コロナ禍中の国際会議運営忘備録:そして私は「砂の魔女」になった(シュミット堀佐知・ダートマス大学)

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コロナ禍の国際会議の準備から運営、また国境を越えて移動すること、プロジェクトの進行について、どんな手配や配慮が必要なのか、どのあたりが特に大変なのか。みなさんの参考になればと思い、シュミット堀佐知氏にご寄稿いただきました。ぜひご一読ください。(文学通信 渡辺)

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コロナ禍中の国際会議運営忘備録
そして私は「砂の魔女」になった

シュミット堀佐知(Sachi Schmidt-Hori )
ダートマス大学アジア社会文化言語学部・准教授 (日本文学・日本文化)。専門は平安・中世の物語文学における性・社会階級・身体性の表象、親族関係、「和/漢」とジェンダーの関係など。著作に Tales of Tales of Idolized Boys: Male-Male Love in Medieval Japanese Buddhist Narratives [偶像/アイドル少年たちの物語: 日本の中世仏教文学における男色] (University of Hawai'i Press, 2021)や "The Erotic Family: Structures and Narratives of Milk Kinship in Premodern Japanese Tales" [疑似家族の性愛:日本古典文学に見られる乳母・乳母子・養君の表象] Journal of Asian Studies (2021) 他。石川県金沢市に生まれ、5歳から大学卒業までを東京で過ごし、1999年渡米。「リベラル」で「進歩的」なアメリカのアカデミアで日本古典文学を教授・研究することの難しさと喜びを日々感じている。


新型コロナウィルスの世界的大流行が、二度目の春を迎えようとしていた2021年4月某日、一通の電子メールが届いた。差出人は、私の勤めるダートマス大学の「レスリー人文学センター」という機関のディレクターで、その内容は、「サチ、おめでとう。あなたの企画した『スプリングボード・ジャパン・プロジェクト』の助成が決定しました」というものだった。

今回、レスリーセンターのグラント(補助金)に応募したプロジェクトは三部構成だった。2023年初頭に文学通信より刊行予定のバイリンガルエッセイ集『なんで日本研究するの?』の翻訳費用、オープンアクセス・ウェブ媒体「スプリングボード・ジャパン」の運営費用、そして国際会議の運営費用である。この三つはすべて、日本国内外で活動する日本研究者同士の対話や協働を支援する「スプリングボード・ジャパン・プロジェクト」の傘下事業である。

レスリーセンターからの朗報が届いたそのちょうど一年後にあたる2022年4月、私は日本からのゲストを含む有志を招いての国際会議――と言っても少人数で「スプリングボード・ジャパン・プロジェクト」の将来的な方向性などを話し合うためのインフォーマルなイベント――を何とか無事に開催することができた。この「コロナ禍中の国際会議運営忘備録:そして私は「砂の魔女」になった」と題した雑文は、デルタ株とオミクロン株が猛威を振るった2021年から2022年にかけてこのようなイベントを企画・準備した苦労や、会議を終了してみての所感などを忘備録として書き留めたものである。

■2021年4月~6月

2020年東京オリンピック・パラリンピック一年遅れで開かれた2021年の夏、私は2年ぶりに日本の土を踏むことができた。そのこと自体は、直接国際会議とは関係ないのだが、パンデミックの中、国境を越えて移動することがどれくらい大変なのかという事例として、自分の経験を紹介したいと思う。

私は2001年に米国市民権を取得し、それ以来、日本に帰省する際は、常にアメリカのパスポートを使っていた。そして、アメリカ国籍保持者は、ビザなしで日本に入国し、90日まで滞在することが可能なので、日本に帰るためにビザを申請したことは一度もなかった。日本政府がコロナ対策のために国境を閉ざした、というニュースは耳に入ってきていても、正直、それがどういうことなのか、あまり深く考えずにいた。半年前から6月中旬出発の航空券を購入し、のほほんとしていたところ、どうやら自分もビザというものを取得しなければいけないらしい、という事実にやっと気づいたのは4月。あわてて在ボストン日本領事館に電話をかけてみた。

「あのー、2001年にアメリカに帰化した者ですが、2か月後に日本に帰国したいと思っておりまして...」
「日本国籍喪失手続きはお済みでしょうか」
「(しばし沈黙) えー、日本のパスポートは失効していますが...それじゃだめです...よね」

