古代文学会 2月例会(第722回)(2020年2月1日(土)、首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス )

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研究会情報です。

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古代文学会 2月例会(第722回)
日時 2020年2月1日(土) 午後2時より5時まで
場所 首都大学東京 *秋葉原サテライトキャンパス *※通常とは会場が異なります

発表 工藤怜 氏
題目 石見相聞歌「靡けこの山」

要旨
本発表の考察の対象とするのは、「万葉集」の柿本人麻呂作石見相聞歌第一歌群である。特に長歌の末尾に位置する「靡けこの山」の「靡け」という言葉の表現性について考えたい。この「靡け」を諸注釈書では、見ようとする対象の障害となる山をなくし、対象が見えるようにするといった意味で、山に「平らになれ」「伏せよ」と命令したものだと解釈されている。しかし、「靡く」は当然ながら「平らになる」や「伏す」といった言葉とは意味を違える。そこで、なぜ「靡け」と山に命令したのか、そして、そこに「靡け」という言葉が選ばれ、その言葉でなければ表現し得なかったものは何であるかが問われなくてはならない。
「靡く」の表現の特質を「万葉集」の用例から検討すると、「靡く」は「どのように靡くのか」といった靡き方、靡く「方向」を強く示すものであることが明らかになる。加えて、「靡く」は「寄る」を伴いつつ景物の描写に詠まれることにより、人の心の状態の比喩として働き、どのように心が靡き寄っているのかという「好意の方向性」を示す表現性を持つ。「妹」が「寄る」ことが詠まれつつ、末尾において「靡けこの山」と締め括るこの歌の構造に照らしても、ここには「靡く」が持つ表現性を読み取るべきであろう。歌における心物対応という視点から見れば、景物である山に「靡け」と命令することには、今現在の山のありようと心のありようとが一致していないことが読み取れ、それを「靡け」によって一致させたいという願望がある。
その心のありようは、どのようなものであろうか。「靡けこの山」という命令の目的の位置にある「妹が門見む」に注目し、「妹が門」の用例を調査すると、「門」は男が「見に行く」場所であることが明らかになる。つまり、自らと妹を遮る山を前にして、現実には適わないものの、心は妹の門を見に「行く」ことを求めているのである。
そうした心のありようを踏まえて「靡けこの山」を読み解けば、心が妹へと向かう「好意の方向性」と等しく、山が旅人から妹へと「靡く」ことを求めている表現であるということができる。
本発表は、以上のことを、具体的な用例の分析を示しつつ述べようとするものである。

司会 猪股ときわ 氏