【連載】第2回 作られた悪女――原田絹「仇嵐嶋物語」 | ゆらめく勧善懲悪 2代目松林伯円の講談世界(目時美穂)
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第2回
作られた悪女
原田絹「仇嵐嶋物語」
■犯罪実録物の流行
明治にはいって、戯作や演劇で犯罪の実録物が流行した。演芸・芸能が報道と密接になったためでもあろうが、「実録」を隠れ蓑に、真実の情報を伝えているという建前で、本来なら、公序良俗を乱すとして排除される犯罪や痴情のもつれといったスキャンダラスな内容を堂々と表現できたという事情もある。
とくに、高橋お伝や、原田絹、花井お梅など、女性の犯罪者の実録物は爆発的人気を得た。
こうした女性たちの実録物は、真実を衒(てら)ってはいるが、著者(演者)も読者(観衆)も、得た、あるいは提供された情報が本当に真実であるかどうかなど、さほど考えもしなかったのではないだろうか。真実かどうかは関心の外にあるからだ。はっきりいってしまえば、こうした実録物からは、美しい女性たちの淫乱な性生活に対する興味、のぞき趣味的グロテスクな社会的要求が透けて見える。
講談も同断。明治実録もののうち『百花園(ひゃっかえん)』に明治26年2月から9月(91号から105号、全15回)に連載された伯円の「仇嵐嶋物語(あだあらししまものがたり)」をご紹介するまえに、明治時代「毒婦」といわれた原田絹について少し述べたい。
■「毒婦」原田絹
原田絹は金融業を営む小林金平の妾で、役者買いにはまり、うち嵐璃珏(あらし りかく)に恋着し、恋を成就させるため邪魔になる旦那を殺鼠剤で毒殺したとされ、明治5年、斬首のうえ晒し首の極刑に処された。処刑から数年後に書かれた『夜嵐於衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)』(岡本勘造、金松堂、明治11年)でも、明治19年に出された『新編明治毒婦伝』(金泉堂)でもお絹はあからさまに淫乱な悪女である。「毒婦」のイメージは不動であったのだ。
ちなみに「夜嵐」の呼び名は、処刑の前に、彼女が「夜嵐のさめて跡なし花の夢」と辞世の句を読んだと創作されたことで付けられた。
伯円の講談「仇嵐嶋物語」は、雑誌『百花園』に載せる題材を選ぶ際、「目覚敷(めざましき)艶気タツプリの情話(はなし)を致して貰ひ度い」との編集サイドの希望で原田絹の物語が選択されたという。この一事をもってしても、彼女らの人生がどういう目的で取り沙汰されていたのかよく分かる。
物語の出だしは、「抑々(そもそも)淫婦原田絹と申すは」と断定的だ。ところが、読み進めても、お絹はなかなか悪女にならない。
■伯円が語る原田絹
実在のお絹の素性には伝わらないことが多く、伯円弁ずるお絹の人生は、伝承、口承からなる9割がたの作り事と思っていただきたい。
お絹は、三浦半島の漁師の娘で海女として育ったが、12歳の時、美貌を見込んだ芸者屋の主に20両で売られ、諸芸を仕込まれ15歳で芸者デビュー。数年後、兵庫の大店(おおだな)高田屋の若旦那吉之助に身受けされた。立場は妾ながら、裕福で惚れた男と一緒になってそれなりの幸せを手にするはずであった。ところが吉之助の地元の兵庫に向かう旅の途中、目下縁談が持ち上がっている若旦那が、結婚前に妾を連れ帰ってはおためにならずと忖度したお供の番頭によって荒れた海に落とされる。
海女として育った出自が幸いし、お絹はとっさに身につけた着物を脱いで荒波を泳ぎきった。そして力尽きて波打ち際を漂っているところを通りがかった男に救われた。男は房吉というならずもので、水死体(だと思った)の女の容貌があまりに美しいので、惜しいと思って見に行ったところ、まだかすかにぬくもりがあったので知人の家に連れて行き介抱してもらった。短絡的な房吉は自分が救った女が自分のものになるのはあたりまえと考え、回復したお絹を女房にし、海に落とされたいきさつを聞いて、はるばる兵庫まで高田屋をゆすりに行く。
ゆすりは思ったよりも稼ぎにならず、会えば吉之助と復縁できるのではというお絹のかすかな希望も、房吉が亭主面していればうまくいくはずもなく、高田屋から貰った金を持って、お絹は房吉とともに江戸にもどり、再び芸者稼業をはじめた。