私のように、外国籍を取得しても、日本との関係をちゃんと清算しない不埒な輩は多いに違いない。アメリカは、二重国籍を許している国なので、アメリカの市民権を申請する際に「ちゃんと出生国の国籍を放棄してね」とは言われない。だから、私はそんな手続きが存在することすら知らなかったし、実際、ずるずると日本との曖昧な関係を続けていても、まったく不都合はなかったのである。そもそも、日本に帰るたびにビザが必要になるなら、多くの日本出身者が外国籍取得をためらうだろう。しかし、今回、地球規模の感染症蔓延という異常事態が発生したため、私は、2002年以来別居し、暇なときにだけ連絡を取っていた先妻(日本)とはきっぱり手を切り、新たに「赤の他人」として先妻宅を訪問する許可証(ビザ)を申請しなくてはいけなくなってしまったのだ。

「国籍喪失」という、ちょっと残酷な響きのある言葉に少々うろたえていた私とは対照的に、電話口の領事館の女性は、その罰ゲーム並に大変な手続きについて淡々と説明してくれた。

まず、本籍地の市役所で除籍手続きをしてもらう必要がありますが、これは、日本にいらっしゃる、二親等以下の親族に頼んでやってもらってください。

そのためには、その親族の方を代理人に立てなくてはいけません。市役所のウェブサイトから代理人委託用紙をダウンロードし、必要事項を記入し、代理人になる親族の署名・捺印をもらった上で提出してください。

代理人委託が許可されましたら、その親族に除籍に必要な書類の原本を集めてもらい、すべて整ったら、役所に提出してもらってください。通常、1~2週間ほどで完了します。

除籍手続きが終わったという連絡は行きませんから、親族に頼んで、電話かけてもらって、手続きが終わったかどうかを確認してください。

確認できましたら、親族に、除籍証明書とXとYとZの原本を送ってもらってください。そのあとで、ビザ申請の手続きに入ってください。

あ、それから、ビザを申請したからといって、必ず発給されるわけではありません。特に、「家族に会うため」という理由では、却下されます。「自分が日本に戻ってこないと家族が困窮する」という状況を証明する書類を作ってください。

すべての必要書類がそろったら、領事館まで来てください。現在、コロナ禍のため、開館は毎週月曜日のみになっておりますので、まず、ウェブサイトで予約を取ってから来館してください。予約は一か月先まで一杯です。

予約が取れましたら、来館していただき、領事のチェックを受け、申請書が受理されましたら、こちらから日本の法務省に転送します。そこで再び審査を受け、この審査に無事通れば、ビザが下ります。

もちろん、ビザを持っている方でも、諸事情により入国を拒否される場合がありますので、ご了承ください。法務省での審査は、コロナのために、通常の2~3倍の時間が予想されます。早くても、4~5週間ぐらいかかるでしょう。

問い合わせは法務省のビザホットラインにお願いします。個人情報に関わるため、ご本人のみ問い合わせが可能です。

この時の私の顔は、ムンクの『叫び』そのものだった。

■2021年7月

ここには書ききれないほどの苦労を重ね、日本にいる姉・義理の妹・従妹の協力を得て、何とか6月末にビザをもらうことができた。当然、もともと予定していた6月中旬の出発はキャンセルになり、その後も再度渡航を延期しなくてはいけなかった。最終的に、出発日は7月7日(水)になった。しかし、ほっとしたのも束の間、今度は、「国際線搭乗の72時間前にPCR検査を受け、さらに厚生労働省指定の書類に医師の署名と医療機関のスタンプをもらう」という難題が待ち構えていた。

このPCRという壁についてちゃんと考えていれば、72時間の中に土日が含まれないよう、金曜日出発にしたのであるが、気づいたのが遅かった。何としても月曜日の朝一番に検査を受け、火曜日の夕方5時(私のかかりつけの医師のクリニックが閉まる時間)までに結果をもらい、滑り込みでドクターの署名とスタンプをもらい、水曜日の朝6時のボストン空港行バスに乗らなくてはいけない。早速、月曜日午前の検査を予約するべく、ハノーバー市内の病院に電話をすると、なんと、その日は独立記念日の振替で休みだという。隣町の急患用クリニックなら祝日でも開いていると教えてもらい、あわてて隣町のクリニックに電話をかけて、予約を取ろうしたところ、「当院は急患用ですので、予約はできません」との返事。とにかく、朝一番で行くしかないみたいだ。その週末は夫が出張で家にいなかったので、車の運転ができない私は、友人に頼んで連れて行ってもらい、検査が終わったらまた迎えに来てもらうことにした。しかし、中に入っていくと、待合室は閉鎖中なので(もちろんコロナのため)、名前を呼ばれるまで外で待つように指示された。問診票も、外で立ったまま記入しなくてはいけなかった。

