第三回 興味関心を奪いあうオンライン授業の世界で●【連載】窓の外から―なぜ日本古典文学なのか(梅田 径)

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第三回 興味関心を奪いあうオンライン授業の世界で

梅田 径

▶︎感染症時代におけるオンライン教育の狂騒

コロナウイルス感染症が流行している2020年は狂騒の年だった。オンライン授業が始まり、しかし「オンライン授業」なるものが何を指すのか判然としない。「オンライン」で何をどうしたら授業として成立するのか、成績評価はどうするのか。判然としないながらも小中高大の講師陣の決死の努力によってオンライン授業は実施され、ありとあらゆる組織や企業もまたオンライン授業に参画するようになる。
 
オンライン授業を、以前から広くあったオープンユニバーシティ(開かれた大学)の延長だと考えるなら、情報科学等の分野では、感染症流行のダメージは比較的少なかったのかもしれない。ただ、現物を扱う実習を含む領域ではそうは行かない。ハーバード大学の教育学コースでは授業のクオリティを担保できないという理由で博士課程の募集を停止するという事態にまで追い込まれた。
 
また、民間のいろんな企業がオンライン授業ブームを機にとオンライン教育のサービスに多数参入するようになった。Googleも――これはコロナと直接関わらないと思うが――また独自の教育課程を整定して「大学卒業と同じ扱い」というオンラインコースを用意した。とあるウェブサービスでは中学高校などにブログサービスを提供し、いろいろな試みを発信するサービスなどを提示していたし、先生側にターゲットを絞って教材を提示するもの、ウェビナーにオンライン授業用のツール、授業のコースなど多彩なコンテンツが用意されている。しかし、企業主導のオンライン教材は、教育基本法にも学習指導要領にも総則にも触れていないので正規的なカリキュラムとしては使えない・使いにくいという事情もあるようだ。

新しい技術に触れ、新しい試みを行うことは悪いことではないと思うけれど、近代以降の教育の本質は真理に宿る。信頼性のある妥当な説明――つまり知識として提示するに値する深い裏付けにあったのだから、「新しい試み」が「新しい」だけでは高い信頼性を持てないのも仕方ないことだ。なぜなら、それは「新しい試み」なり技術なりが、どのようなイデオロギーやトラブルを内在させているのかわからないし、場合によってはトンデモ(水素水とか、江戸しぐさとか)ではないかという警戒感もちゃんとした現場にはある。オンライン授業のあれやこれやは、各種法規との整合性、それから省庁の意向、非常勤講師への一方的な通告による自弁など、いろいろな規約や力関係も背景にはあるのだが、すくなくとも学校でトンデモとオカルトを積極的に学ばせるのだということに賛成する向は少ないはずだ。

▶︎教育目的のゲームマップ

オンライン授業という言葉が一人歩きをはじめたころ、UBISOFT(ユービーアイソフト)が古代ギリシャを舞台にした大人気ゲームである『アサシンクリード オデッセイ』の「ディスカバリーツアー」を無料で公開した。「外出しないで家で過ごす人々のために」という題目ではあるが、以前にもノートルダム大聖堂が焼失してしまった折には、フランス革命をテーマにしたゲーム一本(『アサシンクリード ユニティ』)がまるごと配信されていた。

「アサシンクリード」はUBISOFTが開発・販売する全世界でバカ売れするビデオゲームシリーズ(AAAタイトルという)だ。ジャンルはオープンワールドアクションRPGで、どの作品も近世以前の世界各地の歴史的事件をテーマにしている。第一作目は第三回十字軍遠征時代のエルサレムを舞台にした作品として、歴史ファンを中心に話題を集めた。第一作目からしてPS3で10万本のヒット作だったけど、火がついたのはイタリアルネサンス期のイタリア各地を舞台とした『アサシンクリードⅡ』、『ブラザーフッド』、『リベレーション』の三部作で、誰もが知っている美しいローマ・イタリアの文化遺産をパルクール(フリーラン)で駆け回りながら、パッツィ家やボルジア家の屋敷をあさり、コロセウムやフランチェスコ大聖堂のような歴史的建造物を登ったり、走り抜けたりができる爽快感は、当時のゲーム業界に衝撃を与えた。

