木越治・丸井貴史編 『読まなければなにもはじまらない いまから古典を〈読む〉ために』第1部(木越 治)より「1 はじめに─読まなければなにもはじまらない」を公開
Tweet木越 治・丸井貴史編 『読まなければなにもはじまらない いまから古典を〈読む〉ために』第1部(木越 治)より「1 はじめに─読まなければなにもはじまらない」を公開いたします。ぜひお読み頂ければと思います。
●本書の詳細は以下より
木越 治・丸井貴史
『読まなければなにもはじまらない いまから古典を〈読む〉ために』
ISBN978-4-909658-67-8 C0095
A5判・並製・320頁
定価:本体1,900円(税別)
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1 はじめに
─読まなければなにもはじまらない
木越 治
『ネバーエンディング・ストーリー』という映画があります。いうまでもなくミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を映画化したものですが、ここでは、映画に即して話していくことにします。この映画のストーリーをわかりやすくまとめると以下のようになるでしょう。
少年バスチアンがいじめっ子に追いかけられて逃げ込んだ古本屋。そこで見つけた、ほこりをかぶった謎めいた一冊の本『ネバーエンディング・ストーリー』。この本に心惹かれたバスチアンは学校に持ち込み、授業をサボって屋根裏部屋で読みふける。その本のなかで語られていくのは、「ファンタージェン(=ファンタジー世界)」の危機であった。姿なき「虚無」が、「ファンタージェン」を次第に浸食しているというのだ。若き勇者アトレイユは「ファンタージェン」の王である「おさな心の君」の命により、幸運の龍ファルコンらの助けを借りながら、国を救う者を探す旅に出て、そこでさまざまの異形のものたちとの出会いを重ねながら、「ファンタージェン」を救うものが誰かを探しあてようとする......。
有名な映画ですから観た人も多いでしょう。もしまだの人がいたら、たいていのレンタルショップには必ずあるはずですから、ぜひ観るといいと思います。
大学で「古典文学入門」や「日本文学入門」というような授業を担当したとき、私は、最初の時間にこの映画を教室で上映し、そのあとで、「この映画はどういう点で「古典文学入門」(あるいは「日本文学入門」)の最初に見るのにふさわしいでしょうか?」というテーマで簡単な感想を書いてもらうことをよくやりました。単に「映画の感想を書いてください」というだけですと、「とてもおもしろかった」とか、「アトレイユがステキ」「できることならファルコンに乗ってみたい」などというようなのがまじってくるので、そういうのを排除するために、自然にこういうふうになってきたものです。
しかし、そういうふうにテーマを限定して聞いてみても、返ってくる感想の多くは、「想像力は文学にとって大切なものだということをわかってほしいから」「いつまでも少年のような心を大切にしないといけないから」というふうな内容の、少年バスチアンが読んでいる物語のなかから教訓を見つけてくるような感じのものが大部分でした。もちろん、想像力は大切です。この映画に出てくる、岩を食べるロックバイターや空を飛ぶファルコンや得体の知れない予言者の亀モーラなんていう不思議な存在を生み出したのは、すべて想像力によるものなのですから。ただし、それだけのことであれば、この物語は「ファンタージェン」のなかの物語を語るだけですませておけばいいはずです。しかし、この映画はそうはなっていません。「ファンタージェン」にいま危機が迫っている、というふうにいきなり始まるのではなく、いじめられっ子バスチアンが『ネバーエンディング・ストーリー』という本を入手し、それを読みはじめるまでの経緯を丁寧に示したのちに、その本のなかの世界がはじまる、という二重構造にすることを選んだのです。しかも、さらに念が入っていることに、勇士アトレイユが「ファンタージェン」を救う旅を続けている合間合間に、学校の屋根裏部屋で、この物語を読むことに熱中し我を忘れているバスチアン少年の姿を繰り返し繰り返し挿入していくのです。