順番を待っている間、予定通り水曜日に出発するためのスケジュールを頭の中でシミュレーションし続けた。そうこうしているうちに、名前を呼ばれた。通された検査室で誰かが来るのを待っていると、スズメバチ駆除業者のような恰好をしたおじさんが検査キットを持って入ってきた。そのおじさんに、「あの~、どうしても、どうしても、明日の午後に結果が欲しいんです!!」と懇願すると、彼は、メモ帳を取り出し、さらさらと何か書いて、「今日、家に帰ったら、このアドレスに2~3時間おきにメールを送って、絶対に明日の夕方までに結果が必要だということを伝え続けなさい」と教えてくれた。もちろん、私は言われた通り、その日、帰宅してからずっと2時間おきにメールを送り続け、翌朝もせっせと懇願し続けた。これが功を奏したのかは分からないが、検査を受けてから27時間ぐらいで結果がメールで送られてきた(通常は36~48時間待ち)。それを印刷して、出張から帰宅したばかりの夫の運転で、かかりつけの医師のいるクリニックに飛び込み、厚生労働省指定の書類に署名とスタンプをもらった。嬉しくて嬉しくて、ドクターと看護師さんにハグをして、戦利品を持ち帰った。

■2021年7月~8月

7月8日(木)に日本に無事到着。成田空港での5時間以上に及ぶ待機・PCR検査・検査の結果待ち・入国審査などを終え、友人の車で(公共交通機関は使用不可)三軒茶屋のAirBnBに移動。そこで14日間、隔離と言う名の禁錮生活を送った。毎日の健康チェックアンケートに電子メールで返答する以外にも、一日数回、抜き打ちのビデオ電話・テキストメッセージに答えなくてはいけない。ビデオ電話は、AIの時もあれば、人間様(こちらからは顔は見えないが、向こうからはこちらが見える)の時もあった。隔離の最終日、絶対、絶対、遊びに行こうと心に決めて、朝から準備をしていた。でも生憎、その日の午後に宅配便が届くことになっていた。荷物を受け取ったらすぐ娑婆に出ようと思っていたのだが、待ち人は来ず、やっと宅配のおじさんが来た時には、とっぷりと日が暮れていた。受け取り伝票にサインをしながら、「えー、もしかしてこのおじさんのためだけにお洒落しちゃったの、私?」と自分に突っ込みを入れた。

8月某日には、バイリンガルエッセイ集の企画打ち合わせのため、文学通信の編集長・岡田さんと編集者の渡辺さんと初顔合わせを行った。この企画が通るかどうか、まったく見当もつかなかったのだが、お二人は意外にもすんなりとOKを出してくださった。しかも、私が「刊行は二年後ぐらいを目指しましょうか(早すぎるかな?)」と言うと、編集長は、「いや、来年はどうでしょう」と無茶振りをなさった。その時点では、まだ寄稿者も完全には決まっておらず、テーマも100%固まっていたわけではないのだが、せっかくの提案に水を差してもいけないと思い、一抹の不安を抱えたまま、2022年末の出版を目指すことにした(その後、どう考えても翻訳作業が間に合わないので、2023年初頭刊行に変更してもらった)。エッセイ集のタイトルである『なんで日本研究するの?』は、私がその打ち合わせ中にあまり深く考えずに仮に名付けたものだが、もうこの書名を前提とした序章やエッセイが入稿しているので、どうか変更はナシでお願いいたします。

■2021年9月

寄稿者は割とトントン拍子で決まった。日本にいる間に会う機会があった六人の方々(うち二人は日本の大学に所属するアメリカ出身の日本研究者)は、全員快諾してくださった。それ以外にも、自分の大学院の後輩と友人の友人が参加してくれることになり、私を入れて計九人。その日本研究者たち一人ひとりの「なんで日本研究するの?」という問いへ答えが、珠玉のエッセイ(日本語五篇・英語四篇)となり、近い将来、その英訳・和訳とともに、一冊の本として誕生する予定である。

