アルバイト日誌「卒論執筆記⑥「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」へ―知識の絡まりをほどく―」(2021.11.14、れい)

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 少し前に、ゼミの最後の発表が終わった。内容も時間配分も後悔ばかりで、私自身に憤りを感じた。いつも自分の理想の姿を描いている、けれどもその像とは程遠い現実に打ちのめされている。書くことと発表すること、というのは段階が違うものだと最近気が付いた。執筆している時の核たる正しさのようなものは、いざ発表してみるとバラバラに崩れる。声に出して他者に伝えることは、一方で自分を俯瞰する行為でもあるのだと思う。

 絶え絶えの知識が絡みついて見通しのつかなくなった私は、異なる文化に触れたくなった。違う風が、解けない糸をほどいてくれることを期待した。訪れた先は、Bunkamuraで開催されている「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」。実は、今まで西洋美術にあまり興味がなく、展覧会でも日本文学、日本美術を中心に見てきた。興味を持った直接の理由は、ある本の中にフランス画家の名前があったからだが、最近、それぞれの文化の違いに対して以前よりも自覚的になって、異なる美しさを楽しむことを知り始めたからというのも大きい。そして、コロナ禍で博物館の開館が制限された日々、デジタルアーカイブの充実に喜ぶ一方でゆるぎない本物の力を感じたことも、隙間時間の中でも訪れてみたいという気持ちにさせた。

 私が行った日は日時予約が必要だったため、入場人数が制限されており一点一点の絵画の前に一人で立ってじっくりと鑑賞する時間があった。今まで人気の展覧会というと、人の多さから流れに沿って見ることしかできなかったので、作品と向き合う時間があるというのは嬉しかった。展示作品はどれも有名なものだが、油彩の立体感と質感、色のコントラストは自分の目で見なければ分からないもので、絵が生きている感覚がした。そして、絵画と私との間に隔たるものは何もない、ただ「見る」というシンプルな行為が私の心を解きほぐした。

 卒論で扱っている作品と今回鑑賞した西洋絵画とは、わずかな共通点を見出すことはできるが、時代や国、文化や当時の美術のあり方も大きく異なっている。けれどもその目で作品に触れることは、血となり肉となる。アルフレッド・シスレー「ロワン河畔、朝」の微妙な色合いの変化を持つ青空を見た時、その繊細さに憧れて、柔らかくも細かに表現する言葉を持ちたいと強く思った。美しいものに出会うことがいかに尊くて幸せなことか、帰り渋谷駅のスクランブルスクエアに寄り道をしながら反芻した。美を体感したこと、言葉とは違う「絵」という表現世界に触れたことで、研究対象への見方も少しだけクリアになった。

 図書館と家にこもる日々、私は何も進んでいないのではないかと不安な気持ちをよそに、朝の空気は確実に秋が深まっていることを伝える。残り一か月、私には書くことが出来る、そう信じ続けることが一番大切だと胸に刻み、今日もパソコンの前に座る。