【連載】第4回 立身出世は正義か悪か――山城屋和助『萩の露山城日記』 | ゆらめく勧善懲悪 2代目松林伯円の講談世界(目時美穂)

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第4回
立身出世は正義か悪か
山城屋和助『萩の露山城日記』

 スマイルズの翻訳『西国立志編』が刊行されたのは明治4年のこと。成功は努力の結果であって、明治の世の青年たちにとって、身を立てること、財力や権力や名声を求めることは罪ではなくなった。成功者は顕彰されるべき花となった。

 伯円は、無名であった人間が、財界で成功をなした物語を講談にして読んでいる。そのひとつが『萩の露山城日記(はぎのつゆやましろにっき)』(町田宗七、明治24年)である。明治最初期の政商、山城屋和助(やましろや わすけ)の物語である。ただ、この主人公の人生は立志談として賞賛されるには少し問題があった。

■山城屋と陸軍の黒い癒着

 山城屋和助は、長州藩出身。もと野村三千三(のむら みちぞう)といって一時、高杉晋作の奇兵隊に所属していた。明治になると、官職・軍職には就かず、商人になって、奇兵隊の縁故をもちい、陸軍の最高の地位にあった山県有朋との関係を利用して、陸軍の御用商人となり、さらに陸軍の余剰金を借り、その金で生糸等の貿易を行って大きな利益を得た。しかし、いつまでもさいの目が吉とでているとは限らず、ひとたび凶とふれると、掛け金が大きいだけ損害も膨大だった。山城屋は、直接西洋の企業と取り引きして損益を取り戻すため、さらに陸軍から10万円を引き出し洋行する。その金でパリで豪遊し、富豪の令嬢と婚約を交わしたとさえされる。しかし、その間、長州閥と敵対する薩摩人や司法省の追及が激しくなり、山県から再三の帰国の催促をうけ、日本にもどってみると、店をまかせていた支配人たちが、相場に手をだし、30万円以上の損害を出していた。

 陸軍から借入金の総額は65万円におよび、もはや全額返済の見込みはなかった。交渉の結果、65万円のうち年内に15万円だけ返し、政府が定めた保証人をつけるということで、返済を待ってもらえることになった。しかし、政府から保証人として名があがった高島嘉右衛門らは首をたてにふらず、さらに無情にも明治5年は、太陰暦から太陽暦への暦変更が行われ、12月が2日しかなかったため、融資をあてにしていた商家はどこも早まった年末の支払いに窮しており、金策に詰まった。明治5年11月29日、陸軍省に出頭した山城屋は、しらべごとがあるといって教師館に籠もり、割腹自殺を遂げた。張本人が死んだことで、贈収賄の事実も闇のなかに消え、山城屋の借金も返済不可としてあやふやになった。

 山城屋が国庫にあけた穴は、現代価格にしておよそ130億円(1円を2万円程度の価値として計算)にのぼる。ちなみに明治5年の歳入は3262万円(大森徹「明治初期財政構造改革・累積債務処理とその影響」『金融研究』2001年9月)。そのうちの65万円は財政基盤が脆弱だった当時の日本国にとって看過できる額ではない。

 昭和の評論家にして明治文化の研究家、木村毅(きむら き)は、この事件について、

天下、唾棄すべきもの多し。しかし官吏と政商が結託して、ほしいままに国財を放乱し、政商は暴富をつんでいよいよ階級的摩擦を苛辣にするし、官吏は賄賂をむさぼつて、美妓佳酒のぜいたくを極めるのほど憎むべきはない。
(木村毅「陸軍汚職事始 山城屋和助の自殺」『実業の日本』57巻4号、1954年2月)

と怒りをあらわしている。

 政商と陸軍の黒い癒着。むせかえるほど金のにおいがする事件だが、民衆がこの人物をどのようにうけとめたか、実はわからない。というのも当時、世論を反映した新聞が存在せず、民衆の声を拾い上げるにいたっていなかったからだ。

■なぜセンセーショナルに語らなかったのか

 伯円が、山城屋和助の事件を講演したという最初の記録は、明治12年の「萩の露山城日記」。明治12年は、ちょうど、若かりしころ山城屋の客分であったとされた(虚伝であるが)政商藤田伝三郎が、偽札を作ったと疑われて自由民権派の壮士たちから轟々たる非難をうけていた時分である。流行に棹さすならば、おなじく政府中枢と癒着し、国の金を私消した山城屋の事績と自殺の理由を悪因悪果としてセンセーショナルに語ったに違いない、と思われるだろう。

