしろ地域の人々の生活に寄り添った活動を行っていた点に注目すべきではないでしょうか。

 羽田文庫に限らず、江戸後期には個人や集団による文庫の設立が各地で見られるようになります。江戸の人々は蔵書を独り占めするのではなく、共同出資によって文庫を建設し、地域に向けて開くことで、本へのアクセスの機会を増やし、新たなコミュニティの形成を図っていたのです。これも重要な"江戸の図書館術"と言えます。

■地域におけるマイクロライブラリーの試み

 近年では、個人や小規模な民間団体で運営される私設図書館・マイクロライブラリーの活動が世界的に活発となっています。マイクロライブラリーは、もともとアメリカで提唱されたもので、その目的は多様ですが、とくに本と人、情報と人、人と人とをつなぐことに重心があるように思います。

 日本でもオフィスやカフェ、お寺に病院など様々な場所に置かれた本棚に人が集い、人と交流するまちライブラリーや、自宅を一部開放することで地域の人に図書館や集会所、託児所として使ってもらう個人文庫の活動がひそかな盛り上がりを見せています。

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❸ まちライブラリー@My Book Station 茅野駅(2022年6月25日オープン。筆者撮影)
2011年に大阪のビルの一室から始まったまちライブラリーは、その後全国に広がり、2022年6月時点で944件に至っている。筆者の地元の近くでも知らないうちにマイクロライブラリーができていて驚かされた。

 私には、このようなマイクロライブラリーの試みと江戸の人々による文庫設立運動は重なって見えます。マイクロライブラリーは日本ではまだ新しい試みと言えますが、江戸時代を参照すれば各地域に文庫があり、そこから思いがけないモデルが発掘できるかもしれません。

 地球環境や社会のあり方が大きく変わりつつある令和の時代において、既存の公共施設に頼ることには限界があります。地域あるいは個人がそれぞれで本を通じたコミュニティをつくり、ときに連携し合いながら活動していくことで、重層的で柔軟なコミュニティをつくっていくことができるのではないでしょうか。そこから感染症も含めた災害に強く、多様な人々が利用しつながることができる新しい「図書館」の姿が見えてくるように思います。

 文庫では、本を読んだり借りたりするだけでなく、様々な人々が集まって読書会などのイベントも開かれていました。次回は、そのような場に集った人々のサークル術について考えてみたいと思います!

■参考文献
長友千代治『近世貸本屋の研究』(東京堂出版、1982年)
田崎哲郎『地方知識人の形成』(名著出版、1990年)
森瑞枝「「開放の平田国学」とその断絶―羽田八幡宮文庫」(前田雅之編『もう一つの古典知前近代日本の知の可能性』勉誠出版、2012年)
礒井純充『本で人をつなぐ まちライブラリーのつくりかた』(学芸出版社、2015年)
工藤航平『近世蔵書文化論 地域〈知〉の形成と社会』(勉誠出版、2017年)
新藤透『図書館の日本史』(勉誠出版、2019年)
藤井奈都子「羽田八幡宮文庫における図書整理方法」(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』64、2019年)
西河内靖泰「図書館は休館、でも移動図書館車は走った―コロナ禍での多賀町立図書館の取り組み」(『みんなの図書館』525号、2021年)
古畑侑亮「国学者の蔵書」(國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』ぺりかん社、2022年)

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