■2021年9月~12月

国際会議の参加者や日程などが徐々に決まる。日本からのお客様は、先日、文学通信から『職業としての大学人』を出版なさった日本大学教授(現・特任教授)の紅野謙介先生。そして、もうお一方は、『なんで日本研究するの?』編集者の渡辺さん。残念なことに、ダートマス大学のキャンパス内にある「ハノーバー・イン」という、古き良きニューイングランドの格調高いホテルは満室で、隣町の「コートヤード」というビジネスホテルに部屋を取らなくてはいけなくなってしまった。がっかり。また、大学側から、「国際航空券は出発の一か月前にならないと買ってはいけません」という理不尽なお達しが来たので、戦う。結局、買ってもよいことになる。

■2022年1月~4月上旬

この期間に、色々と日本・アメリカ西海岸からいらっしゃる方々とそれぞれメールやズームでの打ち合わせが続く。レスリー人文学センターの事務の方にも手伝ってもらい、レストランの予約や、会議中のケータリングサービスの予約、ボストン空港からの迎車などを手配。日本からのゲストには、迎車の運転手さんに携帯電話の番号を渡しておかなくてはいけなかったので、スマホから国際通話ができるようなサービスに入ってもらっておいた。国内からの参加者も、到着空港はボストン・マンチェスター・レバノンのどれがよいのか、空港からはバスかレンタカーか、などなど、それぞれのニーズに対応。レスリーの人に雑用を手伝ってもらえたのはよかったのだが、タスクを丸投げできない人のお手伝いは、必ずしも仕事の軽減にはつながらないという事実を痛感。

イベントの一か月前ほどに、なぜか紅野先生と渡辺さんそれぞれの国際便が両方ともキャンセルされてしまい、さまざまな予定の変更が要請された。この国際航空券の変更だけをとっても、大学が契約している旅行代理店・レスリーセンターの人・私・ゲスト間のメールのやりとりがカオス状態だった。結局、渡辺さんには予定の一日前に渡米してもらうことになった。(紅野先生はさらにその一日前にNY入りが決まっていた)。当然、この間、通常業務も山積していた。36人と33人のクラスを週三回教え、毎日の宿題を採点し、学生が次々と送ってくる「先生、コロナ陽性です!授業に来られません!」というメールに対応し、エッセイ集の編集作業を続け、教授会に出席し、時々家族の世話、など。「白髪三千丈、縁愁似箇長」の気分。

イベントの二週間前に新たなチャレンジが発覚。それは、紅野先生と渡辺さんが日本への帰国便に搭乗する際に提示する、出発72時間以内に受けたPCR検査の陰性証明をどこで発行してもらうか、という問題だった。お二人とも短い海外出張なので、ハノーバーに着いてすぐ帰国のための検査を受けなくてはいけなくて、まるでコロナ検査のためにアメリカに来たみたいだ。私が去年利用した隣町のクリニックに問い合わせると、「現在、結果が出るまで四~五日かかります」との返事。パニクって、色々調べているうちに、マンチェスターに海外渡航者専用の検査所があることがわかった。約200ドルの料金で、数時間後に検査結果を知らせてくれるという。予約制・前払いなので、紅野先生と渡辺さんにウェブサイトのリンクを送り、ご本人たちに木曜日午後三時の予約をとってもらった。さて、マンチェスターまでは大学から車で一時間半。当日、ゲストをホテルまで迎えに行き、マンチェスターまで運転し、検査の結果を一緒に待ち、再度一時間半の道のりを運転してくれる奇特な人を探さなくてはいけない。おそるおそる同僚のD先生に頼んでみると、了承してくれた。紅野先生と渡辺さんには「D先生は辛口の日本酒がお好みです」との情報を伝えておいた。

■日本からのゲスト・到着

紅野先生と渡辺さんのハノーバー入りの難点は、お二人がそれぞれ、到着後にボストン空港の外に出て、迎車サービスの運転手を見つけ、二時間半かけてホテルまでたどり着き、チェックインすることと、木曜日中にコロナの陰性証明をもらうことであった。この二つさえクリアできれば、私の仕事は終わったも同然。

火曜日、先にハノーバー入りする渡辺さんから、成田出発の際と、シカゴ到着の際にメッセージが届く。便の遅れもなく、予定通り、水曜日の夜十時ごろ、ボストンに到着する予定だ。九時半ごろ、ドライバーのおじさんから電話がかかってきた。「Eターミナルで待ってるんだけど、全日空の到着便は掲示板に書かれていない。どうしたらいい?」と、ちょっと焦り気味の声だった。調べると、到着ターミナルはBに変更になっていたので、「すぐBに行ってください。中肉中背で眼鏡をかけた、若いアジア人の男性ですよ~」と渡辺さんの外見的特徴(?)をお伝えして、電話を切った。その後、お二人は無事に出会い、スピード違反でチケットを切られながらも、運転手のおじさんは渡辺さんをホテルに送ってくれた。