そして、この二重構造の意味は、勇士アトレイユが最後にたどりついた、この国を救うものを映し出す鏡のなかにバスチアンの姿が現れたときはじめて示されます。より明瞭なかたちで語られるのは、命令を果たせないまま傷ついた身体で帰ってきたアトレイユを迎える、「おさな心の君」の次のような言葉です。
いいえ、あなたはすでにこの国の危機を救ってくれる人をもうすでに見つけてくれましたよ。ほら、その人はそこにいるではありませんか。
この言葉とともに、バスチアンは「ファンタージェン」の世界に招き入れられ、アトレイユにかわってファルコンに乗り、「ファンタージェン」の再生を果たしたのち、自分の国に帰ってきて、彼をいじめた少年たちに仕返しをしていくわけです。いかにもファンタジー映画らしい結末ですが、ここでなによりも注意してほしいのは、物語を読み続ける少年バスチアンと「ファンタージェン」との関係です。「ファンタージェン」を存在させているのは、少年バスチアンの「読む」という行為そのものであり、この映画の基本構造がそこに置かれていることを見逃してはならないと私は思います。
この映画の構造は、そのまま、作品と読者の関係に置き換えることができるはずでしょう。すなわち、作品は読者が読まない限り単なる紙とインクのかたまりにすぎない、あるいは、「読む」ことを通してはじめて作品は生命を与えられる等々といった、わかりきっているけれどもあまり意識されない事実です。
ここで、最近の私自身のやや卑近な体験を書いてみます。
このところ数年、電車のなかでは、佐伯泰英という文庫書き下ろし専門作家による剣豪小説シリーズを読破していくのを習慣にしています。ご承知の方も多いと思いますが、この作家の文庫本シリーズはとても種類が多いので、ひとつひとつ順に片づけていく方針にしています。
この九月で、関八州を舞台にした「夏目影二郞始末旅」シリーズ全十五冊を読み終えましたので、十月からは「交代寄合伊那衆異聞」というシリーズに挑戦し始めています。で、このシリーズを読み始めたとたん、それまで本屋さんや図書館でなんの感情も湧かなかったこのシリーズの巻々がとても親しみ深く感じられるようになってきたのです。それ以前は、まだ読んでいないシリーズだなという程度の感じしか持たなかったのに、主人公の設定や作品の世界が呑み込めてくると、未読の巻の裏表紙にある解説文を見たりして、この先の展開を予想したりするようになってきました。シリーズを読み始めない前には決してやらなかったことなので、この変化は自分にとって、とても新鮮な感じがしました。
書物に対するこういう感じは、図書館や本屋さんで既読の本を見たとき、あるいはそれらが再刊されたときや、文庫その他別のかたちで出たときにも感じるものと共通するものでしょう。思わず懐かしくなって手に取ってみたくなる感じ--手元にすでにあるわけですから買ったり借りたりすることはないわけですが、でも、手に取ってみたくなる、というこの感じは、本好きの人ならきっと経験していることではないかと思います。
文学作品を「読む」という行為は、作品とこういう親しい関係を作っていくことに尽きる、といっていいのですが、古典の場合には、そのような関係を作るまでに、言葉の問題をはじめとして、さまざまの知識が要求されます。そして、そういう知識が増えていくのと比例するように、作家とか作品というものの存在は自明のようになっていきます。
たとえば『源氏物語』について、原文はほんのわずかしか読んだことはないのに、登場人物やおおよそのあらすじは知っている、というようなことはしばしば経験することではないでしょうか。しかし、我々にとって、ある作品が存在しはじめるときというのは、その作品を自分で読み終えたとき以外にはないのです。どんなに立派に解説ができても、その作品を読まない限りは、あなたにとって、あるいは私にとって、それは「存在」しているとはいえないのです。
