目時美穂『たたかう講談師 二代目松林伯円の幕末・明治』より「序 消えた伯円」を公開

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目時美穂『たたかう講談師 二代目松林伯円の幕末・明治』より「序 消えた伯円」を公開いたしました。ぜひお読み頂ければと思います。

●本書の詳細は以下より
文学通信
目時美穂
『たたかう講談師 二代目松林伯円の幕末・明治』
ISBN978-4-909658-66-1 C0095
四六判・並製・402頁(カラー口絵1頁)
定価:本体2,500円(税別)

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序 消えた伯円

目時美穂


講談はいつごろまで日本人の日常のなかにあったのだろう。

かつて講談は、庶民が笑い、泣き、怒り、よろこびながら聞いた大衆のための娯楽であり、しかも、教育にも益する万能の芸だった。橋本治はいう。

物を知らない人間に「どうだこれならわかるだろう」といわんばかりにトントンと畳みこんでいくのが講談。リズムに乗せられると、なんとなくわかった気になる。わかった気になって「なァるほど」と思ってみると、ちゃんと知らなかったエピソードをいつの間にか知っている。すなわち勉強になっているという、なんと講談はその昔"教養"なるものを身につけさせてくれるメディアだったのである。(「講談とはなにか」『パンセⅢ 文学たちよ!』河出書房新社、一九九〇年)

明治以降、講談とよばれることが多くなったが、かつては講釈といった。そして、講釈といった方がおそらく講談の本質をとらえている。講釈の通常の語義は、書物の内容や語句の意味などを説明すること。物事の道理や心得などを説いて聞かせることで、講談の目的のひとつは、「講釈」を行うことだった。講釈を行うから、講談師は「先生」とよばれる。

高座に釈台という文机大の机を置き、張扇という音が高く鳴るように工夫された手製の扇を持った芸人が座り、要所要所で、その張扇で釈台を叩いて調子をとりながら、物語を「読む」。講談の場合、芸人が内容を暗唱して、本をみていなくとも「読む」という。

先生が観客に読んで聞かせるものは、なんでもよい。といえば語弊があるが、分類としては、軍記物(『平家物語』や『太平記』等のいにしえの合戦をあつかったもの)、時代物(武士をあつかったもの)、世話物(町人、庶民をあつかったもの)があり、明治からは、新聞記事や、文学作品、外国小説の翻案なども加わり、読み物の素材はほぼ無限に増えた。本当になんでもいいかといえば、素材はそうかもしれないが、若干の傾向があり、「講談のテーマとは「立派な人はこう立派でした」の一言に尽きる」(「講談とはなにか」『パンセⅢ 文学たちよ!』)という。

講談は幕末くらいから世話物を多く扱って、娯楽の要素が強くなった。それでも、「講釈」としての伝統を残し、明治以降も、日本人の道徳の涵養を役目としてきた。自由民権運動の活動家にして政治講談を読んだ講談師、伊藤痴遊は、

殊に講談が、軍物語や御家騒動、さては俠客の達引に就て、能く我国民性の一端を、明確に説き去り、之れに依つて文字なき人を教導し、意地と我慢を処世の要訣として、特種の国家観念を養ひ来つた一事は、社会教育の上乗なるものとして、深く其功績を認む可きである。
(『痴遊随筆 それからそれ』一誠社、大正十四年)

という。近世から近代、講談は民衆への歴史の知識伝搬と、道徳の規定と流布の役割を果たしてきたのである。日本人としての国民性を育んだともいえる。ただ、物語をおもしろく聞いているうちに、一定の美徳の方向、正義の定義、よいと感じるもの、悪いと判断するもの、好悪の感覚が身についてゆく。どうしてこんなことができたかといえば、もとからの講談の性質にもよるが、明治の講談師たちが、芸のなかに教育をひそませようと努力したからでもある。

幕末から明治中期、講談は爆発的に流行した。講談にはすべてがあった。いうなれば、痛快な娯楽映画も、泣かせてくれる人情物も、教養番組も、さらには新時代の最新の情報もあった。

しかし、明治三十年代には、講談の人気にかげりがさしていた。講談の世話物とほぼおなじ物語を三味線の伴奏にのせて歌う浪花節の流行に押され、客の生活の近代化が進み、余暇を失った都会人は、もはや昼から、しかもいく日もつづけて、講釈場で講演(口演とも記されるが、明治期の使用頻度が高い講演を用いる)を聞いていることはできなくなった。また、明治後半から大正にかけて民衆に教育が浸透し、語られる歴史的事象が史実に正確ではないとして講談を軽視する傾向があらわれた。やがて、活動写真ほか、多彩な娯楽が庶民に提供されるようになった。効率よく、手ごろで扇情的な楽しみをいくらでも手にすることができるようになると、人々は、講談を忘れた。

それでも講談の物語は、日本人の精神に沁み、講談自体がはやらなくなっても、大衆小説や時代劇にかたちをかえて、その物語は、ながく日本人のかたわらにあった。さらに、物語が消え果ててもその名残りの香味は、かすか、舌先に残っているに違いない。