コロナ流行下で配布されたのは、もともと無料のダウンロードコンテンツとして配布されていた敵もいなければイベントもない「ディスカバリーツアー」だ。シナリオは付属せず、当時(古代ギリシャや古代エジプト)の建築や生活や著名人についての大量の解説をツアーすることができる。教師が生徒といっしょに回覧したり、建物や人物を紹介するような利用が考えられていた。これはこれで悪くはない。悪くはないし、大変勉強にはなるのだけれど、いくらなんでも「アサシンクリード」で「教育」というのは――厳密には、正式な学校教育の中に「アサシンクリード」が入り込むのは、さすがにちょっと問題があって警戒すべきだと思っている。

なぜなら、この「アサシンクリード」の根本的な設定(物語と言い換えてもいいかもしれない)は、オカルトそのものだからだ。
 
▶︎「アサシンクリード」と陰謀論

第1作目では、十字軍(テンプル騎士団)とエルサレムの暗殺者教団(アサシン教団)との対立を描いていた。それが地域も時代も全然異なるシリーズとして長期にわたって展開し続けているのは、この二者の戦いが現代まで続いている、という設定を引き継いでいるからだ。「アサシンクリード」シリーズにおける歴史的な舞台、すなわちイタリアなり、エルサレムなり、大航海時代のカリブ海なり、アメリカ建国期なり、ペロポネソス戦争なり、ヴァイキング時代の北欧なり、世界史的に相互の影響力を持たないバラバラな時空間を走り回って体験出来るのはひとえにこの設定による。実は、これらの世界はすべてその時代に生きた人物の遺伝子の記憶を、アニムスという機械を通じて体験しているという設定なのである。

そうした「過去の体験」がストーリー上必要となるのは、この現代において、表向きの社会を裏から支配しているテンプル騎士団に対して、劣勢で少数派のアサシン教団のメンバーたちが対抗するためだ。プレイヤー側はアサシン教団のメンバーであり、過去の記憶を通じて世界の神秘(予言者とかいろいろあるんだけど全部割愛)に先んじて触れようとする、という話になっている。

この設定があるために、「アサシンクリード」シリーズの多くには現代パートがある。現代パートについては評価が分かれる印象があるが、舞台そのものは歴史的過去であるにも関わらず、現代の視点から、人物や建築物評を読むことができるようなっている。今ゲーム中ではよじ登れる建物も、あと百年後に戦争で崩壊してしまうのだといったような、たしかに「教育的」ではあるような、しかしなんともシニカルで歴史の残酷さを思い知るような製作者のコメントを読むことができるのも、本シリーズの魅力だ。

ちなみに『アサシンクリードⅣ ブラックフラッグ』になると、それまでと現代パートの様相が変わって「プレイヤーの君がアサシン教団のメンバーだ!」という感じになっている。なかなか没入感があっておすすめだ。カリブの海を自在に往復するのは骨が折れるが楽しくもある。テンプル騎士団とアサシン教団の対立は世界史的な出来事を象徴する陰謀論の極地である。だから、二者の対立はより秘伝的で神話的な世界(アダムとイブ、そして智恵の実)へと遡るし、その神話的な世界から現代までを一直線の歴史として描こうとするのだろう。

▶︎町おこしとオカルト

ちょっと話の目先をかえることにしよう。ライターの昼間たかしは、近年の町おこしにオカルト的な言説が入り込んでいることを指摘している。第二次安倍晋三政権下で行われたクールジャパン(対外国)政策に加えて、地域創生(対国内)政策で、あらゆる地方が〈ご当地〉なんとかをアピールしなければならなくなった、という背景がここにはある。

ひこにゃんなりくまモンなり、現代でも通じる象徴的なアイドルを生み出すことに成功した自治体はまだいい。埼玉県羽生市では「ゆるキャラグランプリ」で羽生市始まって以来の来客があった由だし、三重県津市ではNPOと強調した芸術劇場との協同で手堅い演劇ファンを生み出しているし、金沢には現代アートに通じた21世紀美術館がある。京都は歴史的遺産が多くあって、観光客には困らない(コロナ禍で困っているかもしれないが)し、大阪、東京、札幌、福岡といった都市圏は歴史や物語に事欠かない。あるいは戦国期に著名な武将がいた地域(岐阜とか)や、徳川家のお膝元だった茨城(水戸黄門だね)や名古屋も同じように史跡には困らないし、もっと直接的にお金が稼げる施設、たとえばカジノを誘致しようというところもある。

