畑中千晶『これからの古典の伝え方 西鶴『男色大鑑』から考える』刊行記念エッセイ「胸がふるえる瞬間を−誰かに伝えてみたくなる古典文学−」

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2021年3月に刊行した、畑中千晶『これからの古典の伝え方 西鶴『男色大鑑』から考える』を記念して、自著を語るエッセイをお寄せいただきました。ぜひお読みください!

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畑中千晶『これからの古典の伝え方 西鶴『男色大鑑』から考える』(文学通信)
ISBN978-4-909658-53-1 C0095
四六判・並製・304頁
定価:本体1,900円(税別)

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畑中千晶『これからの古典の伝え方 西鶴『男色大鑑』から考える』刊行記念エッセイ
胸がふるえる瞬間を
−誰かに伝えてみたくなる古典文学−

◆畑中千晶
 
 

人びとは、胸がふるえる瞬間を待ち望んでいる
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 あるお笑いコンビのドキュメント番組を、たまたま終わりまで視聴した。ラスト、番組のタイトルに沿った問いにずばり答える場面。一人がごく常識的な内容を語ったのち、ふとカメラ越しにディレクターを見て、「刺さってないですか」と聞いた。きっとディレクターの表情に、何かもの足りなさが見え隠れしていたのだろう。次に、相方がまた別の視点から、耳目を集める意外なキーワードとともに自身の考えを語り、すかさずカメラに向かって「刺さったでしょ」と言い放った。「刺さらない」答えの次に「刺さる」答えを出してみせる。見事な構成である。

 「刺さる/刺さらない」という表現が、人の心に残す印象の鮮明さを示す、ある種の評価基準として使われ出したのはいつ頃からなのか、また、どのくらいの層にそれが浸透しているのかなどは把握できていないが、少なくともマスメディアで活躍する人びとにとっては、必須ワードであるに違いない。一昔前であれば、「つかみ」などと表現されていたものに近いのだろうか。でも、「つかみ」が、ごく大雑把で、しかも、やや力任せという連想を呼び込むのに比べて、「刺さる」は鋭角的でピンポイント、心に深く食い込むような印象を受ける。考えてみれば、「萌え/エモ/胸キュン/切ない/推し」など、ポップカルチャーで頻出するワードの多くも、「刺さる」か否かと連動しており、つまるところ、心拍数を押し上げるものという共通要素が浮かんでくる。どうやら人びとは、胸がふるえる瞬間を待ち望んでいるらしい。

想像力豊かな人の翼に乗せてもらいながら、作中世界へと飛翔していく
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 ならば、古典の伝え方においても、そうした瞬間を追い求める方法があっても良さそうだ。享受者に「刺さる」古典。あるいは、自分にどのように「刺さった」のかを伝えるというあり方。教室で古典の授業を行う際にも、淡々と模範解答を示すのではなく、作中のその場面が肌身に迫るものとなるようにふくらませつつ提示したなら、その解釈はきっと学習者に「刺さる」ものになるはずだ。

 作中人物の「生」を追体験するということは、つまり、創作的な読み方をするということである。と言っても、創作すること、それ自体が目的なのではない。それよりも、創作に触れる(それを享受する、あるいは、実践する)なかで、その作中世界の住人となり、そこで起こることを肌身で感じて、心動かされる瞬間こそが大事であろう。そこには何ものにも代えがたい喜びがある。本書でアダプテーション(漫画化、演劇化等)に重きを置くのも、結局はここに理由がある。想像力と創造力の醍醐味である。想像力豊かな人の翼に乗せてもらいながら、作中世界へと飛翔していくということである。その楽しさにひとたび触れたなら、きっと今度は、自分でもそれを行ってみたくなるに違いない。そんなふうに、誰かに伝えてみたくなる古典文学。それを目指したのが本書である。

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Photo by Delaney Van on Unsplash