すでに火曜日からNYにいらしていた紅野先生は、早朝の便でボストンに到着し、前日渡辺さんをピックアップしてくれたおじさんの奥様が、紅野先生をホテルまで送ってくれた。

日本は公共交通機関がとても発達しているので、外国からお客様を呼ぶ際に、この手の苦労はあまりないような気がする。アメリカ大陸は、広大な土地にいくつかの大都市と多くの都市と無数の小さな町が散在し、街と街をつなぐのは、なーんにもない荒野に永遠に延びる一本道だったりする。町の「最寄りの都市」が車で四~五時間のところにあるのは普通のことで、交通手段はたいてい車だけ。私は2012年にワシントン州の大学院を卒業し、就職のためにサウスカロライナ州のグリーンビルというところに引っ越したのだが、しばらくして母が電話で「時々はシアトルに戻って、友達に会ったりしてるの?」と訊いたことを思い出す。母の頭の中では、ワシントン州もサウスカロライナ州も同じ「アメリカ」の土地名であり、東京から大阪に引っ越したぐらいの感覚だったのだと思う。いまネットで調べると、シアトルからグリーンビルの距離は4393.5キロ。青森~鹿児島間の2倍以上である。グリーンビルやハノーバーなどの小さい町に行こうと思うと、飛行機を乗り継ぎ、最寄りの空港に飛んで、そのあとさらに数時間かけて移動しなくてはいけないので、本当に大変である。

木曜日は正午から一時まで学部の教授会があったので、それが終わってすぐ、D先生の車で、コートヤードホテルに向かった。ロビーにはすでに紅野先生と渡辺さんが座って待っていてくださった。紅野先生は2005年、私が院生だった時にワシントン大学に客員教授としていらっしゃっていた近代日本文学研究の第一人者で、それ以来お世話になっている方だ。マンチェスターのコロナ検査所(といっても、コンテナ車を改造した移動式のもの)への往路、色々な内輪話で盛り上がる。予約の30分ほど前に到着したが、すぐに検査をしてくれ、しかも「一時間ぐらいで結果が出ますよ」と教えてくれた。また、ちゃんと厚生労働省指定の書類に署名・押印までここでやってくれるのだそうだ。去年の私の苦労とは大違いだ。

D先生の拘束時間も、恐れていたよりもずっと短くて済み、夕方ホテルに戻った。その晩は、地元の「ソルトヒル・パブ」でディナー。紅野先生は二種類のクラフトビールを召し上がったように記憶している。(私と渡辺さんはソフトドリンク)。フィッシュ&チップス、芽キャベツのフライ、プレッツェル、ナチョスなど、アイリッシュパブの定番料理を注文した。どれも美味しかった。

その晩、メールを開けると、翌日(国際会議前日となる金曜日)のスケジュールやキャンパスでの駐車事情に関する問い合わせ、レストランの予約確認などなど、まだまだ雑用が山積していた。よく考えると、授業の準備もまだ終わっていなかった。ムンクの『叫び』再来。

■国際会議前日(4月某日金曜日)

この日は、国内外からのお客様に、ダートマス大学の雰囲気を見ていただこうと思い、私が教えているアジア社会言語学と日本文学の授業を見学していただいた。文学の授業の方は、日本語を学習中の学生も多く、日本からのお客様の存在にワクワクしているのが見て取れた。また、この日は『平家物語』の灌頂巻と御伽草子の「ものぐさ太郎」(当然どちらも英訳)のディスカッションだったのだが、ゲストのお一人である仏教学のU先生に念仏や女人往生の解説をしていただくことができ、私もラッキーだった。

授業が終わっても、U先生に仏教に関する質問をし続けていた三年生のCくんとAくんも誘って、カフェテリアでグループランチ。紅野先生・渡辺さんは時差でお疲れだったとは思うが、学生とのおしゃべりにつきあってくれ、そのあとはダートマスの重鎮・W先生の案内でキャンパスツアーに行かれた。私はディナーまで仕事。

八名で予約してあったレストランは、大学の所有するホテルの中にあるフランス料理店。少し予約の時間まで余裕があったので、もう入っていいか聞きに行くと、「あなたの名前での予約はないわね」と、不愛想に言われてしまった。ロビーに戻って、「予約されてないそうです~」と言うと、重鎮・W先生が「そんなバカな話があるか」と、マネージャーに話をつけに行ってくださった。私のようなチビの東洋人は、この手の格調高い店では鼻であしらわれることが多いのだが、貫禄を絵にかいたようなW先生が入っていくと、態度が急変する。しかし、結局、本当にその日は予約が一杯だったので、他の店を探すことにした。