ところが、観光資源の整備に助成金が必要な地域はそもそもそうした「大きな歴史」に関わらないことが多い。残念ながら、一般的に実証的な歴史記述はその重要性に地域ごとに差を与えがちだ。地域の単位が狭くなればなるほど、さらに地区固有の歴史遺産は減少していく。だから、観光資源に繋がるような「歴史」を補償(保障ではない)してくれる物語(オカルト)があれば、それにすがりつかざるを得ない。まさに藁にもすがるといった気持ちなのだろう(本心でやっていたら困る)。歴史ある寺院がニューエイジ思想にハマってしまったとか、和尚さんがオカルトにハマってしまったといった事例とは深刻さが違う。公的な機関が非科学的な根拠のない、むしろ間違いである「デマ」を正史として、観光資源として客を呼ぼうというのだから。

こうした事態は、「歴史遺産の観光資源化に対する過度の幻想」によって引き起こされる。観光というワードはゼロ年代を通じてインバウンドやIR(統合型リゾート)などいろいろな方策と共に、日本経済起死回生の一手として培われた。その流行のあらわれとして、「聖地巡礼」という新しいタイプのツアーがある。元来は宗教的な動機による特定地域への訪問を指すのだけれど、日本ではアニメーションやゲーム、テレビドラマなどの舞台になった場所を訪ねるという意味で普及した。

聖地巡礼については専門誌まで出来るほど研究されており、尾道から大洗、鴨川まで様々な地域で実践されてもいる。実際に巡礼する観光客たちは「聖地」以外にも同じ地域の他の観光地や名所を訪ねる傾向も強く、観光資源になるような「アニメの舞台」として作品を招致するようになっていった。しかしそのような「舞台」にふさわしい風光明媚で特徴的で何かのドラマが起こりそうな場所というのはそうそうあるものではないし、「聖地」であることと「生活地」であることの摩擦も絶えない。歴史があって風景があって絵になるような作品の舞台になる条件は微妙に難しいのだ。

そうした「作品」を持たずに自前の歴史で〈物語〉を代弁できる地域はほとんどなく、ベットタウンでも工業地帯でもなく、名産も特徴もないわけではないけれど、それが観光の決め手になるかどうかは微妙である......。そういうとき、人間は怪しげな歴史にすがってしまう弱い生き物なのだろう。花鳥風月草木の自然環境を歴史とは呼ばないように、歴史とは全ての大地にあまねく存在するものではない。ひとたび観光資源として期待されると、何かの痕跡(記録)によって記された大きな出来事を含んでいることが期待されてしまう。そしてそれは記録があれば歴史になりうるということでもある。だったら簡単――記録を捏造してしまえばよい。

▶︎『予章記』と記録の捏造

実際過去の捏造はいつの時代もどこにでもあることで、地域創生がその嚆矢というわけではない。

例えば『予章記』は現愛媛県伊予国を支配していた河野氏が作り出した室町時代の歴史書である。近代にはSFモドキのデタラメとして一蹴されていたが、上代神話であり軍記物語でもあるような歴史書として近年日本文学研究の領域で注目を集めるようになっている。

『予章記』は上代から室町時代までの伊予の歴史を纏めた本という体裁だが、とくに上代編は大変めちゃくちゃで趣深い。河野氏の祖先は百済が日本に攻め込んできたとき「鉄人」なる兵器を押し出してきたものを、その足の裏に弓を射て倒したのだそうだ。当然そのような歴史的事実は全くなく、種々の文献のでたらめな引用とホラが綯い交ぜに、河野氏の伊予支配を歴史的に(つまり上代から〈現在〉たる室町時代まで)正当化する内容になっている。上代編は立派な偽文書なので、歴史学的には一顧だにする価値もない。

一顧だにする価値もないが、ここには歴史の空白地帯を記述で埋めたい、何もない自分たちに「何か」をまとわせたいという強い欲望がある。ユヴァル・ノア・ハラリによると聖書の時代からいままでずっとフェイクニュースで作られた歴史を生きていることになるけれど、日本もまたフェイクニュースの制作においては世界各地に劣らない。でも、私たちは捏造された過去を信じているとろくなことにならないし、それしか信じるべき地域の歴史がない、という事態は、現代における「歴史」と「観光」をめぐる争いにすらなりつつある。

現代のみならず捏造された歴史と向かいあうことはずっと必要とされてきたのであり、捏造ではない正しい歴史なるものの退屈さに比べれば、フェイクで彩られた鮮やかな物語は私たちを地域や人物に強く惹きつける。

▶︎「アサシンクリード」で学ぼう?