持ち前の美貌でたちまちに大変な売れっ子となるが、それがまた嫉妬深い房吉には気にいらない。鬱々としているところ、さらに厄介者が家に居着くことになる。お絹が、三浦で漁師をしているはずの父がみじめに零落した姿で往来を行くのを見つけ、家で養うことにしたのだ。父はお絹は実の娘ではなく、義妹の生んだ子で父親はれっきとした武家であることを告げ、あまつさえ金で売ったからには親として尽くしてもらうことはできないと遠慮するが、お絹は恨みの一言もなく12歳までの扶育に感謝して孝養を尽くす。ところが、房吉は、仲のよい父娘の関係にいかがわしい疑いを抱き、父親を毒殺してしまうのであった。
■悪女にならない夜嵐お絹
ここまでのところ、お絹は悪女ではない。むしろ、善良といえる心優しい女性である。伯円の講談では、お絹のこの前半生がくわしく語られるがゆえに、その後の物語を聞いても彼女を心底から悪女とは思えない。
父を殺されたのち、芸者稼業をつづけていたお絹は、ある時、3万石の大名「大壺家」の殿様(下野国那須郡烏山藩3万石の藩主大久保佐渡守。速記では実名を避けて大壺家としてある)のお目にとまって側妾として上がることになった。そこで藩主の寵愛を受けて、男児を出産、御部屋様となる。しかし、もともと歳の差のあった藩主が亡くなると、未亡人待遇で髪を下ろし、仏門ざんまいの暮らしを強いられる。かつては芸者として賑やかな世界に生きていたまだ20代なかばに満たない若い身空だ。陰気な生活に心を病んでしまう。
保養のため箱根に湯治にいったお絹は、そこで出会った若く美しい男と恋に落ちた。男は日本橋の呉服商紀伊国屋の跡取りで角太郎といった。江戸に戻ったお絹は向島小梅の紀伊国屋の寮のとなりに寮を構えてもらい、角太郎と逢瀬を繰り返した。しかし、角太郎は、妻にお八重という令嬢を選び、お絹との縁を切る。お絹は角太郎との情事が大壺家に知られて家を追われる。
明治以降は、小林金平という金貸業の男の妾となる。伯円の講談では、小林は元幕府の鷹匠で、角太郎とお八重が結ばれるのに手を貸し、お絹に角太郎をあきらめるように説得にいって、その美しい容貌に惹かれたことになっている。
小林はお絹のために浅草猿若町に妾宅をかまえた。もともと芝居好きであったお絹が役者買いにはまったのはこの頃のことだ。そして、役者のひとり、嵐璃珏に本気になる。妻になりたいお絹と、さほど気のない璃珏。璃珏はお絹の猛攻撃をかわすために、「立派な旦那がいるお絹さんとは一緒になれない」と告げる。そこで、お絹は璃珏との婚姻の邪魔になる旦那を毒殺する。ちなみに伯円の講談では、お絹は体調が悪いという小林金平のためにしじみ汁や葛湯をこしらえているが、あきらかに毒を盛ったとはいっていない。飲ませたかよりも殺鼠剤を入手したということが死刑判決の決め手になった。
■悪人は誰であったのか
さて、このお絹の人生をみて、淫蕩な女の因果応報だと思うだろうか。
むしろ、縁を結んだ男の善し悪しで人生が決まってしまった旧時代の女性たちの流されるしかない一生に悲しみを感じる。非正規雇用者が、職を変えてもなかなか正社員になれない負の連鎖のように、運命がいくら転換しても、妾や愛人あつかいで正妻にはなれない運命。恋が報われない憂さ晴らしに役者買いをしたがために淫婦の名を残し、さらに果ては実際に犯したのかわからない罪で斬首である。
伯円がお絹の人生に同情していたかどうかは不明である。この講談以外でお絹の名を口にしたという記録もない。梨園の人々と親しい付き合いがあった伯円は、事件の当事者、姦通罪で10年の徒刑に処された嵐璃珏(恩赦にあずかって3年で出獄し、のちに二代目市川権十郎を襲名、歌舞伎役者として大成した)とも交流したことがあった。その当時は「拙者抔(など)と酒を飲み拙者宅へ来て寝泊りを致して随分懇意に遊び戯ふれた事も有升」という。お絹に買われたことがある他の役者たちの名も知っていた。お絹の人柄などは彼らに聞いていたのかもしれない。
当時の成功者の常として、正妻の他に妾もいた伯円が斬新な女権論者であったとは思われない。ただし、明治の世に、数名の女弟子を受け入れて、「珍獣」としてではなく、ちゃんとした講談師として育てたという一面がある。
伯円による明治の毒婦「夜嵐お絹」の印象はいかがだっただろう。
毒婦といわれた美しい悪女が男を惑わせ、殺し、ついには法によって裁かれる勧善懲悪の物語を予想されていただろうか。
結局、伯円が末尾に「実に慎むべきは色情の道」と教訓を垂れているのは、出世前の男たちに対してである。
いったい悪は誰であったのだろう。お絹か、お絹と関係した男たちか。それすらも明白に言い切ることができないのだ。
『新編明治毒婦伝』(金泉堂、明治19年)
[上] 口絵:於衣の肖像
[下] 挿絵:原田お絹密に金平を毒害す
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