 ところが、不思議。伯円の速記本『萩の露山城日記』を読むと、山城屋はまったく悪人として描かれていない。それどころか、伯円の山城屋はなかなか豪放磊落な魅力的な男である。

 実際はどのような人間だったのか。知られていない逸話はないか。伯円は、山城屋の事績を得るために生き残った関係者を探した。

 幸いにも、山城屋の支配人をつとめていた大川甚兵衛に面会がかなった。山城屋の死の前後、忠臣蔵の大石内蔵助に例えられるほどの忠義と献身を捧げた人物だ。彼は、蚕糸業をはじめた頃の山城屋と出会い、信頼を得て、支配人となった。彼にとって、山城屋は忠義を捧げるにふさわしい人物だった。陸軍への借金返済問題の折には、主人が不名誉なことがあれば簡単に自害して済ませてしまう人格だと知っていたがゆえに、主人の命を守るために命がけで奔走した。

 遺品だろうか。大川は山城屋が洋行した折の日記をもっていて、伯円に預けた。おそらくこの日記ゆえに、講談のタイトルは『萩の露山城日記』となった。

 山城屋の筆頭の妾(山城屋には正妻はおらず妾が3人いた)お浪にも面識を得ることができた。お浪は、山城屋亡きあと、さる豪農の家に嫁いでいたが偶然会うことがかなった。彼女は伯円に山城屋の妾となった次第を語った。明治のはじめ、お浪は品川宿の遊女であった。そのときの客に、山城屋と、同じ合名会社の代表をつとめていた鈴木がいた。ある日、艶笑ばなしとなって、ふたりが「相聟(あいむこ)」(同じ遊女の客であることをこういったらしい)であることが判明した。そこで、もうひとりの合名会社の代表三谷が、品川に出向いてどちらが本当にお浪に愛されているのか賭けようという。お浪が愛しているほうの男の名を書いて伏せた椀に入れることになった。そして、椀のなかの紙には山城屋の名が書かれていた。

 『萩の露山城日記』が他の作品より調査が綿密な印象があり、どこかドキュメンタリー調なのは、想像や創作を加えなくとも物語をまとめるに足る情報をもった適切な証言者を得たためであろう。

 山城屋が婚約したという、パリの豪商の令嬢ワッチの消息もつてをもってたずねた。ワッチは、山城屋自殺の凶報をうけて日本にやってきたというのだ。死者の妻としての態度をとり、自らはクリスチャンであるのに、「夫」のために仏式の法要を執り行った。破産した山城屋を継ぎたいとさえいい、手続きをとろうとしたが、仏国人であるがため法律上許されず、あきらめて国に帰ったという。詐欺でもなんでもなく、山城屋を愛していたのだ。山城屋と婚約を交わしたのは15歳。23歳までは独身であったと知れたが、その後の消息は分からなくなってしまった。

■悪者がいない世界

 贈収賄の黒い霧を告発する話かとおもいきや、『萩の露山城日記』には悪者が誰も登場しない。

 現実には巨悪として攻撃にさらされた山県有朋は、作品のうえでは山城屋の身の上を心配し、なんとかその身を救うために陰ながら助力し、その死に涙を流す。高島嘉右衛門も、手を貸せば、山城屋の自助の力を損なうことになるという理由で、保証人になることを断っている。女たちはみな真心をもって彼を愛し、店のものたちも、まるで忠臣である。

 山県や高島は、伯円にとり大口の贔屓先であり、その感情をおもんぱかったということもあろう。だが、物語全般からは、山城屋和助に対する伯円の明らかな好意が感じられる。伯円は、成功を摑むため、創意工夫をこらし、努力をするものが好きだった。そして苦労して成功したものが、それを誇るのは当然のことと考えていた。失敗や零落は大した問題ではなかった。

 京都大学附属図書館のサイトに山城屋の肖像が公開されている。やや頭髪が薄いほか、取り立てて印象に残る特徴のないごく普通の青年である。考えてみれば、山城屋がみずから命を絶ったのはまだ36歳のことだ。

 山城屋和助とは、政府と癒着し暴利をむさぼった悪人か、立身のため戦った懸命な明治の青年だったのか。少なくとも伯円は、安い正義感にまかせて彼をただの金に汚れた悪党とはしなかった。正否を決めるのは、すでに時を経た闇の中の真実よりも、その生き様をどのように受け取るか、受け取り手、それぞれの判断によるのかもしれない。

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『山城屋和助』(京都大学附属図書館所蔵)https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00021561

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