木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』より、序章「怪異を「つくる」」の冒頭(原稿[校正中])を公開

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

間もなく刊行する、木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』(文学通信)より、序章「怪異を「つくる」」(冒頭の一部)を公開します。ぜひお読み頂ければと思います。

------------

本書の詳細はこちらから(ご予約受け付け中。2020.3中旬刊行予定です)
文学通信
木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』(文学通信)
ISBN978-4-909658-22-7 C0020
A5判・並製・カバー装・396頁
定価:本体2,800円(税別)

------------

序章 怪異を「つくる」

木場貴俊


 本書は、日本近世、特に江戸時代の「怪異」という視角から、その時代を生きた人や社会のいとなみについて考えていくものです。
 ここでは、導入として、書名の意図と本書の内容について少し話をしておきたいと思います。

❖怪異とは

 本書では、「怪異」を次のように定義して使っていきます(以下、鉤括弧をはずして使います)。

    あやしい物事を指し、化物・妖怪・不思議などと表現する対象を包括する概念(天変地異や憑物も含む)

 あやしいという感情は、人や人の集まりである社会が日常・通常とは異なる、あるいは理解の範疇を超える状況に陥ったときに喚起されるものです。怪異を考えるということは、逆説的に、人や社会にとっての日常・通常、そして常識を考えることにもなるのです。
 ただし、注意しなければならないのは、何に対してあやしいと認識するのかは、時代によっても地域によっても大きく変わることです。また、同じ社会の中でも地位や職業、性別、世代、学問、宗教など、さまざまな場合によって、その認識は違ってきます。
 例えば、御殿(ごてん)の屋根に何羽もカラスが群れて留まっていたとしましょう。今だと、珍しいと思うか、または何も思わないかもしれません。しかし、古代や中世の日本では、国家的な一大事、すなわち怪異と認識されて恐れられる可能性が高かったのです。何故カラスの群集を怪異だと認識したのか、そもそも何故怪異は国家的な問題とされたのかなどの問いについて、さまざまな角度から考えてみるのが、本書の目的です。
 各時代(=時間)における地域・社会(=空間)的な特徴を「歴史性」と呼ぶならば、日本近世の怪異の持つ歴史性を明らかにしていくことが本書の目的だ、と言い換えることもできます。そのため、先の怪異の定義は大枠のニュートラルなもの(広義の怪異)で、その内には限定的な意味を持つもの(狭義の怪異)が含まれています。その狭義の怪異については、表記を変えてわかりやすく説明していきます。

❖「つくる」いとなみ

 ある物事を怪異だと認識するのは、人間です。たとえ石が宙に浮いた、山を越えるほどの大きな蛇がいた、夜の川辺で小豆(あずき)を磨ぐような音がしたなどの出来事も、人がいなければ、人が認識しなければ怪異にはなりません。つまり、人がいて初めて怪異は成り立つのです。
 こうした怪異に関わる人のいとなみを、本書では総じて「つくる」という言葉で表現してみたいと思います。
「つくる」いとなみは、多種多様です。怪異だと認識することも、当然「つくる」いとなみです。ある物事を誰がどのような理由で怪異だと決めたのか、その判断は、歴史性を帯びています。例えば、古代の律令国家では、国家、つまり政権しか怪異の認定をすることができませんでした。もしも個人が勝手に「あれは怪異だ」と言いふらしてしまえば、その人は処罰を受けることが法で決められていたのです。誰(個人・共同体・国家など)がどのような理由で、特定の物事を怪異だと認識するのか、言い換えれば、誰が怪異を「つくる」のでしょうか。
 また、何故怪異だと判断するのかという理由、その怪異にどう対処すればよいのかということも「つくる」いとなみに含まれます。その背景にあるのは、学問や宗教、民俗などに根ざした「知(本書では、知識や知恵といった、立場や状況に応じて情報が体系化されたもの、と定義します)」があります。怪異と「知」の歴史的な関係を、本書では特に重視しています。
 もちろん、怪異を表現することも大事な「つくる」いとなみです。物語を創作したり、絵や彫刻を制作したり、人が仮面を被(かぶ)って舞ったりといった、文芸や芸術、芸能、そして娯楽など、これまで人はさまざまな手段と思考から怪異を表現してきました。昨今日本の「妖怪」が名前と容姿を持つキャラクターとして、日本国内だけでなく世界でも注目されていることは、つくられた怪異の歴史の一場面です。
 怪異を表現するという意味では、言葉も欠かすことができません。はるか昔の怪異について、我々は文字を通して多くを知ることができます。怪異、妖怪、化物、不思議といった言葉は、どのような場合に用いられたのか、それぞれの言葉の共通点や相違点、相互の関係を考える必要があります。また、鳴動(めいどう)などの事象(コト)や河童や天狗などの物象(モノ)といった特定の怪異への名付けも「つくる」いとなみです。名前や記録行為など、言葉にも歴史性があるのです。
 このように、人のいとなみ全てに怪異は関係しています。そうした意味で、怪異が如何につくられたのかは、人がどのように生きてきたのかを考えることにもなるのです。