文学作品を「読む」ということは、実はかなり面倒なものです。古典文学や外国文学だけでなく、現代日本の作品でも、本当の意味で「読む」となると、実はかなり手間がかかるものです。新聞や週刊誌を読むようなわけにはいきません。だから、ついつい気のきいた解説や口当たりのいい批評などを読んだだけで、その作品について知った風な口をきいてしまう、ということをしてしまいがちです。それだけですましても、とりあえずは「文学」がわかっているという顔をすることはできます。しかし、どんなにつたない解説しかできなくとも、作品を読むということをまず「経験」せよ、それがなににも勝るものである、というなかなかに辛口のメッセージを、この口当たりのいいファンタジー映画は我々に教えていると思います。
そして、さらにいうならば、現代はこの「読む」という力が目に見えて衰えている時代だと思います。少しばかり含みの多い言い回しをしようとしても、その表層だけしか受け取ってくれない、あるいは、表面的な言葉遣いだけをとりあげてあげつらう、という例をしばしばみかけます。少し前に新聞に出ていたOECD(経済協力開発機構)諸国の子供たちの学力調査で、日本の子供たちの読解力が減退していることが報じられていましたが、それはまさに、私の危惧していることが数字で証明されていると思いました。そして、その責任の一端は、我々国語教師の側にあるのかもしれません。もちろん、我々だけに責任があるとまでいうつもりはありませんが、どうしたら「読む力」を養うことができるか、私たちはさまざまのかたちで工夫していかなければならないと思っています。
しかし、お説教臭いことを書くのは私の趣味ではありません。むしろ、私の体験を語ることで、その意図をくみ取っていただければと思います。
以下に書くのは、最近教室で遭遇した例です。
『平家物語』の最初の方の巻に、平家討伐のための鹿ヶ谷の密議のことが出てきます。内通者によってそのことが清盛のもとに伝えられ、首謀者たちはたちまちのうちに捕らえられてしまい、あるものは斬殺され、あるいは流刑地で亡くなります。なかでも、鬼界が島に流された俊寛僧都や平康頼のことは、お芝居になっているのでよく知られていると思います。そのなかに、平康頼が自身の許されることを祈願して、二首の和歌と自分の名前を書き付けた千本の卒都婆を鬼界が島から海に流すというエピソードが出てきます。そして、そのうちの一本が偶然にも厳島神社の海に流れ着き、康頼とゆかりのある僧に拾われます。この僧はそれを都に持ち帰り、都の郊外でひっそり暮らしている康頼の母や妻のもとに持参し、その卒塔婆を見せます。この卒塔婆のことはやがて後白河院や清盛の耳に入り、彼らが許されるきっかけになるのですが、このとき卒塔婆を見せられた康頼の母や妻は、こんな言葉を発しています。
「さらば、この卒都婆がもろこしのかたへもゆられゆかで、なにしにこれまでつたひ来て、いまさら物をおもはすらん」とぞかなしみける。
(「この卒塔婆は、本来ならば、中国の方に流れていくものだろうに、そうではなく、この地にまで流れ寄ってきたとは......。そうやって我々のもとにやって来て、わたしたちに、どうしていまさら「物を思わせる」ことをしてくれるのだろう」と悲しんだ)
以下において、古典本文を引用する際には、できるだけ私自身のやや自由な訳(現代語ではあまり用いない敬語の類はできる限り省略するようにしています)を付すようにするつもりですが、流刑地から流れ着いた我が子・我が夫の手になる卒塔婆を目にした都の家族が、嬉しいでもなく悲しいでもなく、「なにゆえに、我々に物を思わせるようなことをしてくれるのか」と言って悲しんだ、というこの箇所を教室で読んだとき、最初、私はとても不思議な気持ちになりました。というより、「なにしにこれまでつたひ来て、いまさら物をおもはすらん」というのは、せっかく都まで卒塔婆を運んできてくれた僧に対して、なんてよけいなことをしてくれたんだ、と怒っているような気がして、正直なところはなはだ違和感を覚えたのです。
でも、そのような言葉を発した康頼の母や妻の立場に自分の身を置いて考え直してみると、逆に、彼らは正直な気持ちだったのではないかと思えるようになってきました。自分たちはいま平家に謀叛を企てたものたちの家族ということで、都の片隅でひっそりと世を忍ぶように生きているしかない。そこへ康頼の、都に帰りたいという気持ちを訴えた和歌を記した卒塔婆が突然届けられたわけです。とすれば、それを見たとき、どんな気持ちになるでしょうか? 自分たちをこんな生活に追い込んだのは、康頼よ、あなたの軽薄な判断ミスによるものではないか、という怒り。もう、あなたのことは死んだもの(あるいは流刑地で死んでしまうだろう)と思ってあきらめていたのに、という思い。それとともに、もちろん、生きていることを知った喜びもあります。