幕末から、明治、日露戦争までを生きて、講談の全盛時代を築いたひとりが、二代目松林伯円だ。名人上手が多かった明治の世で、講談のうち一番にあげられるのがこの伯円だ。「先ず第一に指を折るのが松林伯円、芸もよければ作も多く、弟子も宜いのが大勢いたので、断然斯界の覇権を握っていた」(今村信雄「講談盛衰記」『講談研究』田邊南鶴、昭和四十年)という。

その多いという「作」も凡作ではなかった。彼は生涯に七十作以上の新作講談を創作した。

伯円が創作した講談はおもしろい。幕末、伯円はどろぼうを主人公にした作品を次々に発表し、世に「どろぼう伯円」とよばれてもてはやされた。彼が高座にあげたどろぼう、悪漢たちは、末路は裁きをうけて処刑される。だからといって勧善懲悪といいきってしまうのはためらわれるくらい魅力的だ。現代人が「講談」という言葉から連想するような、忠孝、勧善懲悪は、もちろん要素として含まれるが、要素のひとつでしかない。悪党には悪党の悲哀があり、善人にも陰影がある。

作品の影響力は強く、多くが歌舞伎の脚本に取り入れられて舞台にかけられ、彼の作品を原作とした小説や時代劇、映画、芝居は十指に余る。松林伯円の名は忘れられても、その作品は、未だに生命を保っている偉大な「作家」なのである。幕末から明治にかけて、これほどの「作家」はいったい幾人いるだろう。
 昭和の大衆文学作家、川口松太郎はいう。

松林伯円は小猿七之助や鼠小僧などの講談を作った名人で、単なる芸人ではなく、立派な創作家だった。伯円が現代に生きていたら、大衆作家としても我れ我れなど足元にも及べなかったであろう。河竹黙阿弥が伯円の創作講談を脚色上演した芝居は残らず当りを取って、現代でも歌舞伎はその恩恵をこうむっている。(中略)が、時代の波は仕方のないもので、伯円の創作力を記憶するものなぞ今は無くなってしまった。創作講談は世話物ばかりで、主人公に泥棒の多いところから泥棒伯円ともいわれ、全盛期の人気はどんな芸人も及ばなかった。
(「紅梅振袖」『人情馬鹿物語』光文社、二〇一八年)

もちろんその芸も優れていた。伯円の弟子のひとり悟道軒円玉は、老境にある伯円が『西京土産噂高倉』を読むのを聞いて、六十代の伯円の声が、ちゃんと年若い悪女お政の声に聞こえ、老人のしおから声が、どうしてこんなに色っぽく聞こえるのかといぶかしんだ。円玉は師の芸をこう偲んでいる。

伯円の読む世話物が傑出してゐたのは第一に少しも下卑て聴こえない事であつたらう。世話物特有の八さん熊さん、果ては泥棒のやうなものが出て来ても非常に上品にきかれ而も頗るイキだつた。(中略)読む調子がいゝ上に高尚で、しかも江戸情緒にみちてイキであつた
(「講談中興の名人 松林伯円」『国本』十五巻十号、昭和十年十月)

イキ。江戸っ子の最上級の誉め言葉だ。

師の芸を回顧するというより、あこがれのヒーローについて語る少年のような昂揚。円玉の感動が伝わる。師の芸を見聞きした記憶は、歿後、何年経っても、震えるように老いた弟子の胸を熱くする。

賛辞と人気と栄誉をほしいままにした伯円だが、けして、はじめから天賦の才があったわけではなかった。むしろ、もともとは訥弁で、声はしゃがれており、芸覚えの要領が悪い方で、名人といわれるほどの芸を身につけるには、文字通り血のにじむ努力を経なければならなかった。天性にあたえられたもので最大限の芸を発揮できるよう、必死の工夫をこらしたのである。岡鬼太郎は回想する。

松林伯円、彼の声は濁ってゐた。其処に彼の寂があり味があつた。釈台を控へての行儀よく、体で仕科をなさず、呼吸と調子で人物を活躍させたが、声柄から流石に不自由を感ずる子供の言葉は、成るべく避けて、親なり附人なりの口を借り、巧みに其の趣を聴かせるやうに工夫してゐた。
読み方は、「御座います」と云ふべき処を、「あります」と云う工合に、率直に、今の口語体以前に於いて、早くもハイカラ口調を創め出してゐたが、其癖、大体は七五調の耳触りよく、言々自ら文を成して、速記に掛けると、それが速記とは思へぬ程に整つてゐた当時斯うした整然たる読み方の人は、此の伯円と、邑井一の両人であつた。
(岡鬼太郎「近世名人評伝三 泥棒伯円」『新演芸』九巻五号、大正十三年五月一日)

明治以降、文明開化が世のなかの正義となると、伯円は、率先して髷を落として散切り頭、洋服に身を包み、釈台をテーブルに、座布団を倚子にかえて観客の前に立ち、読み物も、得意のどろぼう物を避け、際物読みとも見まがわれる時事ネタをどんどん高座にあげて大衆をよろこばせた。