「マーフィーズ」というホテルの向かい側にある店に、「あの〜、八人なんですけど~」と言いながら入って行くと、そこのオーナーが、今は満席だけど、すぐ近くの姉妹店に空席があるか訊いてみるよ、と電話をかけくれた。幸い、すぐ八人座れると言う。その姉妹店「インパスト」は、実は国際会議の後の打ち上げのために予約してあったイタリアンレストランなのだが、せっかくなのでそちらに移動。みなさんよく飲み、食べました。長方形のテーブルだったので、両隣か向かい側の人としか話せないというデメリットはあったが、料理もサービスも最高だった。お会計は、私の個人研究費やグラントにつながっている、ダートマス発行のクレジットカードで払った。自分のお金ではないとは言え、サインをするのにドキドキするぐらいの額だった(もちろん20%のチップを上乗せしなくてはいけない)。

■国際会議当日(4月某日土曜日)

国際会議は、州外・国外からの参加者のために、OWLというハイブリッド会議のためのパノラマウェブカメラとマイクを搭載した機器を使ったのだが、その接続がうまくいかず、時間通りに開始することができなかった。渡辺さんが色々と、技術的なお手伝いをしてくださり、とても助かった(文学通信は、なんとオンライン会議のテックサポートもする会社なのだそう)。

何はともあれ、活発なディスカッションが朝から夕方まで続けられた。「スプリングボード・ジャパン・プロジェクト」そのものの運営に関わる事だけではなく、「翻訳」という一見非政治的な作業にまつわるさまざまな政治性、日本の戦争責任やコロニアリズムの問題、人種・ジェンダーに関わる問題など、多岐にわたる話し合いが行われた。まだまだ、話すべきことはたくさんあったのだが、とりあえず、第一回目の話し合いは、無事に終了し、「マーフィーズ」で打ち上げ。

紅野先生と渡辺さんは、翌朝五時の迎車でボストン空港に向かうことになっていたにも関わらず、コートヤードホテルのロビーでU先生と私の四人とのおしゃべりに付き合ってくださった。気の合う人たちと雑談するほど楽しいことはない。朝五時の見送りは到底無理なので、ロビーでお別れの言葉を交わした。いろいろとハプニングもあったけれど、お二人にわざわざ日本からお越しいただき、星の数ほどあるアメリカの大学の一例として、ダートマス大学の授業やキャンパスの様子を垣間見ていただき、そして、このような内輪の話し合いに参加してもらうことができて、本当によかったと思う。

次の日、スマホのアラームで目を覚まし、ぼーっとした頭でソーシャルメディアのアプリを開くと、日本のスーパーの一角を撮影したと思しき写真が目に飛び込んできた。コンビニでおなじみの、扉のない冷蔵商品棚に飲み物やデザートや軽食が並び、棚の上部には「サンドウィッチ」と書かれたサインが掲示されている。そして、そのカタカナの「サンドウィッチ」の下には英語で「Sand witch」(砂の魔女)と書かれている。これはもちろん、日本を訪れたエーゴ人が、単なる面白ネタとして投稿したものであったが、私はその写真に "This is how I feel right now"(私の現在の心境です)とキャプションをつけて再投稿した。このキャプションに、何か深い意味があったわけではなく、ただ、何となく、そう書いてみたかっただけ。日本の友達は「え、日本に帰ってきてるの?」というコメントをくれ、エーゴ人の友達は、この面白いサインに「いいね」「爆笑」などの反応を示してくれた。それぐらいの、とりとめもない、翌日にはすぐ忘れてしまう程度の投稿だった。すると、空港での待ち時間中にそれを見てくださった紅野先生が、「クタクタで砂の魔女の気分なんでしょう。お世話になりました。感謝、感謝、感謝です!」という温かいコメントをつけてくださった。先生は私より、私の心境を理解してくださっていたようである。私も、遠路はるばるハノーバーまで来てくださった紅野先生・渡辺さんに、感謝、感謝、感謝です。そして、アメリカ国内から参加してくださった先生方、ズームで参加してくださった先生方、色々と力を貸してくれた同僚のみんなにも、心からお礼を述べたい。ありがとうございました。