が、生きていると知った以上、いま、どんな生活をしているのだろうかという、家族であれば当然の心配も浮かんできますし、都に帰りたいという康頼の願いの切実さを知れば知るほど、いまの自分たちに何ができるだろうか、という思いも湧いてくるでしょう。そうしたもろもろの溢れてくる思いを、嬉しいとか悲しいというような簡単な言葉で表現することは不可能です。なにゆえに「いまさら物をおもは」すのか、という、一見不満を述べているような言い方のなかにこそ、自然な感情の発露があると思われてきて、私は深く納得したものでした。
もちろん、そのことをすぐに理解したわけではありません。若い学生たちを前に、自分でも戸惑いつつ、彼らの意見をも聞きながら、自分なりにあれこれ考えて、ようやくたどりついた自分なりの解釈です。
そして、この箇所について考えていたときに私の頭をよぎったのは、大学時代に事故で亡くなった弟に関するある思い出です。
東京で大学院生をしていた頃のことですが、夏休みに帰省した私に、母親がなにやら浮かない顔でこんな話をしてくれたことがありました。要約すれば以下のような内容です。
春先に、家に電話がかかってきた。出てみると、弟が高校二年の時の修学旅行のときに仲良くなったバスガイドさんからだった。その電話の内容は、以下のようなものであった。
「息子さんが亡くなったということを最近知ったので、電話しました。お悔やみ申し上げます。実は、わたくしのところに息子さんの声が録音されたカセットテープがあります。修学旅行中のバスのなかで録音したものです。よろしかったら送りましょうか」
母親はとりあえず、
「どんな内容か聞きたいから、よかったらこの電話で聞かせてくれないか」
と頼み、そのカセットから流れてくる弟の声を聞いた。
「で、どうだった」
と聞いた私に、母親は
「なんか、とても気持ちが悪かった」
と答え、
「テープは送ってもらわなくていいです」
と向こうには返事したそうです。
「失礼だったかなあ」
というので、どうやらそのときにどうすればよかったのだろうか、向こうの人に失礼なことをしたのではないだろうか、ということを私に相談したかったらしいことがわかりました。
「いや、そんなことはないだろう」
と、そのときの私は答えてすましたように思います。
そのことが、この『平家物語』のエピソードを読んだときに突然思い出されたのでした。
電話をかけてきた方は当然好意であり、母親が喜ぶだろうと思ってのことだと思うのですが、母親が当惑した気持ちは、いまになってみればとてもよくわかる気がします。送ろうと電話をかけてきた方の好意と、電話ごしに弟の声を突然聞かされて当惑している母親。そういう落差が、『平家物語』のこの箇所を最初に読んだときに私が受けた感じによく似ているように思ったのです。
そして、そういうふうに自分の体験と重ね合わせていくと、なにげない一節なのですが、ここにはずいぶんと深い「人性の本質」を語るものがあるように思えてきて、うなってしまったのです。
そのあたりの機微を、年若い学生諸君にわかってもらえたかどうかはわかりませんが、こういうところにひっかかり、なぜこんなことを言わせたのだろうと考えるところに、古典を読むおもしろさが潜んでいるのだと思わないではいられませんでした。
最初に述べたように、文学作品は、読まなければなにもはじまりません。それと同時に、漫然と読んでいるだけでは、単に面倒な文章を読むという「お勉強」をしているだけになってしまうので、そのおもしろさはわかりません。書かれていることにひっかかり、なぜこんなことが書かれているのだろうと考えながら読む、そのことによって、その背後にあるさまざまの要素がわかってくる。それによって、その本文に含まれている意味がより深く理解されるようになるのです。そうなってはじめて、古典を読む意味が、本当にわかってくるのではないでしょうか?