伯円は、幕末からすでに世の人気と賞賛を集められる最高の技倆を手にした名人であった。こんなふうにきわどく芸風を改めずとも一派の隆盛を保つことを得たはずだ。だが、もし伯円が時代を読まなければ、このとき講談は、時代の、一般大衆の代弁者として明治の世に輝くことはなかっただろう。

講談は、同時代を生きる全ての人の願いに従ってうまれる。木村毅は、講談の速記本が上流の人士にも、客待ちをする車夫や理髪店の待合い席に置かれて労働者たちにも読まれ、また知的階級の人たちが高尚な学問のかたわらに手にとっているということを指摘していう。「講談は(中略)決して一人の創作と言ふことが出来ない。神(自然)と噂ずきな大衆との合作である。大衆の嗜好の交響楽である。その中には実にみんなの好みが織りこまれてゐる」(『新版 大衆文学案内』八絋社、昭和十四年)。

伯円は、あえて、幕末、明治を生きた等身大の人間となった。『講談五百年』(佐野孝、鶴書房、昭和十八年)にいう。「伯円は、江戸最後の講釈師であり、明治最初の講談師であつた。彼は旧幕時代から明治にかけて、その時代と共に生き、その時代を代表した希有の名人であつた」。江戸人として徳川時代を愛惜すると同時に、明治の御代の到来をよろこび、文明開化を謳歌し、西洋文化を礼賛し、明治政府の民衆教化政策にも積極的に協力した。自由民権運動に酔い、明治憲法発布を祝った。実に「軽薄」な大衆のひとりとなって時代を代弁しつづけた。ひとえにただ、講談を生きた芸とし、日本人の教養と精神の発達に役立たせるために。

しかし現在、幕末、明治、時代の流行の最先端にたち、民衆の圧倒的な人気を席巻した松林伯円の名は、まったく忘却されている。

伯円は、はじめて高座にあがった十七、八歳のころから、死ぬまで毎日几帳面に日記をつけつづけ、つみあげると背丈ほどになった。この日記は、伯円歿後、三代目伯円をついだ弟子の松林右円が経営していた席亭、八丁堀の住吉亭に保管された。現存すれば、伯円の交際、行動、人物の好悪、日々の感興まで明かになったに違いない。もちろんそれだけでなく、近代の演芸・文化史にとって、鶯亭金升の「むだがき」や依田学海の「学海日録」に並ぶ貴重な資料となったことは言を俟たない。が、じつに惜しいことに大正十二年の関東大震災で一冊残らず焼けてしまった。

この失われた日記のほかに、伯円はみずからの自叙伝を記すことはなかった。少壮時代の芸歴を語ったインタビュー記事はある。だが、それは芸人らしい矜恃を保って適度に剽げて、深刻さが遠ざけられている。歿後、三遊亭円朝のようにだれかに詳細な伝記をものされることもなく、弟子たちも、ぽつり、ぽつりと師の思い出を語っただけで、時間の風化に任せてしまった。この弟子たちの回想のほか、伯円のこしかたを偲ぶことができるのは、伯円が講演中に語った速記本に残された往時の記憶と、当時の新聞の報道を加えるくらいだ。

近年の研究は、吉澤英明の『二代目松林伯円年譜稿』(眠牛舎、平成九年)がある。当時のあらゆる新聞雑誌を調査して伯円の事績を抜き出した非常な労作だが、詳細であるがゆえに伯円の人生を一連の物語としては捉えづらい。ほか、包括的な講談研究の一部か、河竹黙阿弥や三遊亭円朝、仮名垣魯文との比較研究があるが、伯円を真正面からとらえようとしているものは少ない。そして、なぜか黙阿弥や円朝研究者による伯円評は辛い。奇妙な冷たささえ感じる。それが高座において自信過剰で、一面傲岸に受け取られた伯円の性格によるものか、立場として敵役にうってつけなのか、玄人受けしないということか、そのすべてなのかわからないが。

伯円とはどのような人物だったのだろう。どうして講談師を志し、何を願って芸を磨き、死の数年前まで高座にあがりつづけたのか。細切れになった記録をつむぎなおして、幕末、明治を生きた忘れられた名人の、ほのかな面影だけでも浮かびあがらせたい。死と忘却は生けるものすべてに等しくおとずれる。だが、できるならば、伯円の生涯を、彼が生きた時代の余香とともに、しばし地上にとどめておきたい。

伯円の評伝は本来、講談の味わいがわかる通人や演芸に精通した研究者、あるいは実際に講談をなりわいとする人の手によって編まれるべきだ。だが、伯円が歿した明治三十八(一九〇五)年から百十数年間、だれひとり評伝執筆に筆を染める人がいなかった。だから、僭越を承知のうえで書いた。いつか、本当にふさわしい人の手によって、伯円の生涯が語られることを祈りつつ。

さあ、高座がはじまる。
幕末、明治、講談華やかなりしころ。ひとりの名人がおりました。
その名も二代目松林伯円。