❖怪異を歴史学的に考える

 私は、歴史学――特に、日本近世史――を研究しています。歴史学は、過去を生きた人びとや社会のいとなみ――それ自体を、文化と言い換えることもできるでしょう――を明らかにする学問です。本書は、「つくる」をキーワードにして、怪異の歴史性から日本近世の人びとや社会のいとなみを考えるものです。
 怪異を歴史学――日本近世史研究――から考えてみた場合、その研究史を見てみると、いくつかの課題が浮かび上がってきます。研究史の詳細は、「おわりに」第一節で述べているので、そこを参照していただくとして、ここでは概略を述べるに留めておきます。

 日本史でも古代や中世では、国家や王権に関わる政治的な問題として、あるいは社会生活上における通念的な問題として、一九八〇年代頃から研究が蓄積されてきました。また、世界に目を向けると、ヨーロッパのアナール学派などでは、怪異(「驚異」などと表現されます)の研究は、盛んに行われています。
 他方、日本近世の場合、古代・中世に比べると研究は少なく、その成果を十分に蓄積していないのが現状です。その理由は、端的にいえば、怪異に関心が無かったため、より具体的にいえば、近世から近代への流れ(近代化)を重視する研究動向の中で、怪異は滞留・逆行するものと見なされたために、研究対象にされてこなかったのです。実際、近代では怪異は啓蒙・排除される対象となりました。哲学者井上圓了(いのうええんりょう)が「妖怪学」と称して、前近代的な対象を「妖怪」と表現し否定したのは有名です。そうした近代化の過程を明らかにする上で、怪異は捨象されたのです。
 しかし、怪異が近代的ではないということは、裏返せば、近世という時代の特質を明らかにする格好の素材ということになります。近世史研究でも、近年ようやくさまざまな分野で怪異が取り上げられるようになってきました。ただし、トピック的に扱われることが多く、怪異を中心に据えて扱ったものはまだ少ない状況にあります。今、怪異を使って研究することが、近世史研究にとっていかなる意義を持つのかを提示する必要性が問われています。
 こうした状況を踏まえて、本書で考えるべき課題を大きく四つ設定しました。

怪異を記録した(つくった)意味
 一つは、近世の人びとは何故怪異を記録した(つくった)のでしょうか。これは、歴史学の根本的な問いです。怪異が起きたということは、当事者にとって異常な出来事、すなわち事件です。そして、記録といういとなみには、記録をした人びとの事情(立場や思想、利害など)が反映されています。これらを通して、事件としての怪異が記録される=つくられる意味を考えなければなりません。

中世から近世へ
 二つは、中世から近世への流れを考えることです。先ほど述べたように、古代・中世における怪異の研究は蓄積されてきました。これらの成果で明らかにされた事実が、続く近世段階において、連続していたのか、あるいは断絶したのか、はたまた変容したのかを確かめなければなりません。この作業を通して、怪異を通史的に理解することが可能になります。
 そのために欠かせない視角が、政治です。古代・中世の怪異は、政治と切り離して考えることができません。次代である近世の政治と怪異の関係を押さえる必要があります。近世の怪異というと、民衆文化との関係が従来よく取り上げられてきました(歴史学以外の学問でも同様)。政治と怪異の関係を明らかにすることは、上(政治)と下(民衆世界)を繋ぐことで、近世の怪異を立体的に理解することを促します。また、政治と怪異の関係を考える際、宗教と学問が大きく関与していたことにも注意しなければなりません。

学問と怪異
 三つは、「知」、特に学問と怪異の関係です。近世の専門的知識を持つ人たち――知識人――も怪異に並々ならぬ関心を持っていました。歴史教科書に載る人物の多くも、怪異に注目していました。そうした関心を、単に趣味的な嗜好と片付けることは容易です。興味は、好奇心から生じるのですから。知識人の怪異への関心には、趣味的な部分があったことは否定しません。しかし、彼らはむしろ学問的ないとなみの対象として、怪異に注目していました。本書では、近世になって発展する儒学(じゅがく)と本草学(ほんぞうがく)を中心に取り上げます。例えば、儒学では『論語』の「子、不語怪力乱神(子、怪力乱神を語らず)」という条文があるにも関わらず、怪異(怪力乱神)に関心を持つ儒者が少なからずいました。儒学に留まらず、知識人が何故怪異に関心を持つのか、その関心の質を問うことが大事です。知識人は、怪異をどのように考え、それがその人の思想の中でどのような位置にあったのか。さらに、個人の思想内だけに留めず、それが社会とどう関係していたのかについても考察していきます。

表現される怪異
 最後に、怪異をどのように表現したのか、そこにはどのような背景があり、また社会にどのような影響を与えたのか。本書では、言葉と絵画について考えてみます。
 近世の怪異については、国文学や民俗学など、歴史学以外の学問分野の研究蓄積が豊富です。そうした研究成果を活用しながら、怪異の歴史性と近世社会との関係性を、歴史学の視点から明らかにしていきたいと思います。

------------

本書の詳細はこちらから(ご予約受け付け中。2020.3中旬刊行予定です)
文学通信
木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』(文学通信)
ISBN978-4-909658-22-7 C0020
A5判・並製・カバー装・396頁
定価:本体2,800円(税別)

------------