さて、「アサシンクリード」にぼくが疑義をもつのも基本的には上述の通りで、リアルな中世の(あるいは古代の)マップが作れるのはたくさん売れる強いコンテンツだからで、歴史遺産を走り回れる優れたゲームであり、その優れたストーリーの部分をオカルトでコーティングしているからだ。オカルトでも許されるのは当然これが虚構、つまりフィクションの「たかが」ゲームだからにすぎない。そのうえ日本では多くのナンバリングタイトルがZ指定(R-18)になっており、アサシンたちは、元はアラビア語の「真実はなく、許されぬことはない」という信条に生きている。困った敵がいればすぐに暗殺して事を済まそうとするし、無辜の民にグーパンを食らわせることも厭わない。
 
「アサシンクリード」はそれほど厳しくはないけれど基本的にアンモラルな作品であり、モラルやルールの顔をして支配しようとする権力に対する抵抗を描こうとしている。いくら冒頭で思想信条を異にする多様性あるスタッフによって制作されたとはいっても、今後表だって、堂々と中等教育の現場に入り込んでよいものかという疑問は、つまり「アサシンクリード」のようなコンテンツに「歴史」という形式の真理を代表させるにはマズくないかということに尽きる。
 
▶︎歴史の「ガワ」

当然、ここまで述べてきたことは「ディスカバリーツアー」の無料配布そのものが問題であるということではない。でも、これはコンテンツと教育をめぐる極めてシリアスな問題なのである。最近はすっかり下火になってしまったように想うけれど、シリアスゲームという概念が流行ったことがあった。シリアスゲームについての詳細は諸書にゆずるけれど、テロリストと正規軍が同じゲームシステムでプレイするということの問題が取り上げられたことがあった。言うことを聞かない相手を射殺する仕事は変わらなくても、所属する陣営なり思想なり立場なり「ガワ」はいくらでも替えがきくのだ。

と、ちょうどテレビをみていたら、とある鉄道に乗って物件を買いあさるゲームのCMで「地理は○○で覚えました」という疑似インタビューが映った。ゲームを通じて歴史に詳しくなることは確かにあるだろうが、そこでは史料を読み込んだり、テキストと触れたりするのではなく、ただ単にそういう「ガワ」があるというだけにすぎない。その「ガワ」を作る努力や労力の大変さは横におくとしても、ここで見られる「覚えた」事柄は、たんに関心が引かれたというだけの方が正しい。『Plague Inc.』(プレイグインク)を遊んでも実際の感染症が収まらないのと同様に、歴史的なガワがあるゲームは、あくまでゲームであって歴史ではない。

歴史ではないこのような「歴史のガワ」は、観光や教育といった社会的有意性を楯に、正史の位置をこしたんたんとねらっているのだ。このようなコンテンツと虚構と教育をめぐる緊張は、インターネット時代になってさらに複雑怪奇な様相を呈しており、それらについてどうしたらいいのかは僕にもよくわからない。

▶︎偽史にすがりたくなる時

わからないけど、ほったらかしにしていい問題ではない。中学校か高校なら、1学級に数人は「日本史」か「世界史」教科が嫌いで、本当の歴史はインターネット上にある陰謀論で満ちあふれた動画が教えてくれているのだと信じる学生がいるはずだ。教科書に書いてある歴史は国家や、アメリカや共産党員の陰謀によって捏造された偽史であり、本当の日本人は清廉潔白な大アジア主義者であり、その歴史は、眼前にいるバカな教師がグダグダ話す得点稼ぎとは無関係な真理なのだし、その真理のためであれば人種なり民族なり性別なり遺伝情報なり見た目なりでの差別も致し方ない、と。

そうした歴史観が受容される背景はいろいろある。文化資本の違い、教育環境、狂気に孤独。いずれにせよ、頭の中に入り込んだ「偽史」は、簡単には離れない。彼らにとって都合のいいだけの「歴史」に慰撫されてしまえば、それを否定する正史を学ぶ作業になんの意味を持ちうるだろう。

でも、じゃあ学生たちが関心を抱くためにコンテンツに触れることはダメなことなの? ダメ、と絶対の自信をもって言える人はほとんどいないだろう。「入口」になるなら、それはなんだっていいじゃないか、というご意見にも頷ける。ただしそれは入口から入って変な藪入りしないという条件付きだ。でも藪入りも含めての勉強じゃないの? というのも一理ありそうな気はする。

これは好き嫌いの話ではない。井手口彰典は、初音ミクの音楽授業実践についての論文で、音楽教育としてクラシックや伝統音楽などの限定的な作品だけを教えるという価値観はありうると述べつつ、しかしそれらに学生たちが興味関心を常に抱いてくれるとは限らず、現代における音楽環境のあり方を導入することでより身近で切実な音楽教育が可能になるのではないかと提言している。

音楽教育にある「クラシック」と現代をめぐる問題は、国語や歴史教育にも突きつけられている課題でもある。『源氏物語』や芥川龍之介や太宰治が好きな学生はいるに違いない。しかし、それらとは異なる、現代に生きる学生たちにとっての切実なコンテンツは国語・歴史の領域で扱う必要はまったくないのだろうか? 興味が無いことは学ばなくてよいことなのだろうか。もちろん教育的観点から「一切無い」という立場はありうる。でも、厳しい競争に晒される教育コンテンツはそれに対して「yes」を唱えるだろう。多少の「偽史」は仕方ない、だって君たちが「楽しめる」んだから。だからぼくらを選んでねというわけ。

▶︎オカルトと興味関心の隣で 

というわけで、オンライン授業の世界で、教育に参加するプレイヤー(企業や組織)は爆発的に増えたが、それらの競争は主に学生の興味関心をめぐって行われるようになった。

この興味関心の議論の横には、オカルトじみた魔術の世界が広がっていることに注意しておかなければならない、というのが今回言いたかったことだ。今後、さらに多様化・多種化する教育の世界は「興味関心」の奪い合いになっており、その延長で歴史観光的な視点と評価に支配された世界は「物見遊山の価値」をめぐって、オカルトを含んだ何でもありの世界へと変貌するだろう。
 
かつてシチュアシオニスト・インターナショナルの代表的なメンバーであったギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会』の断片的な記述において、産業構造の変化が人々の「余暇」を奪い合う未来を予言していた。そして、降ってわいたような「余暇じみた」オンラインやテレワークの日々は、非正規や派遣切りにあう人々の犠牲と苦難をよそ目に、「余暇」を奪いあうコンテンツで埋め尽くされそうになっている。それは興味と関心をひかないものを無視し、無限にあるコンテンツのなかから、関心をひくもの、「スペクタクル(見世物)」になるものだけをチョイスするように消費者(学生もね)を誘導している。

しかしぼくは「関心がもてない」とか「興味が持てない」こともそれと同じぐらい重要なのではないかと考える。理解出来ない、共感できない、なんで存在しているのかわからない。言葉は通じるけど自分とあまりにも違いすぎる何か。それは哲学や神学の世界で「他者」という説明しづらい存在として考えられてきたものだ。他者とどうやって、どうしていくのかを文学は長いこと考えてきた。けれども、多種のウェブサービスがステークホルダーとして参入した結果、教師は人ではなくサービスそのものになってしまった。学生は、一人の血の通った「人間」ではなく、出席なり成績なり技能習得なりのパラメータで構成される一つの「アカウント」になってしまった。「サービス」と「アカウント」からなるオンライン授業ワールドにおいては、対面授業にあった「他者」と授業を共有する時間の意味が根本的に変わってしまっている。だから、オンライン授業ワールドにおいては、人文学が考えてきたような「他者」や「人間」についての問いかけは放棄されつつあり、実際に放棄されている。教師はどれだけ利便性が高く計測可能な学習効果を生み出すサービスであるかが問われ、学生はそのサービスのすぐれた利用者であることだけが求められる。この世界の人文学は、かつての教師―生徒の関係を再構築しなおさなければならない。だけど、無関心や無関係から始まる関係をオンラインの世界で紡ぎ出せるのだろうか?

この世界では、他者とのコミュニケーションや史料の精読よりも、お金がもらえるかもしれないオカルトのほうが説得力をもってしまう。真理の多くは退屈で窮屈で常識的で無意味に見える。そして常識は退屈だ。わたしたちの常識を形作っていた知的な何かが、興味ひかれるオカルトまみれのリッチコンテンツよりも何か大切なものを担っている。そんなことなど、すぐに忘れられてしまうのだろうか、それとも、退屈冗漫で常識的な私たちの歴史は、その大切なものを守り抜けるだろうか。

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